五夜 - 1/3
「いつもすみません、狭くて」
隣に入って布団を被りながらゼクシオンはマールーシャを見上げる。首を横に振ったマールーシャは少し眠そうな目をしていた。満たされている目だ。深夜もとうに回っていた。
今夜もいつも通り彼と待ち合わせをして酒を酌み交わしたあと、ゼクシオンが自宅へと誘った。ベッドは狭いし物音にも気を配らなくてはならないけれど、勝手知ったる自宅はやはり気が楽だ。こうして彼を家にあげるのも何度目か知れない。本当は他人を自宅にあげるのは気が憚られるのだけれど、なぜだかマールーシャ相手ならば気にならなかった。しっかりと線引きはしているものの、彼のことをかなり許容している自分にゼクシオンもうすうす気付いていた。
夜の時間を過ごし、シャワーも済ませ、今日はもう寝てしまうだけだ。明日の予定もない。心ばかりの朝食を用意したら、あとは彼が帰るのを見送るだけ。
「かまわない。家主に窮屈な思いをさせて、むしろ謝るのはこちらの方だ」
「僕だってかまいませんよ。呼んだのは僕ですし。寒がりなので、むしろ都合がいいくらい」
そう言ってゼクシオンは布団の中でマールーシャのあたたかい足に自分の足を寄せた。それを聞いてマールーシャは遠慮がちに、もっとこっちに寄ったら、と言った。そうしたいと思っていたところだったので、ゼクシオンは素直に彼の体躯に身体を寄せる。服越しにもわかる体温の高さは眠る前のひと時に心地よく、顔を埋めるとバスルームで使ったソープが香った。リンデンの淡い香り。自分の愛用しているものが彼からも香っている。心地よい思いで身体を落ち着けた。狭いベッドの中で身を寄せ合って甘く触れ合う時間は、セフレでいるという取り決めさえなければまるで恋人そのものだ。前回別れた時の気まずさはもうすっかり払拭されていた。
前回かわしたやりとりは、彼にとっては苦いものだったことだろう。場をやり過ごすために慰めるなんて言葉を使ったものの、互いに気分がのらずに有耶無耶な雰囲気で終わりを迎え、すっかり気持ちが冷めていたのでゼクシオンはシャワーも浴びずに部屋を後にしていた。彼と真面目に話をするとだいたいこうなる。今度から真面目な話には耳を貸さずにさっさと解散した方がいいかもしれない。などと考えたりもしたけれど、結局のところ声を掛ければどんなきまぐれな誘いでも彼は時間を都合してくれたし、触れ合えば夢中になれた。きっと彼も一本線を引いて楽しむことにしたのだろう。ゼクシオンはそれに満足し、ゆえにまた少し気を許して部屋に呼ぶなどしていた。
皮肉でも何でもなく、いい人なのだろうなと純粋に思う。彼が恋人だったらきっとその隣にいる人は幸せだろう。でもその座にいるのは自分ではないはずである。いい人にはいい人がお似合いだ。
相手の幸せを望むような発言をしたつもりだったのに、想像以上に傷付いた表情を見せたのには内心驚いた。案外ナイーブなんだな。もうそんな深入りはしないつもりだけれど、念のため覚えておこうとゼクシオンは考える。
傷付いた様子の相手を見て胸の中にわだかまりが残っていた。大事にしたいと繰り返すマールーシャの言葉を不意に思い出した。彼は自分を乱す。そう言う感情を向けられるのは苦手だ。
先に寝息を立てはじめたマールーシャに、ゼクシオンはいつしか見入っていた。邪気のない寝顔。不意に触れてみたいような気に駆られる。そろそろと手を伸ばすが、触れる間際、たまたま彼が身じろぎをしたので、我に返って手を引っ込めた。相手にこんな気持ちを持つなんてどうしたんだろう。
ひょっとして、自分は何か変わりかけているのだろうか。
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待ち合わせの薄暗い店内のカウンター席。手の中のグラスはだいぶ軽くなっていた。揺らすと氷ばかりが音を立て店内の静かなざわめきと調和している。何を聞くでもなくその音に耳を傾けるのも、こういった場の楽しみ方の一つだ。
時間的にもそろそろだろう。残り少ないウイスキーを飲み干してゼクシオンがグラスをテーブルに置いたのとほぼ同時に、入り口のドアベルがりんと音を立てた。誰かが入ってきた気配。辺りを見渡しているのかしばし立ち止まったあと、すぐに歩き出す足音。振り向かなくたって、こちらに向かってくるゆったりとした広い歩幅を思わせる足音だけでわかる。ほどなくして隣の席で止まった気配に顔をあげてゼクシオンは微笑んだ。
「こんばんは」
マールーシャも微笑み返した。暗い店内の中で、カウンターの明かりを受けて顔の陰影が濃く際立っていた。まったく、いつ見ても男前で見とれてしまう。酒の酔いもあってゼクシオンがぼうっと見つめる中、マールーシャは席に着いてバーテンダーに酒の銘を告げた。ゼクシオンもすかさず隣りから同じものをもう一つ注文する。その日の飲み物を彼のチョイスに一任するのも最近の楽しみ方の一つだった。
「なんだか今夜はお疲れです? 顔色、あまりよくない」
そう言ってゼクシオンはマールーシャの方へ身を乗り出した。男前なことに変わりはないが、席に着くなりそっと息をついたのを見逃さない。マールーシャはいつにも増して疲労を滲ませているように見えた。
「繁忙期に差し掛かってきたところだ。なかなか自由な時間も取りづらくてな、私の方にばかり予定を合わせてもらってすまない」
「それは構いませんけど」
マールーシャが忙しいのは事実として二人の会う頻度にも影響していた。なかなか日程を合わせられない日が続き、約束していたのに急に都合がつかなくなったと言われた日もあった。彼の都合に自分が合わせる形で今日はようやく二人で会うことがかなったのだった。久しぶりに目の当たりにしたマールーシャは、いつもの悠々とした雰囲気をまといつつもやっぱりどこか疲労感を思わせる。目の下が暗いのは照明のせいだけでないのかもしれない。
「じゃあ、今夜はたっぷり労わってさしあげないと」
ゼクシオンはそう言うと意味深に微笑んだ。バーテンダーの置いたグラスを手に取り、静かに相手のグラスに押し当てる。マールーシャも薄く微笑んでから前に向きなおって静かにグラスを傾け、しばらく酒を味わうことに集中した。あんまりまじまじと見ても悪いと思いつつもそんなマールーシャをちらちらと眺めながらゼクシオンもしばらくグラスの中の液体に意識を向けた。色男を前にして飲む酒は格別なのだ。
「それにしても、僕の部屋だと窮屈ですよね」
バーテンダーが離れたところにいるのを確認してから、ゼクシオンは声を潜めて言った。自宅であるワンルームの一人用ベッドを使うときは、いつも身を寄せ合って眠っていた。身体の大きな彼はずいぶんと窮屈な思いをしているに違いなかった。そんなところでは身体は休まらないだろう。
マールーシャは、嫌いじゃないよと言いながらグラスを置いて笑った。目を細める彼の上品な微笑み方にまたしても見入ってしまいそうになる。堅物かと思いきや、彼だって言い知れぬ色気を隠し持っていることにゼクシオンはもう気付いていた。魔性の男だ。
「でも、広いベッドで寝た方がいいのでは?」
「今日はホテルの気分じゃない」
「そうは言いましてもね……」
自宅を気に入ってくれているのであればそれはそれで嬉しいのだけれど、今日は場所を変えた方がよさそうである。
「……あなたの部屋のベッドならきっと、もっと広いんでしょうね」
「まあ……広さで言えばそれなりには」 聞けば、セミダブルだという。
「二人で並んでもそれなりにゆとりはありそう」
「どうだろう、私自身が縦も横も取るからな」
苦笑しながらマールーシャはまたグラスを傾けた。琥珀色の液体が流れ口に含む間際、静かに伏せられた睫毛をゼクシオンは見つめる。
「試したことないんですか?」
「誰かを家に呼んだことはないから」
「恋人も?」
「そう」
「ふうん」
意外に思えた。交友関係は広そうだし、今はいないにしても恋人の一人や二人、部屋にあげたことがあってもおかしくなさそうなのに。意外と潔癖気質なのだろうか。厳選された少ない家具のみが置かれている広々とした寝室を想像した。金銭には不自由していなさそうだし、きっといいマンションの高層階にでも住んでいるに違いない。空想は勝手に広がっていく。誰も訪れたことのない、洗練された、彼のプライベートな空間。
「……行ってみたいな」
その言葉は自然に口からこぼれた。え、とマールーシャがぎこちない反応を見せる。ゼクシオンも思わず口が滑ったと一瞬焦ったけれど、口に出してみると意外にもそれは名案に思えてきた。
「ねえ、今夜は貴方の部屋に行ってみたい」
「なんだ急に、どうしてそうなる」
「広いベッドの寝心地を試してみたいなあと思って。それに自宅の方が貴方もくつろげるでしょう」
「広いベッドがいいならホテルの方が断然広いだろう」
「だってホテルの気分じゃないって貴方が言うから」
予想に反してマールーシャは了承を渋った。頑なな態度にゼクシオンは疑問を覚える。いつもなら、大抵のおねだりは二つ返事できいてくれるのに。
「何をそんなに渋るんですか。見られて困るものでもあるんです? あ、やっぱり本当は別の相手がいるとか」
「そんなんじゃない…………単に散らかってるだけだ」
「それ今考えた言い訳でしょう」
「男の一人暮らしなんてそんなものだろう。最近は特に仕事が忙しくて、家には寝に帰るだけのようなものだし」
「なんですかそれ」
取ってつけたような言い訳をゼクシオンは一蹴した。相手への興味が勝って、難しい顔をしているマールーシャとは対照的にゼクシオンはどんどんその気になっていく。彼のプライベートな空間も気になるし、他の相手――彼が本気になった相手――の影があるならそれはそれで確認したい気もする。
ねだり倒して、半ば強引にマールーシャ宅へ行くことを取り決めるのに成功した。根負けしたマールーシャはしぶしぶと言った様子で了承の返事をすると、言っておくが、本当に散らかっているからな、あと仕事のものには絶対に触るなよ、と散々釘を刺してきた。そうして少し酔いが醒めたような調子でバーテンダーを呼び止めて会計を申し出た。
マールーシャの後ろに立ち並びながら、ひょっとして彼にも隠しておきたい秘密があるのかもしれない、なんて考える。その秘密に触れるのはなんだか面白そうだ。勝手な想像を膨らませながら、店を出ると駅の方へと並んで歩いた。
そうして訪れた念願の自宅訪問にて、ゼクシオンは予想外の光景を目の当たりにすることになる。