記憶喪失になる 1
ぼんやりとした視界は一帯が白で埋め尽くされている。身体はほとんど動かない。僅かに力を込めただけでも全身に響くような痛みが走った。静脈につながれた点滴、胸部一帯に張り巡らされたコード。心電図モニターからは心音を計測する電子音が単調に発せられている。横たわる自分を囲んで見下ろしている人たちも白衣に身を包んでいて、ようやくここが病院の中の一室なのだと理解した。
何があったのか、断片的にしか思い出せない。担当医師と名乗る白衣の中年男性からは、交通事故にあったのだと説明をされた。全身打撲、肋骨骨折、そして頭部外傷。車にはねられて強く頭を打っているため、精密検査が必要らしい。名前や居住などを一つずつ確認するように質問されるが、頭の中に靄(もや)がかかったようで何もかも曖昧だ。
「まだ目覚めたばかりで混乱しているのでしょう。若干の記憶障害が見られますが、時間経過で回復するでしょうから安心してくださいね」
担当医は淡々とそういうと、詳しい話は看護師に、と言い残してせかせかと部屋を出ていった。残った看護師から精密検査の説明や入院手続きについての話をされるが、身体に残る痛みと混乱のせいであまり頭に入ってこなかった。記憶障害という単語がぼんやりと頭の中に残留する。そのうち治るから無理に頭を使わないようにと看護師からも釘を刺された。
しばらくは心身の回復に努めましょう、と締めくくって看護師が席を立った。一方的に話をされただけだったが、目覚めたばかりの混乱しきった頭は疲労困憊だ。
医師はすぐに回復するだろうと言っていたが、漠然とした不安が付きまとう。明日には何か思いだせるのだろうか、思い出せなかったらどうしたらいいのだろうか、誰か自分を知っている人がいるのだろうか。
自分の不安を余所に、看護師は一患者にはいつまでも構っていられないようで無感情にベッドのカーテンを引こうとした。
勢いよくドアが開いて病室に誰かが飛び込んできたのはその時だった。
突然の出来事に身体中の痛みも忘れて目を見開いた。背の高い、目に鮮やかな桃色の髪の毛を肩まで伸ばしている男性と目が合った。息を切らせながら血走った眼でこちらを見ている。
綺麗な人だ、と思った。その人は看護師が慌てて止めに入るのも聞かずにまっすぐにこちらに向かってくると、ベッドの横に膝をつき、泣きそうな顔になりながら自分の手を取って声を上げた。
「ゼクシオン……!」
呼ばれたそれが自分の名前なのだと、初めは理解できなかった。しかし、じわじわと浸透するように、少しずつ何かがつながるような感覚が頭の中で沸き起こり始める。
どうしてこの人はこんなにつらそうな顔をしているのだろう。泣きそうな声で、その名を呼ぶのだろう。いや、自分もこの人を知っている気がする。手を握り返して、名前を呼び返したい衝動に駆られる。でもわからない。手を伸ばせば届きそうなのに、記憶を攫えど空を掴むようでその手には何も残らない。それが、どうしてこんなにも自分を悲しい気持ちにさせるのだろうか。
触れた手から伝わる熱い体温が、どうしようもなく切なかった。