記憶喪失になる 7

 身体が覚えていることがある。

 寝起きでぼうっとしている時、無意識に取り出すカップ。
 数あるコーヒーや茶葉の中で自然と手が伸びるそれ。

 ふとしたとき湧き起こる、相手に触れたいと思う、衝動。

 

 

「お茶、いれましょうか。それとも珈琲?」

 食事を終え食器まですっかり洗い終えた後、ゼクシオンはキッチンから顔を出してリビングにいるマールーシャに声を掛けた。自宅での夕食を終え、時刻はまだ早い。今夜はマールーシャが料理を振る舞ってくれたので、後片付けはゼクシオンが率先して行った。美味しい料理に満たされた後は、温かい飲み物を用意して団欒の時を過ごすのが二人の常だ。

「そういえば土産にともらった茶葉があるんだ。私がいれよう」

 そう言いながらマールーシャはもうキッチンに入ってきている。手に取った缶はきれいな柄で、蓋を開けると甘いバニラの香りに思わず二人して頬が緩んだ。一緒にもらったチョコレートも開けてしまおう。こんな時間にいいんですか? 少しだけ。ごく自然に交わすやり取りは心地よく、二人でキッチンに並んで夜のティータイムの準備に取り掛かる。
 入院していた時の反動か、家にいるときのマールーシャは常にゼクシオンの傍にいたがった。体調はおおむね良好だけれど、あれこれと世話を焼いてくれるとつい甘えてしまう。わかりやすく構いたがっているマールーシャの様子がゼクシオンも嬉しかった。

「……あれ、今日はそっちのカップにするんだ」
「え?」

 不意に声を掛けられてゼクシオンははっとして手に取ったティーカップを見つめる。ぼうっとしていたら、無意識のうちに棚の奥から青い花の柄のついたカップを取り出していたのだ。手前にいつも使っている手ごろなマグがあったけれど、頂き物の紅茶で特別なお茶の時間にと思ったら自然と奥に手が伸びていた。
 手にしてからゼクシオンは慌てた。取り出したものの、今の生活の中でこのカップを使ったことはなかったからだ。

「これ、僕のじゃなかったですか」

 おそるおそる尋ねるが、マールーシャは「いや」と言うとむしろ嬉しそうに続けた。「ゼクシオンのだよ。私が以前あげたものだ」
 言われてからゼクシオンは改めて手の中のカップをじっと見た。青い花がまるく花開くイラストがプリントしてある。くるりと蔦が巻き付いたような持ち手がやけに手に馴染んだ。胸の内の静かな高揚を噛みしめていると、マールーシャは機嫌よく「私も揃いのものにしよう」と言って奥から同じ形のティーカップをもうひとセット取り出した。柔らかい桃色の花が慎ましやかに描かれていて、自分のと並べて置いてからマールーシャはこちらを見た。「使ってくれて嬉しい」と微笑んで。

 

 

 失った記憶を本当は思い出しかけていることに、ゼクシオンは薄々気が付いている。身の回りにあるものすべてが、どれも懐かしかった。これらを知っていると思った。手を伸ばせばすぐにでも触れられそうなのに、もう一歩踏み込もうとすると途端に不安な気持ちが湧き起こる。
 何が自分を踏みとどまらせているのかといえば、彼への気持ちだ。元ある感情ではない、今の自分が彼に対して持っている好意。マールーシャのことを恋愛感情として思う気持ちはもうずいぶん前から確信に変わっていた。

 彼のことが好きだ。過去ではなく、今ここにいる自分を見て欲しいという欲求が、日ごと自分の中で大きくなっていく。そう思っている自分がいるから過去の気持ちを掘り起こせないでいるのだろう。踏み込むことを恐れているもう一人の自分がそれを阻んでいることもまたわかっていた。過去に二人がどんな時間を過ごしていたかわからないけれど、これは間違いなく今ここにいる自分の意志なのだ。この感情は自分だけのものだ。

 彼は本当に今の自分を好いてくれているのだろうか。マールーシャといると満ちていると思う一方で、小さな不安が影のように付きまとう。今この時間が幸せならそれでいいだろうと自分に言い聞かせても、マールーシャは今ここにいる自分の中にかつての自分を探しているのではないかと思えてならない。
 時折不安に駆られて彼の横顔を見つめていると、気付いたマールーシャは優しく微笑んで腕を広げてくれる。恋人同士だと互いに認識してからは徐々に恋人としての距離感を取り戻しつつあった。スキンシップも増えた。彼の隣で体温を感じて身体を落ち着けるときの心地よさと言ったらない。
 そうやって彼の優しさに甘え、不安から目を逸らし続けている。きっとこれはこれから付き合い続けていかなくてはならない感情なのだろうと知りながら。

 

 

「……傷が痛むか?」
「え?」

 ぼうっとしていたら、不意に声を掛けられてゼクシオンは我に返った。手に持ったカップの中の紅茶が揺れる。見れば、ソファで隣に掛けていたマールーシャが眉をひそめてこちらの様子を窺っていた。深刻そうな顔をして黙りこくってしまったからだろう。

「何ともないですよ」

 まだ中身の入っているカップを注意深くローテーブルの上に戻しながらゼクシオンは笑ってみせた。事実、怪我の状態は問題なく回復傾向にある。けれどマールーシャはまだ心配そうにこちらを見ている。

「痕になってるんだろう、胸のところ」
「そこは少し……でも見えない部分ですから。額の方はもうきれいに治りましたし」
「本当か? どれ」

 マールーシャが身を乗り出したので、ゼクシオンは前髪を掻き上げて額を露わにした。当初は目立って仕方なかった切り傷も、今ではもう何の痕も残っていない。
 開けた視界の中にぐんとマールーシャが近く迫り、一瞬息が止まりそうになった。長い睫毛とその下の青い瞳に目を奪われる。大きな手が垂れた前髪をそっと払った。頬を掠める指先の熱に、また胸が締め付けられる思いがした。傷痕を確認していたマールーシャの目線が、見上げていたゼクシオンの視線とぶつかった。
 相手の表情に躊躇の色を読み取った。それは、以前マールーシャがゼクシオンに向けて手を差し伸べかけたときのものとよく似ていた。触れたい、と彼も思っているに違いないとわかる。何故なら自分もそれを切望しているからだ。

 ごく自然に、ゼクシオンがマールーシャの手を取った。逃げてしまわないよう、再び失うことがないように、重ねた手にそのまま頬を押しつけた。手のひらにびくりと動揺が感じ取れたが構わず頬を摺り寄せた。あたたかい。安心する体温だ。肌で感じる体温は自分の中の強張った感情を少しずつ和らげていく。それと同時にマールーシャの手も柔らかくなっていった。怖かったのは、お互い同じだったのだと気付く。

「今日は甘えたか?」

 マールーシャはゼクシオンに触れたまま優しい声でそう言った。

「好きだから触れたいと思うの、当然のことだと思いますけど」

 その言葉は自然に出てきた。マールーシャが小さく息を飲んだ。そうしてゼクシオンも気付いた、今の自分の気持ちを真っすぐに打ち明けたのは、これが初めてだった。

「好きです、マールーシャ。ずっとこうしたかった」

 思いが溢れて止まらない。気付いたらもうがむしゃらだった。過去の自分だとか今の自分だとか、そんなことはなにひとつ頭になかった。もっと触れたい、もっと触れてほしいと思う気持ちが抑えられない。
 見上げると、マールーシャは穏やかに、愛おしそうに自分のことを見つめている。ゼクシオンも相手を見つめ返した。青い目の中に、自分が映っていた。

 マールーシャが目の奥に探しているのは、過去の自分なんじゃないかと不安だった。記憶を失う前の自分との時間を渇望しているんじゃないかと思うと、今の自分の彼への気持ちが否定されてしまうような気がして怖かった。
 でも違う。絡み合う視線でわかる、彼がその目に捉えているのは過去の自分なんかじゃなく、今ここにいる自分だ。彼が触れたいと思っているのは、記憶をなくしてなおここに在り続ける自分なのだ。

 頬に触れるマールーシャの手が優しく輪郭を包んだ。よく知った温かさにうっとりとゼクシオンは身を委ねる。手を伸ばして同じようにマールーシャの顔に触れた。確かめるようにあちこちに触れた。唇をなぞると自然に二人の距離は近付いていく。鼻孔に届く花のような甘い香りはよく知ったものだった。懐かしくてじんとする。他の何にも代えられない。

 

 身体が覚えていることがある。

 指先の触れる順番。頬を撫でたあと、耳に触れ、顔にかかる髪の毛を優しく払うその自然な流れ。
 香りが強く感じられる境界。はねた毛先のくすぐる感触。
 目を閉じるタイミング。つい、息を止めてしまう自分の癖。

 全部知っている。けれどその選択を望むのは、今ここにいる僕の意思だ。

 

 耳元でマールーシャが同じ言葉を囁いた。その言葉を聞いたとき、ゼクシオンの中にあったわだかまりが氷解していったのを感じた。
 過去の自分たちに引きずられることはもうないだろう。今この時間、これからの時間を二人で生きていくことに意味を見出すことができたから。

 

20221013

次回最終回