ビターマイルド

 小さな厨房に満ちる香ばしい香りにひと時の癒しを得ながら、イェンツォは手の中の資料の束を繰る。天気の良い昼下がり、一人で過ごす午後の時間。
 待ちながら資料に目を通していたら、あっという間にブザー音が鳴り響いた。顔を上げるとサーバーにコーヒーが出来上がっているのが目に入った。サーバーを手に取って軽くゆすると凝縮された香りが立ちのぼり、散漫になっていた気分が少し引き締まる。上出来だろう。深さのあるマグカップに黒色の液体を注ぎ、資料を小脇に抱えてイェンツォは作業場へと戻る。
 選りすぐりの豆を手で挽いて、しっかり温度を調節した湯で丁寧に一滴ずつ落とし込んでいくハンドドリップコーヒーは、タウンカフェでならぜひその手間暇の時間からじっくりと楽しんでいただきたいものだが、猫の手も借りたい研究施設ではボタン一つで仕上がる全自動マシンのありがたさといったらなかった。マシンだろうと、焙煎豆を挽いて湯を通す時の香りは変わらない、とイェンツォは立ちのぼる香りを吸い込んで考える。
 部屋に戻り、資料やらメモやらがうずだかく積もった作業机のわずかな隙間にねじ込むようにカップを置いてから、うーんと伸びをして椅子に掛けた。途中にしている作業を軽く片付けてから、湯気の立つカップを両手に持ち、そっと口を付ける。きりっとした苦みに目が覚めるような感覚を覚える。眠気覚ましにちょうどいいだろう、と作業の共にするのがいつの間にか習慣になっていた。深い香りが鼻孔を抜けて、ほう、と息が漏れた。
 少しずつ口に含みその香りと苦みを味わいながらイェンツォは、そういえば一体いつの間にブラックコーヒーを飲めるようになったのだろうと不意に考えた。再び心を宿した時にはもう普通に口にしていたように思う。
 記憶をぐんと遡らせると、思い出すのはずっと昔のレイディアントガーデンでの光景。幼かったころ、周りの大人たちがこぞって飲んでいるのに惹かれて背伸びして手を伸ばしたことがあった。おチビちゃんにはまだ早いぜ、なんてブライグが茶化すからむきになってディランに注いでもらったものの、やっぱり苦くて早々に若き挑戦は敗れたのだった。
 舌にこびりつくような苦みに顔をしかめていると、すぐさまエレウスが温めたミルクをたくさん加えて甘いカフェオレにしてくれたっけ。彼の親切はわかっていたが、その当時は大いに拗ねたものだった。自分だけ子供なのをまざまざと見せつけられたようで、面白くなかったのだ。まさに子供であった自分の過去を思い出してイェンツォは一人苦笑する。
 昔話から記憶をたどりながら、だいぶ飲み進んで半分ほどに減ったカップの中のコーヒーを見つめた。黒々とした水面に、自分の顔が映っている。もう一つの過去が脳裏をよぎると、イェンツォは決まって少し陰鬱な気分になった。
 心をなくしていた時のことは……あまり思い出したくない。感情も乏しく、嗜好品などに現を抜かしていた記憶はなかった。
 ブラックコーヒーは闇のごとく底なしの黒さ。そこに映る闇の色をした自分。
 “深淵をのぞく時、──”なんて、かの奇言が脳裏を掠めた。カップを握る手に力がこもる。

「……イェンツォ?」
 急に名前を呼ばれて、部屋に一人とばかり思っていたイェンツォはびくりと跳ねあがった。カップの中の水面が大きく波打って、闇の色をした自分は見えなくなった。
 振り返ると、エレウスが同じくらい驚いていてそこに立っている。
「すまない……そんなに驚くとは」
「いや……ちょっとぼうっとしてた」
 慌てて笑顔を取り繕いながら、白衣に零してなどいないだろうかとイェンツォは自身を見下ろした。
「難しいことを考えていたんだろう」
 そこかしこに散らばした資料や本を軽く整えながらエレウスは言う。
「休憩したらどうだ」
「休憩してるんだよ」
 ほら、とイェンツォはカップを軽く持ち上げてみせた。
「ブラックなのか」
 カップをのぞき込んでそういうエレウスは意外そうで、イェンツォは呆れながらもう大人だし、などと言って見せる。一方で、わざわざ口にしているうちは本当にそうなんだろうかとも思う。
 カップの底に残る黒をちらと見た。胸の内にはまだ少し重たい何かが溶け残っている。
 ふう、とため息にも似た吐息を漏らしてカップをごとりと置くと、ずいと向こうの方に押しやった。
「……もう、いいや。悪いけど、片付けてもらっていいかな」
「? 苦かったか?」
「やっぱり僕には苦かったかも」
 そう言ってイェンツォはへらりと笑って見せる。なんだか色々な気持ちが錯綜して、黒を目にしたくなくなってしまった。
「一緒に何か甘いものでも用意しようか」
 エレウスはそう言いながら何か食べるか、と聞くも、食欲はわかずイェンツォは首を振る。
 エレウスは押しやられたカップを手に取りじっと見つめてしばらく黙っていたが、ふと思いついたように口を開いた。
「ならば、カフェオレにしてしまうのはどうだろう」
 残り少ないコーヒーにミルクを足して甘くして飲むのもいいかもしれない。そう提案するエレウスの言葉を聞いて、つい先ほど思い浮かべていた過去の光景がまた脳裏に浮かんだ。彼は、覚えているのだろうか。
 平和な思い出とともに当時の光景が思い起こされると、思わずふふっと笑みがこぼれた。
 笑う要素があっただろうかと少し怪訝そうなエレウスを見上げてイェンツォは言った。
「昔も、そうして僕に飲ませてくれたなって」
 いつだって彼は自分を気にかけてくれていた。変わらない彼の優しさが嬉しかったのだ。
 エレウスははっとした様子で、慌てて言い足した。
「すまない、子ども扱いしたつもりではなかった」
「わかってる」
 くすくすと笑う。彼がどこまでもいいやつで、そんな優しさが大切で、愛しい。心は温まり、胸の内の黒いわだかまりは甘い温情を受けて薄らいでいた。
 うーんと伸びをしてからイェンツォは立ち上がってエレウスを見上げた。
「いいね、エレウスのカフェオレ。久しぶりに飲みたいな。ここじゃなくて、どこか日当たりのいい場所で休憩にしよう」
 微笑んでみせると、エレウスも満足そうに頷いた。
「ミルクを温めてくる」
 短く言いながらカップを手に出口に向かうエレウスに、イェンツォもすぐに追いついてそっと腕に触れながら言った。
「二つ、用意してよね」



Fin.