記憶喪失になる 2
ゼクシオンはベッドの中でぼんやりと時計を見上げた。面会時間も残すところ僅か。手元には本を開いているが、この時間はほとんど読み進まない。誰もいない個人用の病室はひっそりと静まり返っていて、時計の針の進む音が無意識の焦燥を煽った。
事故にあってから二週間がたったがゼクシオンは未だに運び込まれた病院で入院している。強打による亀裂骨折は安静にしていたことで順調に回復しているものの、依然として記憶障害が残っているせいだった。事故以来、自分を含む対人に関する記憶が抜け落ちていた。医師らは最初、時間経過で回復するはずだと簡単に述べたが一向に回復する見込みがなく、日を置いて検査をしながら入院生活が続いている。不安な気持ちがないかと言えばそんなことはない。学友だという青年が訪ねてきたりしたが、見慣れない顔にうまく対応できなくて沈んだ気持ちになってしまっていた。考えすぎは体に毒だと言われても、一人部屋に残されすることもなく、あれこれと考えてしまう。不安な気持ちを払拭すべく頭の中をかき分けたその先に、ぼんやりと浮かんだシルエットがあった。その記憶に触れたいと、ゼクシオンは無意識に切望する。
こんこん、と軽く扉を叩く音に急速に現実に引き戻される。背筋を伸ばしてはい、と声を上げると、ドアが開いて背の高い男性が入室してきた。身を包んだ黒いコートに柔らかそうな桃色の髪が映えている。青い目がこちらを捉えると、待ち焦がれていたその姿にゼクシオンは緊張した。
「あ……こんにちは」
絞り出すようにして声を出すが、相手は静かに微笑むだけだ。ベッドのそばまで近寄ってくれる。スマートな身なりの彼の前で床に臥すだけの自分が少し恥ずかしかった。
「すみません、いつもこんな格好で」
「気にしなくていい。体調は?」
「怪我はもうほとんど良くて。リハビリも少しずつしています」
「そうか」
それはよかった、と目を細める相手の優しい表情に胸が痛む。本当は身体の傷なんかより、記憶が戻ることを心待ちにしているに違いなかった。
この男性は、自分が目覚めた時に誰よりも早く駆け付けてくれた人だ。今の落ち着いた雰囲気からは想像もできないほど取り乱していたところを見るに、自分とは何かしらか関りの深い人なのだろう。年は随分上のようだが、兄弟というわけでもなさそうだし、二人の関係性は謎めいていた。
「……ああそうだ、これを」
そう言いながら男性は手に提げていた紙袋を差し出した。中を覗くと、文庫本が数冊入っている。入院生活が退屈だろうと、数日おきにこうして本を届けてくれていた。今の自分と彼との唯一の繋がりだ。
「いつもありがとうございます……あ、これ」
紙袋の中に自分の好きな小説があるのを見付けてゼクシオンはそれを取り出した。随分前に話題になった本だが、今でも何度も読み返している大好きな作品だった。
「これ、すごく好きな本なんです」
「そうなのか。奇遇だな」
嘘ばっかり。とゼクシオンは胸の内に思う。知っていて持ってきてくれたんでしょう? と、喉元まで出かかったが何とか飲み込んだ。それだけではない。いつだって、そろそろ読み終わるというちょうどそのころに彼はやってきて次の本を渡してくれた。一体何者なのだろう。この人は、自分の本を読むペースまで知っているのだ。
好きな作者だとか物語の展開だとか、そういうことは覚えているのに、どうして目の前にいるこの人のことは思いだせないのだろう。大切なことを思いだせない自分がもどかしくて不甲斐ない。
「じゃあ、今日はこれで」
そう短く言うと男性は一歩引いた。
気を遣ってか彼は部屋に訪れても長居はせず、いつも面会時間の終わる寸前に来て、椅子をすすめても決して座らなかった。記憶障害の件は医師から説明されているだろうが、それでもそのことには触れずにまめに見舞ってくれている。
せめてそこまで見送ろうと布団を捲りゼクシオンはベッドを降りる。
「気を遣わなくていいぞ」
「少しくらい歩いたほうがいいから」
そういって立ち上がって相手を見た。ベッドの中から見上げるよりもぐんと近くて、見上げる角度にどこか懐かしさを感じた。鼻孔を掠めるほのかな香水の香り……
「……う」
ずき、と頭が痛んで思わず声が出た。額に手を当てて俯く。僕は、この人を知っている。思い出さなきゃ……とこの時初めて強く思った。
「おい、大丈夫か」
そう言う男性の焦燥を帯びた声にはっとして見上げると、心配そうにのぞき込む目と目が合った。……だめだ、まだ思いだせない。
「すみません、ちょっと……立ち眩みがして」
「見送りはいいから」
そういって男性はゼクシオンをベッドへと促す。渋々と布団の中に戻るそのさなか、そっとさするように男性の手が背中に触れた。温かかった。久しぶりに人の体温に触れた気がする。そしてこのどこか懐かしい温かさもまたゼクシオンの胸を締め付けるのだった。