記憶喪失になる 8

 

 

 暑くて目が覚めた。発熱しているのだろうかと思うくらい身体が熱く、額にうっすらと汗が滲んでいるであろうことがまだ暗い中でもわかった。布団から顔を出して寝ぼけまなこで窓の方を見るが、まだ外は薄暗い。時計は見えないけれど起きる時間には早すぎたようだとゼクシオンは考え、枕の上に頭を戻した。
 暑かったのは高い体温が近くにあるせいだということに気付く。すぐそばに恋人の肌があった。くっつきあうようにしてひとつ布団の中に寄り添っていたので、二人分の体温で布団の中は暑いくらいだった。そのうえ、温かい布団にすっぽり覆われた動いたら上から大きな腕が自分を抱いている。あまりに暑くて、熱から逃れるようにゼクシオンはちょっとだけ布団から足先を出した。部屋も暖かいけれど、布団の中に比べたらいくらか新鮮な空気である。
 恋人の発する甘い匂いがする。シャンプーと石鹸と彼自身の匂いが合わさって、二人の間に籠ったそれは濃厚な花の香りのようだ。胸いっぱい吸うとうっとりとして、覚醒しかけた脳に安寧が訪れる。
 こちらの動きを察してか、自分を抱く腕が強まった。ほんの少し窮屈だけど、その窮屈さが嬉しい。足を布団の中に戻すと、安心してもう一度幸せのなかに落ちていく。暗いけれど何の心配もなく、寄り添う体温に安心してゼクシオンは再び意識を溶かした。

 そうして次に目が覚めたときは紛れもない朝だった。カーテンから差し込む朝日にゼクシオンは布団の中から目を細める。
 昨夜のことを思い出そうとして順に記憶を手繰り寄せる。差し込む朝日、寝起きの眩しさ。布団に籠る熱と、窓の外の薄闇。そして、次に思い出すのは、触れあう熱い肌合い。はていつの間に寝ていたんだろう、とゼクシオンはぼんやり考えた。寝る前にシャワーは浴びたんだっただろうか、寝室に入る前にバスルームを使ったのは覚えているけれど。ともあれ、起きたらまずは寝ている間にかいた汗を流した方がいい気がする。
 変わらず身体に巻き付いた腕の重たさに隣を見ると、マールーシャの顔が真横にあった。安心しきったように瞼は重たく閉じられ、まだ深い眠りの中だ。むき出しの上半身の、肩の近くにいくつか赤い痕がついているのを見て、ゼクシオンの胸中に甘い気持ちが広がった。彼と過ごした時間が夢じゃないんだな、と嬉しく思う。赤い印は昨日、ゼクシオンが付けたものだ。自分にも同じものがいくつかついていることだろう。
 頬をすり寄せ、匂いと熱とで隣りの存在を確かめる。すきだと思う気持ち。相手が寝ているのをいいことにゼクシオンは自分の気持ちに限りなく素直に甘えた。昨日の夜のことを思いだして、飴玉を舐めて溶かすように甘い余韻を味わう。

 

 

 昨日、事故後長らく続いていた通院がようやく終わりを迎えた。身体に負った怪我は概ね完治し、後遺症も見られず経過良好と診断を受けた。記憶障害に関しても全てが解決したわけではないけれど、今は不安や心配もない。退院してからの生活も特に支障なく過ごしている旨を医師に説明し、全ての治療を終えてゼクシオンは病院を後にした。ようやく日常が戻ってきたような、清々しい気持ちだった。
 無事通院を終えた旨をマールーシャに連絡すると、彼もいたく喜んでくれた。仕事を終えた後のマールーシャと待ち合わせをして、退院したときと同じように外で食事をし、ささやかに祝杯をあげた。

「おめでとう。よく頑張ったな」 マールーシャはそういって微笑んでゼクシオンを労った。
「本当に、もう不調はないんだろうな」
「ええ。傷は少し残りますけど、もう痛まないし」

 ゼクシオンも明るく答える。退院した時よりもずっと気持ちは晴れ晴れとしていた。単純に治療からの解放のおかげもあるし、あの時はこの後始まる新生活への不安や緊張がどうしても拭えないでいた。マールーシャとの距離も測りかねていたこともあったけれど、今はそういった不安は全くない。記憶障害に関してのことをもう不安と思わなくなっている自分が嬉しかった。

 ……けれど、そういったものとは別である種の緊張があることをこの日ゼクシオンは胸に秘めていた。彼に、伝えたいことがあった。

 連れ立って一緒に暮らす家に帰宅すると、食事を済ませてきたこともありだいぶ遅い時間になっていた。すぐに風呂を沸かし始めた。リビングではマールーシャがソファに掛けてテレビを付けていた。背にもたれ、リラックスしているのが分かる。慣れ親しんだいつもの光景だった。ゼクシオンが座る場所はきちんと空けてあった。ゼクシオンもそこに腰掛けると、風呂が沸くまでの時間を適当にチャンネルを回し雑談を挟みながら過ごした。気に入りのドラマが始まるとマールーシャはしばらく見入っているようだったが、ゼクシオンは落ち着かず、内容の半分も頭に入ってこなかった。
 きりよく番組を見終えた頃合いで、ゼクシオンは一つの決意を胸に背筋を伸ばす。テレビの電源を落としたマールーシャは、ゼクシオンが何か言いたそうにしていることに気付いて向きなおった。
「先に風呂に入ったらどうだ? それとも、一緒に入ろうか」
 嬉しい提案にゼクシオンも微笑むが、ひとまずここはどうぞ先に入ってくださいと促すことにする。そうして身を乗り出すと、耳元で小さく囁いた。

「……今夜、どうですか」

 みなまで言わずとも、それが夜の誘いであることは伝わったはずである。
 日々スキンシップはあるものの、事故以来未だ肉体的な関係にまで及んでいなかった。けれど、もうそろそろいいんじゃないかとゼクシオンは思っている。彼に触れたいと思っているのは今の自分が先に進みたいと望んでいることであるのはもちろんのこと、記憶を失うまでの身体の感覚がいよいよ本格的に彼を求めていることも否定できない気がした。マールーシャは求めれば惜しみなく答えてくれたけれど、服越しの触れあいに日に日に物足りなさを感じている。そうして、都合のいい解釈かもしれないけれど、マールーシャの方も同じように考えているんじゃないかとゼクシオンは思っていた。彼の所作や視線の端々にそういった熱の類いを感じる。切り出すのに、今日という日はちょうどいい日に思えた。
 思わぬ誘いの言葉にマールーシャはほんの少しだけ目を見開いて驚いた様子を見せたけれど、すぐに目を細めて頷いた。言いだしたゼクシオンもなんだか気恥ずかしくなり、妙な雰囲気になりながら言葉少なくマールーシャはバスルームに立った。
 ひとりになったソファの上でゼクシオンは頭を抱えて身悶える。……やっぱりまだ早かっただろうか。ベッドで誘った方が良かっただろうか、なんて考えをめぐらして羞恥心を紛らわせようとする。ああもう、顔が熱い。快気祝いだからと勧められて柄にもなくシャンパンなんて飲んだせいだ。そういうことにしておこう。
 しかしそういえば自分から誘ったことなどこれまでなかったかもしれないとゼクシオンは思い返して気付く。言葉選びだけでなく、さりげない所作であったり、色気を孕んだ視線だったり。こういうとき、彼はいつだってスマートすぎるほど事を運んでしまうのだから。

(……あれ?)

 ふとゼクシオンは我に返る。何だろう、今の感覚。自分の思考にどこか違和感を覚えた気がしたけれど、それが何なのかわからない。
 静かになった部屋の中で、遠くからかすかにシャワーの水音が聞こえる。窓の外の雨音のようなそれにしばらく心地よく身を浸していたが、やがてゼクシオンは立ち上がると自分の準備を進めるべくリビングを後にした。
 バスルームを出てきたマールーシャとは、やっぱり照れくさくてあまり目が合わせられなかった。甘い眼差しが向けられているのには気付いていたけれど、つい逃げるようにバスルームに入り込んだ。ほろ酔いの高揚感は熱いシャワーで押し流されていく。全身洗いあがってシャワーを止めたときには、期待と緊張に満ちていた。早く彼に触れたいと切望する一方で、バスルームから出るための一歩が踏み出せない。……まるで本当の“初めて”のときみたいだ。
 のぼせたかな、とゼクシオンはその場でしゃがみこんだ。具合はどこも悪くない。ただ、どうしようもなく鼓動が速かった。胸に手を当てると、ざらりとした感触がある。触れた先に事故のときに負った傷が長く胸部に走っている。ゼクシオンは立ち上がると、鏡に映った自分の姿を見た。
 本当に色々なことに悩まされたものだ。今こうして何事もなかったかのように過ごしていることが信じられないくらいに、いくつもの不安や恐怖、眠れない夜があった。それらを乗り越えるために支えてくれた人のことを思う。本を与えてくれた日のこと、手を繋いで寝た夜。終わりのない闇のようだった日々を抜け出すことができたのは、ひとえにマールーシャが導いてくれたからに他ならなかった。そうして、事故後目覚めたときに自分を見つめる、身の切れるような眼差しが脳裏を掠める。ぎゅうと胸が締め付けられる思いがした。彼も眠れない夜を過ごしたと言っていたことを思い出す。
 途端、弾かれるようにしてゼクシオンはバスルームを出た。期待も緊張も、いつの間にか吹き飛んでいた。一秒でも早く彼に触れたい。抱き締めて、もう何の心配もないのだと伝えたかった。

 しかし抱き締められたのはゼクシオンの方だった。バスルームから出たところで、待ち構えていたマールーシャに捕まったのだ。
 髪の毛も乾かさないうちにさらわれるように寝室に連れていかれた。明るい部屋がぐんぐん遠ざかっていく。そうして電気もつけないままの寝室に、二人でベッドに倒れ込んだ。あまりに急で雰囲気もなく、ゼクシオンは思わず笑い出した。マールーシャも笑っていた。愛しくてたまらない。ゼクシオンはやっとのことでマールーシャの背に腕を回しきつく抱いた。広い肩幅を、分厚い体躯を、しっかりと通った背骨の手に触れる感触も、全部知っていた。縋りつくように抱いた身体から離れることができない。
「緊張しているのか」
 ゼクシオンがしがみついたままでいるのでそう伝わったのかもしれない。マールーシャはやっぱり優しかった。
「すこし」
 ゼクシオンは静かに答えた。静かな高揚が胸の内で渦巻いているのを感じている。緊張と期待が戻ってきていた。
 そんな胸中を感じ取ったのか、マールーシャは少し身を起こしてゼクシオンの手を取ると、何も言わずに包み込むようにその手を握った。温かい体温に徐々に強張りはほどけ、ゼクシオンはマールーシャの手を握り返す。手を握り返すと今度は自ら求めるように顔を寄せた。そうして絡めあった指先は、最後眠りに落ちるまで決して離すことはなかった。
 マールーシャは決して過去の自分を引き合いに出さなかった。どこが好きだとか、どうするとより良いだとか、ひとつひとつ確認しながら、ちゃんと今の自分にまっすぐ向き合ってことを進めた。嬉しかった。今ここにいる二人が築き上げた時間だ。

 追いつ追われつ夢中になって、自分が最後どうなってしまったのか、ゼクシオンはよく覚えていない。文字通り、夢のような時間だった。

 

 

 ……思い出した。そうしてそのまま寝入ってしまったのだ。つまり、事後シャワーを浴びていない。髪の毛も乾かさずに寝てしまったし、布団を出て最初の目的地はバスルームに決定された。
 マールーシャが目を覚まし顔を合わせても、その目を直視できないかもしれない。我を忘れるほど夢中になってしまったのも仕方あるまい、とゼクシオンは冷静に正当化する。彼とこうした時間を過ごすのは久しぶりだったのだから。シャワーを浴びるにしても、もう少しだけこうしていようと思う。昨夜の行為がもたらす甘い倦怠感にまだ浸っていたかった。
 隣りでまだ寝息を立てている恋人を見つめるが、起きる様子はなさそうである。彼らしからぬ無防備さが愛しい。あどけない表情は、彼より早く起きたときだけに見ることができる貴重なものだ。休日も早起きしたりと活動的なイメージがあるけれど、欲のままに意外と遅くまで寝ていることを知っている。特にこんな風に夢中で過ごした翌朝は、二人揃って精魂尽き果てて昼まで寝てしまうことも少なくなかった。目が覚めて陽の高さに呆然として、時計を見てから顔を見合わせて苦笑する。おなかが空いていればそこから起きだして何か作るし、離れがたくて再び布団の中に逆戻り……なんていう日も。ああなんて、幸せな記憶。愛しい恋人の記憶が、あれこれと自分の中に流れ込んでくる。全部、自分だけが知っている特権――。

 そこでゼクシオンは、またしても自分の思考に違和感を感じた。それは昨夜も感じた違和感だった。

“いったいこれはいつの記憶なんだろう。”

 誘うときの仕草や、休日の朝の風景。初めて触れ合う夜に抱いていた気持ちまで、生々しく思い出していたのではなかったか。
 自分に在るのは事故後、マールーシャと築いてきた短い時間の記憶だけのはずだった。両手に抱えられるだけのわずかなものを、大切に大切に囲っていた。なのに今、それ以外の記憶がそこかしこにある。

 その時唐突にゼクシオンは、その違和感の正体に気付いた。
 身体が覚えていることばかりじゃない、触れようと思えば記憶に触れられるし、好きに取り出すことができる。
 本当はもう思い出している。その記憶たちは自分の中に確かにあるものだということを。

 思い出すことを抑制していたのは、自分の利己的な感情だった。
 マールーシャと過ごしてきた過去の自分にずっと嫉妬していた。記憶を失う前の、なんの隔たりもなかった二人の時間がたまらなく羨ましかった。不毛とは分かっていてもマールーシャが本当に愛しているのは過去の自分なのだと思わずにいられなかったし、過去の記憶を思い出すことで、今この自分が大切にしている彼への気持ちを奪われてしまうような気がしていた。どうしていいかわからず、過去の記憶に触れたい気持ちとそれを排除しようとする気持ちに板挟みになって苦しかった。マールーシャがちゃんと今の自分と向き合ってくれていることが分かってからも、過去の自分とその記憶には向き合うことなくそっと蓋をしたままだった。今が幸せならもう思い出せなくたっていいと思っていたのも間違いなく本心であった。
 けれど、隣りで眠っている彼を見ていたら不意に過去の記憶がどんどん流れ込んできて、ようやく気付いた。
 思い出すことは、こわいことじゃない。今の気持ちを失うわけでもない。過去の記憶と、過去の気持ちと、今自分が抱いている気持ち。それらは共存できるものだったのだ。透明な朝の光の中で、ばらばらだった自分の中の思い出の欠片がぶつかり合うわけでもなく柔らかく一つになっていくのを、どきどきしながらゼクシオンは自分の中に感じていた。
 記憶が戻る瞬間というものはもっと激しいものかと思っていた。雷に打たれたようだとか、天井が崩落するようだとか、そんな表現を物語の中でも目にしてきた。けれど今自分が感じたのは、突然視界が明るくなったような感覚だ。思い切りよくカーテンを開いたときのように、急に視野がグッと広がって遠くの方まで見渡せるようになった。見渡す先々に懐かしいものがあって、その情報量にどきどきしている。わくわくしている。

 なんだ、簡単なことだったんだ。
 安心すると同時に身体が震えた。目の奥が熱くなって、見る間に視界は滲んでいく。思い出すことができて嬉しい。彼を、愛していてよかった。

 まだ眠っているマールーシャは、何も知らずに穏やかに寝息を立てている。愛しくてたまらず、身を寄せて大きな身体に縋りついた。
 目覚めた彼になんと告げようか、はたまた何事もなかったかのように接しようか。
 彼が目覚めたら、とびきりの愛を込めてその名を呼びたい。

 

 

(了)

20230109