七夜、そして朝 - 1/3
琥珀色の液体に浮かぶ氷を見ていたら不意にそんなことを思った。触れ合うとその表面温度は共鳴するようにひとつに混ざり合うけれど、時がたつにつれて常温に近付き、やがて形すらも失う、そんなところが。
感情の変化がゼクシオンは嫌いだった。新鮮な気持ちがなくなり、関係性がだれることを特に嫌った。
いつだって相手に刺激求めていたし、同じように相手からも求められたかった。叶い難いとわかっていてもそんな不変を望まずにはいられなかった――殊更、それが好いた相手ならば。
「……今日はもういいのか」
声を掛けられてゼクシオンは現実に引き戻される。薄暗い店内。ほどよいざわめき。いつものバーだ。グラスの氷を揺らすばかりのゼクシオンを珍しく思ったのだろう、マールーシャが向かい合った正面の席から顔を覗き込んでいた。
「さっきからずっと上の空だが」
「見とれていただけですよ」
ゼクシオンはそう言ってはぐらかすように笑った。訝し気なマールーシャを他所にグラスに口を付けたが、中身はとうに氷だけになっている。心ここに在らずとはまさに、さすがにゼクシオンも苦笑せざるをえない。
追加注文は見送ることにして、ゼクシオンは眼前でグラスを傾けるマールーシャの様子を眺めた。仕事帰りだというのに涼やかな佇まいはいつだって乱れを見せない。グラスを持ち上げる指先、顔に近付け目を閉じて香りを楽しむ様子。唇にグラスのふちを押し当て、口に含んで味わう様子。ため息が出そうだ。やはり色男と飲む酒は格別である。ずっと見ていたい、なんて考えて……はたと気付く。こんな感情でも、彼の言う『そばにいたい』という理由になりえるのだろうか。
マールーシャとの関係はゼクシオンにとって理想的といえた。ルックスはもちろん、いつでも求める刺激を与えてくれたし、一緒に過ごす時間は彼もまた同じように自分を求めてくれていたように思う。
彼が伝えてくれた純真な感情は、嬉しくもあり不安でもあった。その気持ちだってきっといつかは変化してしまうだろう。氷が溶けていつしかその気配すらなくしてしまうように。
だから、深入りしたくなかった。近付きすぎないように予防線を張っていたのは、失いたくなかったからだ。
ゼクシオンは自分がすでに彼に対してかなり深い、戻れない場所まで踏み込んでいることに、いやでも気付きつつある。
またしてもゼクシオンがぼんやりとしながら一点を見つめていたので、マールーシャは眉をひそめる。
「さっきから何を見ている?」
「男前だなあと思いまして」
訝しげに問うマールーシャにゼクシオンは笑いかけた。本心のつもりだったけれど、マールーシャは苦笑している。
「飲み過ぎなんじゃないか」
「いつも通りですよ」
「見境がなくなるまで飲まれては困る……今日は、特に」
マールーシャは語尾を曖昧にして目を伏せると誤魔化すようにまたグラスに口を付けた。おや、とゼクシオンは思う。そんなことを言うなんて、今夜は何か特別なことでもあっただろうか?
マールーシャとこうした時間を過ごすのは実に久しい。顔を合わせたのも自分が体調を崩して部屋に呼んだとき以来だ。肌に触れたのなんてもっと前。なんだかんだそう言う展開になっていなかったことに気付いた。ともすれば――。
(……ああ、そういうこと)
マールーシャの意図を汲んでゼクシオンは悦に浸る。つまり、今日は久しぶりに抱かれるのだろう。
待ち合わせをして酒を酌み交わし、その足で適当な部屋を取る。これまでは当たり前だったそんな過ごし方も相当ご無沙汰だった。真面目に顔を突き合わせて話したあの日以来、ちゃんと理性を保ったまま彼と触れ合いたいとゼクシオンもずっと思っていた。――心を伴って身体を交えたら、いったいどうなってしまうのだろう。
意識すると急にその気になってきた。胸中に甘い疼きを覚えながらゼクシオンは乗り気でマールーシャのグラスを覗きこむ。
「じゃあ、それ飲んだら行きましょうか」
「なんだ、また急だな」
「早く二人になりたくなりました」
ゼクシオンは身を乗り出すとマールーシャだけに聞こえるよう声をひそめた。マールーシャはやや動揺した様子を見せた。こなれていそうでいて、しかしこういう小賢しい手法にまんまとぐらつく様子をみせるところがまたたまらないのだ。
「そうか……そうだな、うん、わかった」
マールーシャは狼狽気味に返事をしたが、意志は同じようで残り少ない液体の入ったグラスを黙って傾けた。決して粗雑でない、上品な飲み方だった。最後の一筋が消えていくところまでゼクシオンはうっとりと見届ける。なんだかこれだけでも今日はいい夢が見られそうな気がする。
会計を済ませて店の外へ出ると、目の前にタクシーが止まっていた。近付いていったマールーシャが当たり前のように中へと促すのでゼクシオンは面食らう。
「いつの間に呼んだんですか」
「最近はタクシーも拾わずとも呼び寄せられて便利だな」
マールーシャはスマートフォンを仕舞いながら澄まして言うとゼクシオンに続いて後部座席に乗り込んだ。
「というか、タクシーなんか乗ってどこまで行くんです? 僕はその辺のつもりだったんですけど」
車内に入ったのでゼクシオンは少し声をひそめた。懇意にしているホテルがすぐ近くにあるから、てっきりそこへ行くのかと思った、けれど。
「汚名を返上させてくれないか」
同じように小声で囁いて視線を投げかけたマールーシャがなんだかやけに色気をはらんで見えてゼクシオンは返答に窮した。
ネオンの光る夜道を駆けたどり着いたのは、彼の部屋だった。