エピローグ

「マティーニを」

 やってきたバーテンダーにマールーシャはそう告げた。カウンター席には自分一人。店の奥で声を潜め語らう客の他は誰もおらず、落ち着いたジャズ調の音楽がよく聞こえている。待ち合わせの時間よりもずいぶん早かった。もう性分のようなものだ。待っている時間に感じることのできる穏やかな喜びと期待が心地よく胸を満たす。
 すぐに用意されたマティーニを少しずつ含みながらマールーシャは待ち人が来るまでの時間をバーテンダーが氷を削る様子を眺めて過ごした。切り落とすように刃を当てられると氷は白い雪のように身を散らし形を無くしていく。削られた表面は一層透明に、滑らかになっていった。角の取れ透き通った氷を、いつしか一人の男に重ねている。

 

――何か、変わるでしょうか。

 あの朝、彼がマールーシャに対する感情を吐露してくれたときのゼクシオンはどこか不安げに見えた。目を伏せ、手の中のカップに縋るように握りしめている姿は、いつも勝気な彼らしからぬ様子だった。

――何も変わらないだろう。

 マールーシャのその言葉は強がりでも慰めでもない。
 何も変わらない。二人の関係に名前が付こうが付くまいが、共に生きていくと決めた二人の関係性は変わらずに続いていくだろうから。本心からマールーシャはそう言った。

 ゼクシオンも頷いた。目の中に安堵の色を垣間見た気がしたその時、マールーシャはこれ以上なく相手のことを愛しく感じた。自分との関係に不変を願ってくれるなら、同じように変わらぬ気持ちを注ぎ続けたいと強く思う。

 ……けれど。

(変わることがあってもいいと思うがな)

 バーカウンターのライトの下でマールーシャが手を開くと、そこには銀色の鍵が光っていた。自宅の鍵だ。……正確に言えば、スペアキーである。本当は、前回会った時に渡そうと思っていた。

――酔い過ぎてもらっては困る。……今日は、特に。

 酒の勢いで渡したと思われたくなかったのでそう言ったのだが、あの時はどうやら違った期待をさせてしまったらしい。……結果としてそれはそれでよい時間を過ごせたわけであるが。

 数えきれない夜と、それ以外の時間も共に過ごしていきたい。そんなことを伝えたら、以前のゼクシオンならきっと良い顔をしなかっただろう。けれど、彼自身も変わってきている。それは決して悪いことではないはずだ。いつの日か彼がねだってくれたこの鍵にかけて、二人の距離を縮めるのにほんの少し踏み出してみようと思っている。

 

 入り口のドアベルが鳴ったのが聞こえ、マールーシャは思わず手の中の鍵を握りしめた。
 振り向かなくたってわかる。足音は真っすぐこちらにやってくると、隣りの席の背に手を置いて彼は言った。

「お隣、空いてますか」

 見上げた先の、妖艶な雰囲気と蠱惑的な瞳は初めて会ったときと変わらない。けれど、少し角が取れただろうか。丸く削られた氷が脳裏に浮かんだ。冷気を放ち、触れられることを好まない、けれどその内側に何よりも透明で純真な感情を湛えた繊細な氷のことを。

「ああ、どうぞ」

 隣りに迎えると、彼は自分と同じものを注文した。照明に照らされた横顔をみつめる。長い前髪の陰に隠された右眼の妖しさや、細い影をつくる睫毛の長さまで、初めて会った夜の胸の高鳴りを思い起こさせた。ずっと見ていたいと思う。変わらないところも、変わっていくところも。夜も朝も、それ以外の時間も、この先ずっと。

 

 グラスを受け取ると、こちらを向いた彼は妖艶に微笑んで言うのだった。

 

「楽しい夜にしましょうね」

 

 

(了)