記憶喪失になる 6
落ち着きなく辺りを見渡しながら、生活の基盤であったはずの居住へとゼクシオンは足を踏み入れる。自宅のことは曖昧に認識していた。さりげなく部屋を案内してくれるマールーシャについて部屋を見て回ると、どの部屋も整然としていて生活感を感じないくらい片付いていた。靄がかかったようで不鮮明ではあるけれどどこか馴染みのある感覚。緊張しながらもひとつひとつ確かめるように家の様子を見て回るが、忘れてしまった記憶に触れるようなものはこれといってなかった。期待していなかったわけではないが、いちいち落胆しているわけにもいかない。これからはここで日々を過ごしていくのだ、これまで“自分”がそうしてきたように。
お茶でも入れようか、というマールーシャの提案に頷いて荷物を置きにゼクシオンは寝室に入った。大きなベッドが一つ鎮座しているのを見て、かねてから朧気であった憶測は確信へと変わる。
(……恋人だったんだ)
そうであったに違いないと思っていた。入院しているときから頻回に見舞ってくれていたり、本の趣味や読むペースまで熟知されていること。何よりも、最初に目覚めたときの、あの身の切れるようなようなまなざし。それらが導く答えが単なるルームメイトにとどまるはずがなかった。
行動の端々にそういった雰囲気を感じさせるも、記憶の曖昧な自分を気遣ってか彼の方からはそのことに関して触れてくる気配はない。思うところはあれど、しばらくは自分も意識しすぎず普通に接することができるように努めようとゼクシオンは考えた。この生活に戻ってくることを望んだのは、かつての自我ではなく、他でもない今の自分自身なのだから。
荷物を片付けると部屋を出てマールーシャの姿を探した。キッチンで飲み物を用意しているところだったようで、近付くと乾いた茶葉の香りがした。ハーブの香りと茶器を持つその後ろ姿に、妙に胸が熱くなる。懐かしいなあと思う気持ち。自分自身は覚えていないのにふとした瞬間にこみあげる衝動的な感覚が、彼との関りの中でよくあることに気付いていた。そういった感覚に戸惑っている自分のほかに、その記憶に触れたいと思っている自分がまた混在している。不思議な感覚だ、と思う。自分の中で自分が分裂してしまっているかのようだ。
何とも言えない気持ちを胸に静かにキッチンを眺めていると、マールーシャもゼクシオンが来たことに気付いたようだ。
「どうだ、何か覚えているものがあったか」
「……特には」
「まあ、そんなものだろう」
マールーシャはさして気にしていない様子で頷いた。さっぱりとした態度は好ましく、今の自分にとってありがたくもあった。
「しばらくはよく身体を休めて。大学の授業もまだ先だと聞いているし、ここでの生活にも少しずつ慣れていったらいい」
テーブルについて渡されたマグカップを覗き込むと、植物的な独特な香りが淡く立ちのぼった。オレンジの優しい香りの影に爽やかなフレーバーを感じる。カモミールだったか、眠る前に飲むと気持ちが落ち着いていいと聞いた気がする。誰から? 自分で知っていたのだったっけ。
「お茶をいれるのが上手なんですね。とてもおいしいです」
「それはよかった」
「ひょっとして、料理も得意なんですか」
「時間があるときは作るのも好きだな。何かリクエストがあれば明日はそれにしようか」
「本当に? 考えてみます」
マールーシャと話をするのは楽しかった。話し方も聡明で快活。本の話は共通の話題としてあったし、今は自分や相手のことについても聞けば快く答えてくれた。緊張はまだ少しあれど普通に会話をする分にはわだかまりもない。入院していた時からのやり取りを経て、そこまで気負わずに自然に会話はできるくらいの関係になっているように思えた。
カップが空になるころ、欠伸を一つしたのを見計らってマールーシャは早めに休むようゼクシオンに声を掛けた。いつのまにか風呂の支度までしてくれていたようで恐れ入る。特に何かしたわけでもなかったけれど、これまでの生活に比べるとたくさん活動して、事実心身ともにへとへとだった。
広いバスタブで足を伸ばして湯に浸かると、どっと疲れを感じた。自宅と言えどずっと気を張り詰めていて緊張していたことに気付く。
(……手料理、楽しみだ)
温かい湯の中で身体を緩めながら、先程交わしたやり取りを反芻した。何を作ってもらおう。自分は何が好きだったんだろう。きっとかつての自分もよく口にしたに違いないその味が、まだ献立も決めていないのに待ち遠しく思えた。
まだ起きて作業をすると言うマールーシャとおやすみの挨拶を交わしてゼクシオンは一足先に寝室に入った。四肢を伸ばしてベッドに横たわり、しばしその広さを一人で堪能する。バスルーム然り、ベッドもまた贅沢すぎるくらい広い。しかしすぐにいずれ彼も来るのだと思い直し、ベッドの奥の方に身を寄せて一人横になれるくらいのスペースを空けた。並んでベッドに入るであろうことを考えるとまた少し気持ちがそわついた。
疲れていたこともあり早々に電気を消してみるが、暗闇に浸ると眠気に相反して身体の触れるものへの感覚が研ぎ澄まされていく。これまでの生活でのベッドよりも深く沈むマットレスのスプリング。パリッと伸びた新しいシーツは病院のそれと似ていた。部屋自体からいい匂いがしているような気もする。過ごしやすく設えてはあるものの、なんとなく、彼自身も長い間この部屋で寝ていないんじゃないかという気がした。綺麗に整えてあるけれど、この部屋は人の出入りした気配が全く感じられない。新品同様のシーツは冷たくてかたく、温まっていたゼクシオンの肌と意識を徐々に冷ましていった。疲れているからすぐに眠れるだろうと踏んだものの、うとうとと微睡んでは身体に触れるもののよそよそしさに気付いて目を覚ますことを幾度となく繰り返している。
ドアの向こうはずっと静かだ。マールーシャが廊下を行き来している様子もうかがえない。何度目かの中途覚醒の折、時計を見るとすっかり真夜中を過ぎていた。
ふと、眠れないのはベッドが広すぎるせいだとゼクシオンは気付いた。手足を十分に伸ばすことのできる広い空間をはじめは贅沢だと感じていたというのに、気付いた途端に居心地が悪くなった。上等のマットレスでも一人で眠るには余白が多すぎた。頭はすっかり冴えてしまい、眠れぬ夜の気配の中、扉の向こうにあるはずの気配をずっと探している。
ついにゼクシオンは観念して身を起こした。どうにも眠れない。全く気配のない彼の様子も気になった。向こうの部屋で寝ているのだろうか。
そろそろと布団から抜け出して素足のまま床に降り立った。スリッパを履くと足音で気付かれてしまうような気がした。何から隠れているのだか、それでも音をたてないように静かにドアを開けると、そっと顔をのぞかせて廊下を見渡す。廊下の先のドアは居間からの明かりが漏れていた。やっぱりまだ起きているらしい。
興味が勝りゼクシオンはそのまま部屋を抜け出した。水を飲みにきたというそれらしい言い訳を伴って、ちょっと様子を見るくらい構わないだろう。
廊下と居間とを隔てる扉に嵌め込まれた硝子部分から居間の様子をうかがうと、こちらに背を向けてソファに座っている彼の桃色の頭髪が見えた。明かりはやや絞っているものの、まだ眠る様子とは思い難い。
悩んだものの、意を決してゼクシオンは扉を押し開いた。音に気付いたマールーシャは、とっくに眠ったはずのゼクシオンがそこに立っているので心底驚いた様子で振り返った。
「眠れないのか」
そう言いながらマールーシャはこちらに手を伸ばしかけた。が、はっとした表情で瞬時にその手を引っ込めた。
本当に一瞬だった。
ほとんど自然になかったことのようにされかけたけれど、マールーシャのそのさりげない所作はゼクシオンの中に燻っていた感情に火をつけるのに十分だった。雷に打たれたような衝撃であった。
その時の彼は、なんと優しい目をしていただろうか。甘い声をしていただろうか。
たった一言、ほんの一瞬の所作だけで全てが繋がるような感覚を得た。
恋人だったんだ、僕たちは。
恋しげな目が物語っている。きっとかつて彼はその目で“僕”を見つめ、優しい声で“僕”の名前を呼び、伸ばしかけた手はそのまま“僕”を撫でるか抱き寄せるかしたのだろう。そうして当たり前だった事実を、今の僕を前にして彼自身封じ込めようとしている。
その事実は無機物を見た時よりもはるかに確信めいて自分の中に刻まれた。そうしたら全てに合点がいった。眠れなかったのは寂しかったから。余白を埋めるものの存在を、身体は覚えていたからだ。
その予感の的中はゼクシオンの中で複雑な感情の渦を巻き起こした。自我を押さえつけていた何かにひびが入る音がして、甘い気持ちと満たされない切なさのようなものが胸中で混ざり、見る間に焦げ付いていく。
記憶が戻らぬまま一つの事実を確信した。僕たちは、一緒にいるべき、ともにあるべき存在なのだと、その時強く確信した。
決意のようなものに突き動かされるように、ゼクシオンはずんずんと進んでマールーシャの前に立った。
「僕もここで寝ようかな」
「何を言っているんだ」
「向こうで一人でいても眠れないんです」
小さな声でそう呟くと、マールーシャも口をつぐんで眉尻を下げた。困らせたいつもりではなかったのだけど、気付いてしまったら無かったことにはできそうになかった。
「貴方がここにいるなら、僕もここにいます」
声が震えていたかもしれない。顔なんて見れないまま、マールーシャが何か言う前にその隣に座り込んでしまった。
きっと彼の方はさぞ困っているだろう。自分勝手な感情だと知りながら、それでも止められなかった。
傍にいて欲しい。これまで過ごしたどんな一人の夜よりも、寂しくてたまらないのだった。
肩に手が触れた。見上げる間もなく、今度は包まれるような体温を全身に感じ、抱き締められたのだと気付く。身体を抱く腕の強さと甘い香りにじわじわと視界が滲んでいく。なんて懐かしい。これがずっと欲しかったんだ。まだ失ってなかった。
ゼクシオンも縋るように広い背に腕を回した。このまま夜が更けていけばいいのに、と切ない気持ちが胸に迫った。
「まだ気持ちの整理がついていなかったんだ」
ぼんやりとそう言ってから、マールーシャは今度はゼクシオンに向きなおって「悪かった」とまっすぐ言った。
気持ちの高ぶりが落ち着いてから、今度は一緒に寝室に戻りベッドに身を横たえてのこと。ひとつ布団の中、慎重に距離を保っているけれど、さっきまでの焦れるような焦燥感はもうない。ゼクシオンはふるふると頭を振った。彼の気持ちだってわかる……ような気がする。慣れないこの距離感に互いに焦れているのだ。彼の方は以前の自分と現在の自分の差を目の当たりにして、自身の気持ちを持て余しているに違いなかった。
「ずっと一人だったから、あまりちゃんと寝室で寝ていなかったような気がする。ああやってソファでぼうっとしているうちに時間が過ぎていくような日がずっと続いていて」
「そうだと思いました、なんとなく」
「……今日は、一緒に帰って来れて本当によかった」
そう言ってマールーシャは微笑むと、ゼクシオンの目にかかる髪の毛をそっと払った。触れるか触れないかの距離で僅かに感じた指先の熱に胸が高鳴る。
彼と暮らすこの家に自分が足を踏み入れたのは一体いつぶりなのだろう。自分が入院している間、彼はこの家にずっと一人だったのだ。一時期は生死をも彷徨っていた自分のことをきっと心配していたに違いない。その時の彼の気持ちを思うと胸が締め付けられるような思いがした。自分だったら耐えられない。
「あの、僕たちって」
「うん」
「その……恋人、だったんですよね」
「そう。恋人だよ」
すとん、と腑に落ちた。迷いないその言葉がじんと胸に染みて自然と頬が緩んだ。さっきまで冷え切っていた足の先まで、みるみるうちに熱くなっていく。『やっと言えた』二人ともそう思っているのが空気から伝わった。安堵のため息に混じって「よかった」とゼクシオンは小さな声で呟いた。
「寝るときに手とか繋いだりしたんですか」
「いやあ、それは……」
小学生の恋愛かと突っ込みたくなる自分の質問にマールーシャも苦笑している。と思うと、急にふっつりと黙り込む。なんだろう、とゼクシオンが様子を窺っていると、そのうちマールーシャは小さな声で答えた。
「…………最初のころは繫いでた」
いつも余裕のある大人っぽい彼にしては珍しく、照れたような、くすぐったそうな声。
自分にとっては今だってほとんど最初のころみたいなものじゃないだろうか。
「じゃあ……」
どきどきしながらゼクシオンは自分の手をそっと差し出す。マールーシャは微笑んでその手を握り返した。
大きくて温かい手に包み込まれる。この手を知っている。胸が締め付けられるような温かくも切ない気持ちに涙が出そうになる。
しっかりと繫いだ手を引き寄せて頬を摺り寄せるとマールーシャは言った。
「おかえり、ゼクシオン」
20220913