その言葉だけで、もう
前方、霧の向こうに相手の気配を察知してゼクシオンは相手に向かって素早く踏み込む。どんな小さな隙も、自分から立ち向かわねば決して敵わぬ相手だ。
たどった気配を頼りに一気に間合いを詰め、突き出した拳はしかし空を切った。攻撃の直後が一番隙が生まれる。すでに背後に相手の気配を濃く感じ、距離を取りながら振り返った。霧の向こうに相手を見た。すぐそこに在る姿は大きいのに、ほとんど気配を感じ取れなかった。戦い慣れているものの立ち振る舞いだ。きわめてゼクシオンにとって不利な状況であるのは、ここでは魔法が使えないということも大きな要因である。
相手の姿をとらえ、今度は正面から突き進んでいく。次々と繰り出す攻撃も容易くかわされてしまう。が、身体をひねって振り上げた足技が相手の胴体に入った。やっと攻撃が入った。が、喜ぶ間もなくそのまま足を掴まれてしまい、身動きが取れなくなる。ぎり、と掴む手が足に喰い込む。頭上から相手の拳が迫ってくる。考える隙は無かった。
「っ!!」
身を縮めてゼクシオンが目を強く瞑ると、突如辺りに火の手が上がった。足を掴む手も炎に包まれ、相手は驚いて手を離した。
「あっ……!」
ゼクシオンが小さく叫ぶ。防衛本能だろう、危機を察知して魔力がでてしまった。
相手が後ずさったのを見ると、ゼクシオンは一気に距離を詰め――
「大丈夫ですか、レクセウス!」
同胞は炎に包まれた腕を庇っていたが、ゼクシオンから敵意が消えると火の手もおのずと鎮まった。
「大丈夫だ、手袋をしていたし、すぐ鎮火したからたいしたことはない」
「あの距離で火術を受けてよくそんなことが言えますね、早く見せてください」
レクセウスは動じていないようだったが、ゼクシオンは無理矢理レクセウスの手袋を脱がせた。皮膚の表面は赤く腫れていたが、レクセウスの言った通り手袋が功を奏して深い傷には至っていないようだ。手持ちの傷薬で十分だとレクセウスは渋るが、自分の能力を制御しきれなかったせいだ、とゼクシオンは入念に回復魔法を施した。
「……すみません、咄嗟に魔法が出てしまって」
ゼクシオンはうなだれて言った。二人が戦闘をやめたので、辺りの濃霧は晴れ、四方を白い壁で囲んだ無機質な部屋の状態に戻っていた。ここは、機関の訓練所だ。
「魔法を組み合わせて闘うのは悪くないと思うが」
その方がゼクシオンの強みが生きる戦い方になる。
慰めのつもりではなかったけれど、そうと解釈したのか「それでは意味がありません」とゼクシオンは目を吊り上げてレクセウスの言葉を切り捨てた。
「もちろん実践ならそうするでしょう。けれど訓練中くらいは自分の肉体のみで戦うと決めたはず。魔法を使った訓練なら外のエネミーで事足ります……何のためにあなたに特訓を頼んでいると思っているんですか」
淡々と正論をぶつけられ、静かなる豪傑は閉口する他ない。
◇
折いって話がある、などと言われゼクシオンから戦闘訓練の提案を受けたのは、もうひと月ほど前になる。
あまりに突拍子もない申し込みにレクセウスはゼクシオンの意図がかわからなかった。
「僕も少し体力をつけた方がいいと思って」
「こういう相手にはあなたが適任でしょう」
「で、いつならいいんです?」
ゼクシオンの言い分は曖昧ながらも、意志は固いようで半ば強引に話を進めていった。
突然の提案に驚いたけれど、日頃から彼への協力は一切惜しまないつもりだ。ゼクシオンに合わせるかたちで任務の合間に時間を取り、二人での戦闘訓練が始まった。当然、他の機関員には公にしていない。
いくら体力・筋力ではレクセウスの方が勝っているとはいえ、ゼクシオン相手に何かを教えたことなどないのでレクセウスは当初困惑しきりだった。
「別に講義を開いてくれとは言っていませんよ。魔力を使わないでも戦えるよう、手合わせに付き合ってほしいだけです。あなたならわけもないでしょう」
訓練所に立つと向かい合いながらゼクシオンはこちらを向いてもう臨戦態勢を取っていた。
「僕とあなたでは体力、体格共に差がありすぎます。こっちは本気でいかせてもらいますよ」
そういうが早いかゼクシオンは地を蹴っていた。飛んで来た拳をレクセウスは腕で受け止める。攻撃を防いだと思った次の瞬間には、瞬時に身体をひねって足技が繰り出される。宣言通り、容赦なかった。小柄なおかげで俊敏な動きはレクセウスとは違った戦い方だ。体術に関しても全くの初心者という動きでもなく、攻撃もよどみなく繰り出すことができている。魔法特化と思わせておいてこれだけ動けるなら十分ではないだろうか。
(だが……)
攻撃を受け流しながらレクセウスは冷静に相手を観察する。思った通り、一撃はそう重くない。スピードに特化して手数でカバーできれば実用的と言えようが、肉弾戦に慣れていない弊害がすぐに出てきた。
体力が続かないのだ。戦闘に必要な持久力がゼクシオンには足りない。最初こそ俊敏な動きを見せていたが、すぐにそのペースが落ちていくのが手に取るように分かった。呼吸が乱れるのも早い。
何度目かの攻撃を手のひらで受け止めると、そのまま相手の手首を掴み、捻り上げた。もちろん加減はした。大した痛みは与えていないけれど、動きを封じられてゼクシオンはその場に膝をついた。……時間にして、おそらく一、二分程度のことだった。
掴んでいた手を離し、レクセウスはゼクシオンの背を支え助け起こした。ゼクシオンはすでに息が上がっていた。普段の彼の戦闘スタイルは完全後方支援型なので、己の肉体のみでこんなに動き回ることもほとんどないため無理もないだろう。しかしゼクシオンはやはり悔しそうに唇を噛んでいた。動きは悪くなかったものの、まともにレクセウスに攻撃をいれることはかなわなかった。
「そもそもの戦い方が違うのだから気に病むことではない」
「情けなんていりません」
レクセウスのフォローもぴしゃりと切り捨てられる。
動きの評価を求められ、気になった点をいくつか伝えた。ゼクシオンは黙ってそれを聞いていたが、納得したように素直に頷いてまた思案に暮れた。もう対応を考えているのだろう、相変わらずまじめな男だ。
「結局はまず、基礎体力をつけるところから、ということですね」
諦めたようにゼクシオンは言った。自分でも己の弱点は理解しているようだ。
「しばらくは体力づくりに努めます。また折を見て、手合わせを頼めますか」
「……そっちの方も付き合おう」
「え、いいですよ、さすがに」
悪いです、とゼクシオンはばつが悪そうに言う。悪いことなどあるものかと思う。
(……彼に面と向かって頼られることなど滅多にないのだから)
今度はレクセウスの方が強気に主導権を取る番だった。まるで熱心な様子にゼクシオンもすぐに考え直したようで「正直、助かります」と胸の内を露わにした。それがまたレクセウスにとって喜びに似た感情を想起させる。
こうして二人は毎日のように特訓の時間を取るようになっていったのだった。
◇
何故、ゼクシオンは急にこんなことを始めたのだろう。
最初に提案を受けたときからレクセウスの頭の中に常にこの疑問はあった。
それとなく理由を聞いても『弱点は少ないに越したことはないでしょう』と辺り差しさわりのないことを言ってかわされたけれど、本当は何か明確な目的があるにちがいないとレクセウスは考えている。
魔力を封じられた時に弱い、というのは確かにそうかもしれないが、ゼクシオンの能力自体は決して低いものではない。機関内での魔法攻撃のレベルの高さにおいて彼の右に出るものはそういないとレクセウスは考えているし、多くの機関員も同じように考えるだろう。機関の任務で相対する程度のエネミーならば懸念も不要だ。彼は、いったい何を恐れているというのだ?
日々の任務に加えて毎日のように二人で特訓に明け暮れた。
体力を鍛えながら戦闘における立ち回りを学ぶ。思った通り、ゼクシオンは持ち前の呑み込みの速さや吸収力の高さでみるみる戦闘力をあげていったが、頭の回転が速い分、身体の動きが脳の判断を待ってしまうのが玉に瑕であった。
「……筋は良い。だが実践では考えるより先に身体が動かなくてはだめだ」
「せっかく少しは動けるようになってきたと思ったんですけどね」
息を切らせながらゼクシオンは苦笑する。
「まったく、少しくらいあなたの本気を引き出せるようになりたいものですよ」
ずっと加減して訓練にあたっているのが分かるから悔しいのだろう。けれど怪我をさせるわけにはいかないし、自分が本気を出すのはごく限られた場面のみだ。レクセウスはとなりで汗を拭っている男をじっと見つめた。たとえば、大切な人を守るとき……
「…………鍛錬あるのみだ」
胸中の思いを誤魔化すように、ちょっと相手の腕を小突いたつもりがそれなりに力が入ってしまったようだ。「痛!」とゼクシオンが腕をさする。
「あなたってほんと攻撃に関して気配消すの長けてる」
「油断するんじゃない、片時も」
その言葉は、自分自身にも向けていた。油断してはいけない――この小さな機関の中でさえも。
そのときレクセウスははたと気付いた。
彼が危惧しているのは、この機関そのものであるという可能性に。
(内部謀反――?)
あり得るだろうか。自分たちよりあとに名を連ねる面々のことを思い出す。得体の知れない連中が増えたのは事実だが、いずれも同胞がこれと見込んだ者たちであるうえに、全員ゼムナスの首輪付きだ。この小さな輪の中で余計な手出しなどできるはずがないとレクセウスは思いかけたが、ゼクシオンの言葉を思い出した。
(……用心に越したことはないということか)
急に気が引き締まる。
ゼクシオンはおそらくずっと先までを見据えている。レクセウスが、他の機関員が見えていないであろうその先まで。彼が遺憾なくその知恵と能力とを発揮できるよう、彼の足元は自分が守りたい。この名を授かったそのときから、自分が彼の盾となり剣であろうと固く自身に誓ったのだ。その気持ちは今も変わっておらず、更に強固なものとなる。
「あなたと話しているときはつい油断してしまうんですよねえ」
そんな決意の横で何気なく放ったゼクシオンの言葉に、静かなる豪傑は言葉を失うほかない。
◇
「特訓に付き合ってくれるお礼をしますよ」
あるとき、ゼクシオンが急に言った。特訓とは何の関係もなく二人で歩いているときだったので、レクセウスは最初何の話かわからず目を瞬いた。
何がいいです? 欲しいもの、何かありますか? 詰め寄るように聞かれて、返答に窮する。第一、謝礼を受け取るほど自分の何かを割いているわけでもない。
「特に何も……」
レクセウスの返答に、当然ゼクシオンは納得しなかった。考えておいてくださいよ、と目を吊り上げるのでレクセウスは困り果てる。
「……では、おれにも魔法を教えてもらおうか」
ふと思いついたその案は、我ながら妙案だと思った。互いを高め合うことは自身のためにも、機関のためにもなりえるし、それでいて彼と過ごす時間もまた増える。
などと考えていたのに、ゼクシオンは一言「その必要はありません」と切り捨てるのでレクセウスは思わず拍子抜けした。
「そこは僕がいますから……あなたの背中は守りますよ」
なんてことないように、ゼクシオンはさらりとそう言ってのけた。
返す言葉を失い隣を歩く男の顔を見るが、長く伸ばした前髪でその表情はよく見えず、静かなる豪傑は、やっぱり口を閉ざすほかない。
20250506