とある門衛の提案
漆黒を身に纏い、感情も奪われ、その瞳が映す世界もまた闇だった。
何を目的としていたのか、何の意味があったのか、今ではよくわからない。
ただその世界の中でも一つ揺るがなかったのは、彼を信頼し守りたいという気持ち。
無力さ故それすら叶えられなかったもう一人の自分の消滅の間際を、今でもまだ夢に見ることがある。
忌々しい夢から覚めるたびに、再び生きて肉体を得たからには今度こそ何に変えてでも彼を守りたいとエレウスは強く思うのだった。
*
「イェンツォ」
彼を探すならまずは本棚から、というのがレイディアントガーデンでは常識だ。研究所のふるぼけた書庫の中にやはり彼はいた。最先端のコンピューターを難なく操る一方で、調べ物は自ら書庫に足を運び、専ら古い蔵書に頼る。頭のいい彼の考えは理解が及ばない面も多いが、『やはりこちらの方が肌に馴染みます』と優しくページを捲るその指先によく目を奪われたものだ。
名前を呼べど、当の本人は書物にかじりついたまま反応を示さない。夢中になるといつもこうだ。
仕方がないから足音を立てて近付く。それでも相手は気にも留めずページを素早く捲っているばかりだ。真横に立って覗き込むと、手元にさした影に気付いて青年はようやく顔を上げた。
「あ、エレウス。どうしたんですか」
自分の姿を認めるとイェンツォは相好を崩す。心を取り戻してから彼は随分と柔らかい表情を見せるようになった。屈託のないその笑顔が──愛しい。今エレウスが何に変えても守るべきものだと断言できよう。
手を伸ばして長く垂れ下がったイェンツォの前髪の毛先に触れる。視界の邪魔にならないようにそっと髪の毛をかきあげると、きょとんとしたイェンツォの両目と目が合った。
「イェンツォ──」
「えっ……」
真っ直ぐに見上げてくる碧玉の色をした瞳が動揺に揺れる。吸い込まれるように美しい碧眼だ。目の色は以前から変わっていないはずだが、心なしか、昔よりも明るく見えるような気がする。新たに宿った心が、その表情を映し出すからだろうか。
「な、なんですか」
何も言わずに髪の毛を掻き上げたままじっとみつめているとイェンツォは狼狽し始めるが、エレウスは構わずに思ったことを述べた。
「──髪を切ったらどうだ」
「……髪?」
イェンツォは拍子抜けた声を出す。エレウスが頷いてそっと手をはなすと、銀糸の髪の毛はさらさらと流れて再び彼の目を隠してしまう。
「見えづらいだろう。長さもだいぶ伸びた」
ここ最近ずっと気になっていたことをようやくエレウスは本人に伝えた。実際本人も鬱陶しいのであろう、資料に向かうたびに耳にかけては零れ落ちる髪を邪魔そうに掻き上げている姿が最近目立つ。季節も暖かくなってきたのも相まって、正直見ているほうも暑苦しさを感じることを否めない。
ああ……、と言うとイェンツォは目を伏せた。長い睫毛が際立ったが、前髪が流れ落ちるようにしてまた顔の半分を覆い隠してしまう。もったいない、綺麗な顔立ちをしているのに、とエレウスは口に出さず思った。
「なんだか、まだこうしてた方が落ち着くと言うか。慣れでしょうか」
そういいながらイェンツォは撫でつけるように自分の手で前髪を顔の前にそろえた。
「僕には、まだ少し明るすぎて」
そう呟く声は少し重たく、じんわりと二人の間に余韻を残した。
イェンツォの気持ちはわからなくもない。
ずっと闇の中で生きてきた。漆黒を身に纏い、感情を奪われ、その瞳が映す世界もまた闇だった。それは彼にとっても同じことだ。
加えてイェンツォにとってはそれ以前の幼少時代も決して明るいものだけではなかっただろう。輝ける庭に来る前に彼に何があったのか、その詳細は知らない。けれど賢者アンセムが彼を城に招き入れてからも長い間、彼は自分の殻に閉じこもったままだった。幼かった彼もまた、伸ばした前髪に隠れるようにして明るさから逃げていたように見えた。薄暗い泥濘の中に身を委ねていることは、慣れない外の世界から自らを遮断することができて楽だったかもしれない。
それでも。
「もう必要ないだろう。ノーバディでもない」
力強い声にイェンツォはびくりとして顔を上げた。エレウスは真面目な顔で真っ直ぐに見つめて続けた。
「昔のお前でもない」
もう、許されていいはずだ。日向を歩くことを。明日を生きることを。彼が、世界を見ることを。
日の当たる世界で彼にはずっと笑顔でいてほしい。そして願わくば、そんな彼をずっと近くで支えていきたい。再びともに生まれ落ちることができたのだから。
「それに……短くても似合うと思う」
ぼそぼそと付け加える。一応本心だ。
イェンツォはそれを聞くと、ふっと吹き出して笑った。
「……そうですね、貴方が言うのなら」
イェンツォはそういってはにかんでみせた。
「ほんの少しだけ短くするのもいいかもしれません」
逞しい腕に遠慮がちに触れると、イェンツォはエレウスを見上げる。
「ありがとう、エレウス」
心にさした影は抜け落ちたようで、自分に向けられる優しい笑顔にエレウスは安堵する。
何度だって誓おう、今度こそこの笑顔を何に変えてでも守りぬくことを。
ほっこりと二人で微笑しあった後、イェンツォは少し躊躇う素振りを見せたがやがて小さな声でつぶやいた。
「急に触れたりするから驚きましたよ」
「ああ……すまなかった」
「てっきり、キス、されるかと」
予想外の単語が飛んできてエレウスは、え、と思わず間の抜けた声を発した。
「……そんなつもりじゃなかった」
「でしょうね」
イェンツォは肩をすくめるようにして短く言うと、ぱたんと手元の本を閉じた。妙な勘違いをさせてしまったことを何と弁明しようかエレウスが迷っているうちに、本を抱えたままくるりと踵を返し部屋のドアまでまっすぐと進む。ドアを開けて出ていきかけるも、扉の間に顔をのぞかせると
「残念です」
そういって、茫然と立ち尽くすエレウスをそのままに部屋から出て行った。
がちゃりとドアが閉じられ静かな部屋に一人取り残されたエレウスは、ようやく事態が呑み込めて来るとふ、と息をもらした。
いたずらっぽく笑う彼の表情がすっかり脳裏に焼き付いていた。ノーバディの頃に見せた人を惑わす妖艶な表情と似ている。心の奥底に封じ込めたであろう彼も、また大切な彼の一部だ。
エレウスは一つ息をつくと、足早に部屋を出て白衣の背を追いかける。
Fin.
*イさん敬語ですみません。