隠し味にするには少し苦い

 休日の朝は穏やかな目覚めから始まる。
 今日は白衣は着ない。タイもなしだ。
 身なりを整えたイェンツォが朝食の用意をのために厨房へと続く廊下を歩いていくと、調理の匂いがあたりに漂っているのに気付く。バターを火にかけた少し焦げつくような匂い。
 連想される好きなメニューに気をよくしてイェンツォは扉を潜り、思った通り、そこにある大きな背中に向かって声をかけた。

「おはよう、エレウス」

 振り向いたエレウスは、イェンツォの姿を認めると無表情のまま「おはよう」と低い声で呟いた。ジュー、と音をたてるフライパンに負けてしまいそうだ。いつもの門衛の服装の上から白いエプロンをかけているのはどこかちぐはぐなのに妙に似合っていて面白かったけれど、彼は至って真面目なので何も言わないでおいた。

 休日と定めて白衣を纏わぬ日を作っているイェンツォであるが、エレウスの方は常々制服を身に纏っていた。曰く、門衛に休日はないのだと言う。もちろんそんなことはない。彼の相棒は定期的に休日を満喫しているし、イェンツォや賢者をはじめとした周囲の者も皆エレウスを気に掛けているのだけれど、彼が頑ななのだ。自分の領域を守ろうとする強い意志は頼もしい。少しくらい気を抜いたらいいのにとイェンツォは思うけれど、ここでは皆それぞれ抱えるものがあるから口出しはできないでいた。自分だってこんなふうに落ち着いた気持ちで日々を過ごせるようになるまで、いったいどれだけの時間を要したことか。それもまた彼の助けが大きい。せめて彼が自分と過ごす時間が少し休まるものであればいいのにと思う。

 イェンツォが現れたとてエレウスは話をするでもなく無言のままてきぱきと支度を進めている。言わずもがなそれはイェンツォのために用意された朝食であった。いつからか休日の朝はこうしてエレウスが用意してくれている朝食を一緒にとることが常となっている。おかげで一緒に過ごす時間が確約されているのはイェンツォにとっては嬉しいことだった。

「エレウスはもう済ませたの?」
「まだだ」
「じゃ、一緒に食べよう」

 邪魔にならないように飲み物の準備をしてイェンツォが先に席について待っていると、程なくして二人分の皿を持ってエレウスがやってきた。長いテーブルの端に向かい合って座った。皆が顔を揃えて食事ができるようにとずいぶん昔にあつらえたものだった。各自忙しくしているのでその思惑に叶ってこのテーブルが埋まることは滅多にないけれど、そんななかでもイェンツォとエレウスはよく揃ってテーブルについている。

 テーブルに置かれた皿の上には、湯気の立つオムレツが乗っていた。

「すごい、プロみたいだよ」

 イェンツォは目を輝かせて皿の上の作品を覗き込んだが、褒めてもエレウスはいつも通りの表情を崩さない。一文字に結ばれた唇の間から、うむ、とかなんとか聞こえたかもしれない。
 オムレツは彼の作ってくれる朝食の定番だった。ふわっと柔らかな曲線を描くフォルム。フォークを入れるととろりとした半熟具合も絶妙。鍛錬を積んだエレウスのオムレツは今やシェフも顔負けだ。具はその日によって違うけれど、さりげなく入れられた苦手な野菜だって彼の手にかかればなんでも美味しかった。

「昔は焦げてたのにね……」

 何の気なしに過去の話を引き合いに出すと、ポーカーフェイスのエレウスもこの時ばかりは苦い顔になる。

「毎回その話をするな……」
「だってさ」

 イェンツォはそういって微笑んだ。

「あれが一番美味しいオムレツだったんだもの」

 エレウスは黙ったままだ。無表情に戻ってしまい、何も言わずにコーヒーカップを口に運んでいた。イェンツォも食事に手を合わせてから自分のために用意された朝食に取り掛かる。

 完璧な朝食を前にしながらも、心は過去に思いを馳せていた。
 どんな豪華で完璧なものにも敵わない、忘れられない特別な朝食のことを。

 

 

 

 

 今の姿に戻って間もないころは誰しもが不安定だった。元の肉体へ意識が戻ったことに対しては、安堵よりも混乱の方が大きかった。イェンツォもまた新しい自分をすぐには受け入れられず、忌まわしい記憶による後悔と嫌悪感に長きにわたって苛まれ続けた。何事もなかったかのように過ごしていくことなど、あの時はできなかった。街の復興と研究にがむしゃらに身を費やすことでどうにか何も考えないようにしていたが、食事もろくに喉を通らずみるみる痩せていった。周りは心配の声をかけども、やはり同じ気持ちを抱えていた者同士だったからだろうか、軽々しく深入りはできなかった。否、本当は誰も互いにそんな余裕もなかったのだと思う。

 夜はほとんど眠れなくなった。意識すると余計に眠れないから、強制的に意識が途切れるまで物事に打ち込んでいた方がいい。そんな暴力的な理論を自分では気に入っていたけれど、当然周りはいい顔をしなかった。特にエレウスは事態を見過ごさなかった。四六時中研究所に噛り付いて離れようとしなかったイェンツォは首根っこを掴まれて部屋まで引きずっていかれたことが何度もある。肩に担がれたこともある。


 聞く耳もたず目を血走らせて寝ずの作業に打ち込んでいるイェンツォに手を焼いた研究員たちは、手に負えなくなるとよくエレウスを召還した。

「放せってば!」
 
 その時のイェンツォは珍しく荒れ果てており、声を荒げて抵抗を見せたがエレウスも頑として聞かず、土嚢でも担ぐようにイェンツォを抱えると私室へと強制連行していった。暴れたところでこの男に腕力でかなうはずもなし、惨めな気持ちになるだけだった。何もかもが嫌な時期だった。

 部屋に着くと、エレウスも一緒に室内に入り込んで錠をおろした。説教なんかされたらたまったものではない。イェンツォはなおも抵抗を試みたけれど、エレウスは何も言わなかった。イェンツォを静かに床に立たせると、黙ったまま両腕の中にイェンツォを覆ったのだった。暴れるから抑え込まれたのかと思いきや、そうではなかった。強く、優しく、静かに身体を抱く大きな腕に気付いてイェンツォはようやく抵抗をやめ顔を上げた。黙ったまま身を切らすような表情のエレウスを見た途端、張り裂けそうな感情が自分の中でも錯綜した。何度も感じた自己嫌悪の念を一層強く感じる。怒鳴られでもした方が断然ましだった。

「何も考えたくなくて……ごめん」

 やっとのことでイェンツォはそう口にした。

「……眠るのが怖いんだ」

 額を相手の胸に押し付けて呟く。

 怖いんだ。眠るのが。夢を見るのが。――首に掛かる手が。

 間際のことは、きっと一生忘れられない。浅い眠りの中に見る生々しい首に触れる感触のことを、エレウスに話したことはまだなかった。
 返事は返ってこなかったけれど、背に回された手に少し力が加わるのを感じた。みなが腫れ物に触るような目で遠くから見ていても、一歩踏み込んで痛みに寄り添ってくれるのはいつだってエレウスだった。優しさに甘えるように身体を預けると、服越しに脈打つ心臓の音が伝わってくる。生きているのだ、こんな僕たちでも。
 誰にだって抱えているものがあるはずだ。エレウスはもう折り合いをつけているのだろうか。少なくとも自分よりはしっかりしているし、過去の記憶と生きていく覚悟はありそうに見える。

「……ごめん、やっぱり少し疲れてるみたいだ。もう休むよ」

 そう言うとイェンツォはエレウスから身体を離した。一度気を抜いたからか、もう立っているのもやっとだった。
 身体を支えられながらベッドに入ったあとも、エレウスは立ち去ろうとしなかった。

「眠るまでそばにいる」
「うなされたら起こしてくれたら助かるよ」

 冗談めかして言ったのにエレウスは大まじめに頷くから、また少し心が軽くなった。
 ろくに睡眠をとれていなかったこともあり、横になると引きずられるような眠気にすぐに身を任せた。最強の門衛がそばにいるなら、今日は眠っても大丈夫な気がする。
 眠りに落ちる間際、ふとエレウスの――彼のノーバディの――迎えた最後について思いを馳せた。最後の瞬間に彼は何を思ったのだろう。自分のことも話せるくらい、もっとずっと時が経ったら聞いてみたい。

 

 

 

 

 

 翌朝、起きると部屋にエレウスがいた。寝起きの頭でなぜ彼がここにいるのか理解できず、おはよう、と淡白に述べるエレウスに、疑問符を浮かべながらイェンツォもおはよう、と返した。

「え、まさかずっといたの?」
「……そんなわけない」
「……だよね」

 頭を掻きながらそう返すも、昨夜のことは曖昧だ。あまり思い出したくない自分の醜態を晒した後は、促されるまますぐにベッドに入ったはずだった。眠るまでそばにいると言ってくれたエレウスの言葉に少し安心したら、夢も見ずに眠りに落ちたようだ。寝る前もそばにいたのに起きてもそばにいるなんて、相当心配をかけているな……と考えていたその時。

(……コーヒーの香り? それに……)

 いい匂いに気が付いて部屋を見渡すと、作業机の上にトレーが置かれているのを見付けた。湯気の立つ何かが乗っている。
 そちらを気にしていると、ずいと割り込むようにエレウスが間に入ってきっぱりと告げた。

「まだ顔色が悪い。今日は一日よく休め、エヴェンにも話は通してある」
「げ」

 おもわず嫌そうな声が出てしまったのでエレウスにじろりと睨まれる。そんなところまで話が回っているとは。もちろん心配してのことであるのは承知だ。逆らえない気迫のエレウスを前に、観念してイェンツォは「わかったよ」とうなだれた。
 エレウスは黙って頷いてから机の方に向き直った。

「朝食も部屋でとったらいい。……用意してきた」
「え、作ったの? エレウスが?」

 驚いてイェンツォは皿の上のものとそこに仁王立ちしている門衛とを見比べた。ベッドに運ぼうかと聞かれたが、立ち上がって机までいってそこに置かれたものを見た。パンが一切れとバターのほかに、簡単なサラダとオムレツのようなもの。手先が器用なことは知っていたけれど、料理までこなすなんて知らなかった。とはいえ、オムレツというより平たい卵焼きのようなそれはどこか初心者らしくもある。裾の部分が少し焦げているところも、むしろ愛嬌が感じられていい。
 などとしげしげと皿の上を見つめていたら、見咎められたと思ったのかエレウスは叱られた子供のような顔をした。

「……うまくいかなかった。作り直そうか」
「え、いいよいいよ、食べる、食べたい」

 今にも下げられてしまいそうなトレーを庇うように、イェンツォは慌ててカトラリーに手を伸ばした。
 部屋で朝食をとるだなんてどこぞの王族みたいだ、なんて思う。いや、ひょっとしたら幼少期にはそんなこともあったかもしれない。イェンツォは過去の記憶をたどった。体調を崩して起きれずにいたとき、ベッドの中にいながらにして運ばれてきた食事をした記憶。あのときも傍にいてくれたのは――……。

 口に運んだオムレツはバターの味が濃く、妙に元気が出そうな味がした。
 あたたかいものが胃に入ったおかげか、気持ちもだいぶほぐれていた。じっとこちらの様子を窺っているエレウスに向きなおってイェンツォは微笑む。

「おいしいよ、すごく」
「そうか」

 安心したのか、エレウスの表情が少し緩んだ。

「焦がして悪かった。練習したら、また食べてくれるか」
「もちろん、毎日だって付き合うよ」
「……料理人になる気はない」

 エレウスがぶっきらぼうに言うのを笑った。照れているのだ。

 優しさが身に染みる。ほっとする。嬉しいのに泣きたくなるのは何故だろう。きっとまだ未熟な心が、この感情を受け止めきれないからに違いない。

 

20240506
タイトル配布元『icca』様