四夜
金曜日の夜、繁華街は若者たちで賑わっている。マールーシャ自身も酒の席は好きだし、週末ともなれば誰かしらと集まってこうした賑わいに参加することも少なくなかった。会社の人間であったり、旧友であったり、交友関係が広いおかげで多方面から声がかかるのだ。けれど、最近はそれらの誘いをほとんど断っている。友人たちからは付き合いが悪くなったなと露骨に落胆されたり、健診を意識しての禁酒かと揶揄されたりもした。もしかして恋人でもできた? と聞いてくるものもいたが、それらを曖昧にやり過ごしてマールーシャはできるだけ週末の夜の時間を確保するように努めていた。気まぐれで酒好きの、たった一人の男と会うために。
本気のつもりの告白はあえなく砕け散ったかに思えたが、それからもゼクシオンとの関係は歪なまま続いている。定期的に会うし、彼と会う時間を他の誰との時間よりも優先している。けれど、恋人などではない。誰がどう見てもただのセフレだ。酒の席へ誘う言葉の裏に、その先に過ごす時間が含まれていることをマールーシャはもちろん汲んでいる。
あの日、何故彼のことを好きだと思ったのだろう。初めて彼の部屋を訪れたあの夜。まともに顔を合わせて話をしたのはその日が初めてと言っても過言ではないというのに、湧き起こる衝動に抗えず思ったままその気持ちをぶつけてしまった。容姿に惚れて? 身体の相性が良かったから? 雰囲気に飲まれて錯覚したのだろうか。
大事にしたいと思ったのは、もちろん本心だ。けれどその気持ちを伝えたときの彼の表情は浮かないものだった。面倒は御免だとありありと顔に書いてあったのを覚えている。彼は、自分の中に他者を踏み込ませることを極端に嫌っているような節があった。
彼の過去については、というより彼自身のこともほとんど何も知らない。けれど、寂しい人なのだろうと思う。夜な夜な相手を求めてしまうのもそれゆえだろう。その一方で深く他人を踏み込ませないちぐはぐさにマールーシャは引き込まれずにいられなかった。
嫌がることはしたくないけれど、納得の出来ないまま簡単に引き下がるつもりもなかった。幸いにも身体の相性は良いようで、その点では相手からも気に入られていた。前回は妙な雰囲気で別れたけれど、何事もなかったかのようにまた誘いがくる。そしてそんな関係を歪だと思いながらも、振り切ることが出来ない自分が確かにいる。
自分が彼に執着する理由は、彼と同じように身体目的なのだろうか。
「そうですよ、他に何があるんですか」
マールーシャの悩みをゼクシオンは一蹴した。悩んでいても埒が明かないので本人に話してみたのだ。それ普通本人に聞く? とゼクシオンは苦笑いしていたが、今日の彼は機嫌がいいようでそのまま議論が許された。
今夜は落ち合うなり、酒もそこそこにすぐホテルに入った。なにやら欲求不満だったらしく、ほとんど流し込むようにして飲んだウォッカの味が舌に残るまま、早々に一戦交えた。欲に忠実に上になり下になり、今は落ち着いてベッドの中で足を絡ませている。汗はすっかり引いていたけれど、二人ともまだ服を着ていなかった。
「お互いのことを何も知らないのに恋も何もないですよ。貴方は雰囲気に飲まれただけ」
「……でも気持ちは変わらないし、私は君のことをもっと知りたいと思っている」
「しつこい男は嫌われますよ」
「残念だったな、私は諦めの悪い男だ」
嫌がられるだろうかと思ったけれど、ゼクシオンは楽しそうだった。ベッドには大きな枕がたっぷりと二つ並んでいたけれど、ゼクシオンはマールーシャのそばにぴたりと寄り添っていた。甘えるような体温は心地よく、もっと近くに抱き寄せたい思いに駆られるが、マールーシャはぎりぎりのところで思いとどまっていた。せっかくいい距離感なのに構いすぎて逃げられてしまうのは避けたかった。まるで本当にきまぐれな猫を相手にしているような気分だ。
「それか、責任を感じてその行為を正当化しようとしているんじゃないですか」
その言葉にマールーシャは咄嗟に反論できなかった。なかなか痛いところを突かれたと感じる。酔っていたとはいえ、その夜初めて対峙した相手と簡単に寝てしまった自分への失望とショックはまだ癒えていない。少なからず責任を感じているのは本当だ。
「気にしなくていいって言ってるのに。誘ったのは僕ですし……それに、それってそんなに悪いことなんですか?」
ゼクシオンは純粋に疑問だといった様子で首を傾げる。
「妙な責任もなく、拘束もなく、楽しいところだけ共有するだけの関係」
「不誠実だ」
「自由を愛しているだけですよ」
そう言う彼は穏やかだった。彼が何よりも愛しているのは自由なのかもしれない。だとしたら、恋人になりたいなどと言って縛り付けることなんてできないだろう。
彼の主張に納得できずに唸っていると、「貴方は真面目ですから」といつもの言葉が出てきた。彼からの自分の評価はこれに一貫していた。もちろん、皮肉も含まれているだろう。どこか角のあるその言葉を受け取ると最初はささくれだった気持ちになっていたが、最近はあまり気にならなくなっていた。そもそも正反対の性格だ。彼の素性は知らないけれど、やはり話しているとどことなく軽薄な印象はぬぐえなかったし、自由を愛するだなんて聞こえのいい言葉を使っても、彼の望む関係は自分の理解の範疇を超えていた。
「真面目というか、良い人なんですね」
「“都合が”いいんだろう」
「そうじゃなくて」
くすくすと笑いながらゼクシオンは手を振った。
「そういうところが貴方のいいところだと思いますよ、本当に」
ゼクシオンはマールーシャを見つめて言った。マールーシャもその目を見つめ返した。ゼクシオンは腕を伸ばすとマールーシャの首に回し、自分の方へと引き寄せた。音もなく唇同士が触れる。落ち着きかけた熱が身体の奥でほんの少し疼きかけた。
「……ひとつ、教えてあげましょうか」
君のことを知りたい、と言った言葉を受けてだろうか。顔を寄せるとゼクシオンは耳打ちするように囁いた。
「僕はきっと、貴方が思っている以上に好きですよ」
そう言うとゼクシオンは微笑んだ。無邪気な笑顔に、まるで本心だろうかと錯覚しかけてしまう。鵜呑みにしてはいけないと思いながらも、マールーシャはゼクシオンの言葉を噛みしめるように反芻した。
ほんの僅かでも距離が縮まっただろうかと、思った矢先だった。
「貴方は、きっといいお父さんになりそう」
「は」
無邪気なままにこにこと発した彼の言葉は、マールーシャにとって残酷なものだった。甘い雰囲気で頬をすり寄せる所作と彼の放った言葉の意味が結びつかず、遅れてその言葉を受け入れれば今度は頭が真っ白になる。
「どうしてそういうことを言うんだ」
絞り出すようにして問いただせど、相手は一切の悪びれる様子もなく答える。
「普通に幸せになってほしいんですよ。可愛い奥さんと結婚して、子供にも恵まれて。そうやって、あたたかい家庭を築くのがあなたには似合っていますよ。……こんなところで遊んでいるよりもね」
胸を抉られたような気分だった。隣りにいるはずの男が、とてつもなく遠くに感じられる。どんなに肌を合わせても、好きだと言葉を交わしても、本当の彼への気持ちなど露ほども伝わっていなかったのだ。
甘えるように絡みつくゼクシオンの腕から逃れマールーシャは身を起こした。
「今は考えられない」
「ゆっくり考えたらいいですよ。貴方には幸せになってほしいって本気で思ってるんですよ。好きな人に幸せになって欲しいって思うの、当然でしょう」
「何が幸せかなんて勝手に決めるな」
不機嫌な声が出てしまう。ゼクシオンが起き上がってこちらを見た。顔を上げられずに、自分の膝の上で握った拳を睨みつけるしかなかった。
背後の気配に、身体を抱く腕の感触。体温が気持ちいい。悲しいんですか、と耳元で声が聞こえた。
どうして手に入らないんだ。
「慰めてあげる」
こんなに近くにいるのに。
20230226