記憶喪失になる 5

 退院の日はよく晴れていた。事務手続きを済ませたゼクシオンは荷物を抱えて正面玄関から外に向かう。服の下に固定帯を付けているせいで未だに動きはぎこちないし、時には呼吸をするだけで痛みを伴うことも少なくない。通院もまだ今後しばらくは必要だ。手放しで晴れやかな気分とはいかないけれど、外に出て見上げると広がる抜けるような青空は、一歩前進するのに丁度いい空模様に思えた。
 外は肌寒いけれど、冷たく澄みきった空気が心地良い。外の空気を全身で感じるのは随分久しぶりだった。何もかもが色濃くて眩しい。息を吸い込んで冷たい空気で肺を満たすとゼクシオンは鞄の持ち手を握り直す。

 入院生活に際して持ち込んだ生活用品はそう多くなかったが、滞在が長引くにつれて増えていったものがある。同居人が面会の度に贈ってくれた本は、いつの間にか一抱えほどにもなっていた。そのおかげで救われた日々は少なくない。傷が疼く日も眠れぬ夜も、辛いときはいつも本の世界に逃げ込むことができた。物語に没頭して気持ちが落ち着くと、次に考えるのは決まってこの本を贈ってくれる人のこと。自分がこうしている間、彼はどう過ごしているのだろう、だとか、何を思ってこの本を選んでくれたのだろう、だとか。自分のことをどう思っているのだろうとか。大切にしてもらっていたに違いない。記憶を曖昧にして尚こんなに気に掛けてくれているのだから。
 二人の関係性に面と向かって切り込むのはまだ躊躇われたが、記憶は曖昧でも彼のことを考えると温かい気持ちになれた。退院した後に彼が待っていてくれるのならば先行き不安な気持ちも少し和らぐ気がして、あれほど不安に感じていた退院が待ち遠しかったくらいだ。

 

 入り口の近くにその人影を見付けて、静かな高揚を胸にゼクシオンは歩き出す。
 入院している間、ずっと焦がれていた。この人と共に過ごす生活に戻れたらどんなにいいだろうとその日がくるのを心の支えにして今日まで過ごしていた。あたたかな日差しを受けて、桃色の髪の毛はいつもよりも眩しい。
 マールーシャはゼクシオンを迎えるとすぐに荷物を受け取ってくれた。大した負担ではないからと言いかけたけれど、あまりにスマートに事を運ぶのでつい言いそびれてしまった。病み上がりだからと大人しく厚意に甘えることにして彼の隣に立つ。見上げるとこれまで接してきたどの時よりも相手が近くて、嬉しい。

「駐車場まで少し歩けるか」
 労わってくれているのであろう、遠慮がちにマールーシャは聞いた。
「車を取ってきてもいいんだが、いい天気だから、散歩がてら」
「歩きたいです」

 言葉の続きを引き継ぐようにゼクシオンは答えた。長い入院生活で体力は落ちているだろうが、歩くくらいもう苦でもない。もっと外の空気に触れてい気持ちもあり、自分でも驚くくらい明るい声で答えていた。マールーシャも嬉しそうに頷くと、二人は並んで色彩溢れる世界に足を踏み出していった。

 

 街路樹の長く続く通りを、時間をかけて歩いていく。目を閉じれば風が頬を撫でる感触や、葉擦れの音が耳に心地よい。冷たい風の中にほんの少し混じる春の気配、そして匂い。穏やかな休日の午後の空気を、ゼクシオンは全身を使って感じていた。時折足を止めてはじっくりと感じ入るのを、マールーシャは黙って付き合ってくれている。
 ゆっくり進んでいく二人の頭上では、まだ蕾ばかりの枝が慎ましやかに揺れていた。咲いたら見事なことだろう。病院の前の桜並木が立派なことは院内関係者が誰しも自慢げに話していたのでゼクシオンも知っている。窓から覗けば長く続く塀の向こうに少しだけその気配は感じられたけれど、外の世界と遮断された白い部屋から出られない身でいるときは、まだ枝ばかりの木々には興味も引かれないでいた。こうして外に出てその蕾を目の当たりにすると、今はその咲き誇る情景を待ち遠しく思っている自分がいることに気付く。

「……来週らしい、満開」
 ぼんやりと頭上を見上げていると、隣りからマールーシャが声を掛けた。
「気温も暖かいですものね」
 ゼクシオンも微笑んだ。病室にずっといたときは気付かなかったけれど、外に出てみればわかる。春は近い。
「ここの並木も見事だが、自宅周辺では近くの公園が桜の名所なんだ」
 マールーシャは続けた。
「咲いたら一緒に見に行こう」

 誘われたことが嬉しくてゼクシオンも大きく頷く。柔らかく微笑むマールーシャの笑顔が眩しくて、つい恥じらいから目を逸らし下を向いてしまった。
 目線を落として並んで歩くマールーシャの手を見つめた。自分の荷物を持ってくれている、大きくて頼もしい手。触れたい、と不意に思った。白くしなやかな手に触れたときの感触を、知っているような気がする。知らないくせに、懐かしくてたまらない気持ちがこみあげて胸を締め付ける。この手に触れることが許される関係だったんだろうか。
 先走ろうとする気持ちにまだ蓋をすると、枝ばかりの木々をまた見上げるふりをして、前に向き直った彼の横顔ばかり盗み見た。