一夜
ここはどこだっけ、何故ここにいるんだ?
まだ夢見心地でマールーシャはぼんやりと記憶をたどった。そして昨夜の出来事を思い出した途端、ガバリと勢いよく身を起こした。間髪入れずにズキンと頭痛が走り、マールーシャは思わずぐうと唸る。ガンガンと鳴るような頭痛をこらえながら辺りを見渡した。
知らない天井に、知らない部屋。薄暗い部屋に窓はない。ベッドは広々としていて、見下ろすと自分は服を着ていなかった。ざぁっと顔から血の気が引くのがわかる。身体が震えだしそうなのを何とか耐え、恐る恐る隣を見る。
夢であってくれたらどんなに良かっただろう。しかし、こちらに背中を向けて同じく裸体をさらしながら寝ている青年の姿は、紛れもない現実だった。
*
あのバーに入ったのがいけなかった。
昨夜はまず友人とあって酒を酌み交わしていた。何件も渡り歩き、大いに酒を飲んで酔いつぶれた友人をタクシーに押し込んで帰らせたのが十一時を回った頃だ。終電まではまだ時間もある。もう一杯くらい飲めるだろう。酒癖の悪い友人の扱いに手を焼いて疲弊してしまったこともあり、一人で静かに飲める場所を求めてマールーシャは人通りの少ない細い道に入り込んだ。薄暗い路地裏に光るネオンに誘われ手近なドアをくぐる。
オーセンティックなそのバーは入口の安っぽいネオンからは想像できないような本格的な構えで、クラシカルな雰囲気に気分は一気にリフレッシュされた。通されたカウンターは、切り出したままのマホガニー材の一枚板が実に渋い。カウンターの向こうにはレコードプレーヤーが客にもよく見えるようにおいてあり、その後ろにはレコードのジャケットが立てかけられていた。ジャズ調の音楽がゆったりと流れる現実から切り離されたような空間に大いに満足しながらマールーシャは酒を注文した。
ブランデーの甘い香りを堪能しているうちに徐々に酔いが回ってくる。カウンターには自分一人で、バーテンダーの接客も上品だ。やたらと話を振ってくることもなく適度に放っておいてくれる距離感が心地よい。
大通りにある店はいろいろ知っていたが、路地裏にこんな隠れ家的な店があるなんて全く知らなかった。すっかり気分を良くし、マールーシャは時間も忘れて居心地の良い空間に酔いしれていった。
「お隣、空いてますか」
だいぶ酒が進んだ頃、突然横から声が聞こえた。幻聴でも聞こえるほど酔ってしまったのだろうか、とマールーシャが顔を上げると、見知らぬ若い青年がこちらをまっすぐに見ていた。
「座っても?」
ぼんやりと相手を見つめていたが、青年が椅子の背に手をかけて少し引いたのを見て、その言葉が自分に向けられたものだとようやく気付く。
「あ、ああ、どうぞ」
慌てて返事をして、マールーシャは気持ち姿勢を正した。
すっかり自分の世界に入り込んでいた矢先に見知らぬ男に声を掛けられ、正直なところ少し興が覚めた。そんな気も知らず、どうも、とにこやかに隣にかける青年を尻目にそっと店内を見渡す。どこかに座っていたのだろうか。今入店してきた様子はない。店内はそこそこ客が入ってはいるがまばらで、テーブルもカウンターもだいぶ空きがある。なぜわざわざ隣に?
視線を戻すと、青年はまだ微笑みながら体を完全にこちらに向けて座っていた。ようやく相手をよく見る。こんなところにいて大丈夫なのかと心配になるくらい若くみえる。毛の細い髪の毛は間接照明を受けて淡い銀色に光って見えた。ファッションなのか、前髪を片側にまとめて右目を覆うように流していた。おかげで右目はよく見えないが、あらわになっている左目は長い睫毛が中性的な雰囲気を醸し出している。
「ここ、よく来るんですか」
「え? いや、今日はたまたま」
「お酒強いんですね。ロックでしょう、それ」
しなやかな指が伸びてきて、マールーシャの前にあるロックグラスに触れた。溶けかけたロックアイスがグラスにぶつかり軽やかな音を立てる。随分と距離感の近い男だ。マールーシャは短く返事をしながら少し警戒気味にグラスを持ち手前に寄せる。
「何飲んでるんですか」
「ブランデーを」
「へえ、オシャレですね。じゃあマスター、僕も同じものを」
少し離れたところでグラスを磨いていたバーテンダーは、青年の声を聴くと短く返事をして慣れた様子で酒の用意を始めた。
青年を見るとまだこちらを見てにこにこしている。顔にはあまり出ていないが酔っているのだろうか。じっと見られてむずがゆいような気持ちになる。何か話したほうがいいだろうか、とマールーシャは会話の糸口を探した。
「ええと、貴方も一人で?」
「そう。本当は待ち合わせをしていたんですけど」
そう言いながら青年はスマートフォンを取り出して画面を確認する。何の通知も来ていない、時刻を示す数字だけが光る画面がちらりと見えた。
「……どうやらすっぽかされちゃったみたいで」
青年はそう言うと眉尻を下げて少し寂しそうに笑った。
「それは酷い話だ」
真面目に憤慨してマールーシャは言う。
「約束を守らないやつにろくな人間はいない」
「貴方は真面目なんですね」
「人として当然のことだろう」
「じゃあむしろ来なくて良かったのかも」
マールーシャの熱弁に頷いて青年はくすくすと笑った。
「なんだか、貴方と話しているほうが楽しそう」
青年はカウンターに肘をついて覗き込むように見上げてきた。長い前髪から覗く瞳が青い。よく見ればやはり酒のせいか目は少し潤んでいて、独特な色気にマールーシャは思わず目が離せなくなる。
青年は真っ直ぐ見つめたまま言葉をつづけた。
「貴方が代わりに僕の相手をしてくれませんか?」
「それは構わないが」
「本当に? 嬉しい」
青年は目を細めて顔をほころばせる。
先ほどまでの青年への戸惑いから打って変わって、さらりと返事は出てきた。約束を破られた若い青年を不憫に思ったのが半分、初めて来たバーで初めて会う人間との会話に好奇心が沸いたのが半分。酔いも手伝って、今夜は少し冒険してみたくなったのだ。話し相手くらいなら年の離れた青年相手でも通用するだろう。
バーテンダーがやってきて、酒を満たしたグラスを静かに目の前に置いた。グラスを手に取り満足そうに微笑む青年はどこか妖艶で、同性とは思えない色気を纏っている。
「楽しい夜にしましょうね」
そういうと青年は、マールーシャのグラスに自分のそれをカチリと当てた。
そこから先は、記憶が混濁している。
最初は他愛ない話をしていた。どんな酒が好きだとか、どういう店によく行くだとか。話しながら相手は意外にもかなりのペースでグラスを空けていった。合わせるようにあれこれ飲んでいるうちにだいぶ酒が回り、ついに視界が歪み始めたころ、場所を変えようと言い出して向こうが席を立った。あれだけ飲んだのに涼しい顔をしている。対してこちらは、すでに何件も回ったうえでここに来たこともあって足元も危うい。酒は強いつもりでいたが、相手のほうが随分と上手らしい。なんとか地面を踏みしめて店を出る。夜風が気持ちよかった。
涼しい風が頬を撫でる感覚にい酔いを醒まそうとしていると、右腕に暖かな体温を感じた。見ると、青年が腕を絡ませ、手を握っている。あれ?そういう感じだったっけ。とマールーシャは疑問を抱くも、惚けた頭はうまく事態を処理できない。うっとりと見上げるような視線、甘えるような仕草はまるで恋人に対してするかのようだった。触れた指先はひどく熱い。
『飲みすぎちゃいましたね』
『そこまで歩けますか?』
『休憩、していきましょ』
だなんて誘われるがまま近くのホテルに足を踏み入れ、そのまま──……
*
顔面蒼白になりながらマールーシャは頭を抱える。自分がこんなことできる人間だなんて思ってもいなかった。酒の勢いで、名前も知らない相手と。しかも、同性だ。同性、なのに。昨夜の光景が脳裏をよぎる。
部屋に入ってからの出来事を思い出しかけていよいよ卒倒しそうになっていると、隣で寝ていた青年が短く声を発して寝返りを打った。ぎくりと固まっていると、身体をこちらにむけてゆっくりとその目を開ける。青い目と視線がぱちりと合う。
「おはようございます」
とろんとまどろむような視線はまだ昨夜の余韻を残していて、こちらとの温度差に寒気すら感じた。口がからからに乾き、言葉が出てこない。
マールーシャが固まっていると、青年はもぞもぞと寄ってきて腰に腕を回してきた。
「素敵な夜でしたね」
甘えるような声の後、青年は唇をマールーシャの肌に寄せた。チクリと腰骨の上に痛みが走る。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
痛みに我に返り、マールーシャは慌てて青年を引き離した。口づけられたところをみると、うっすらと赤く色づいている。必死に言葉を探そうとするも、急に大きな声を出したせいでまたズキンと頭が痛んだ。短く呻くような声を聞いて青年は真っ直ぐに見つめてくる。
「ひどい顔。二日酔い?」
「……頭痛がすごい」
「たくさん飲みましたものね」
青年は労るように息をつくと、起き上がってすたすたと冷蔵庫に向かった。同じくらい飲んだはずだが彼のほうはぴんぴんしていた。これが若さか、とどんよりとした気持ちに拍車がかかる。
青年は黒いボクサーパンツを身に着けていて、肌の白さを引き立てていた。きれいな背中に目を奪われていると、肩甲骨のあたりに赤い斑点があるのが目に入る。……自分がつけたのだろうか。考えれば考えるほど頭痛は悪化する。
くるりとこちらに向きなおると青年はベッドまで戻ってきてペットボトルを差し出した。
「しっかり水分取ってくださいね」
「……すまない」
「こういう時はありがとうっていうんですよ」
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
満足げに答えると、青年はベッドの縁に腰掛けた。
「昨日のことは覚えてます?」
ずんと頭が重くなる。開けようとペットボトルにかけた手から力が抜けた。
「申し訳ないことをした……酔っていたとはいえ、取り返しのつかないことを」
「何言ってるんです、誘ったのは僕ですよ」
「……初めてじゃないのか、男相手は」
「僕はそういう質なので」
しれっと言うと青年は立ち上がり、床に散らばった服を集め始めた。白い裸体が視界にちらついたがマールーシャは直視できない。思わず深いため息が漏れ出るのをこらえきれなかった。
「そう気に病まないでくださいよ。相手が男だったのは申し訳ないけど、ちゃんと気持ちよかったでしょう? ゴムもしてたし心配しなくて大丈夫。僕セーフセックス派ですから」
「やめてくれ」
うんざりとマールーシャが頭を抱えるのを見て、青年は服を着る手を止めた。
「でも、取り返しのつかないことになったのはそっちかもしれませんよ」
「は?」
マールーシャが顔を上げると、青年はいつのまにか近くまで来ていた。昨日と変わらない青い瞳は挑発的に微笑むと耳元で囁く。
「貴方、もう女性を抱けないかも」
「まさか」
反射的にそういいながらも、じつのところマールーシャは内心動揺していた。一夜ともに過ごしてしまった相手が同性だった、というのは変えられない事実だが、問題はそこではない。男相手にしっかりやることをやって、それで尚興奮して自ら腰を振っていた自分にマールーシャは激しく戸惑っていた。今も昨夜の情景を必死に思い起こすまいとしているのは、嫌悪からではなく、意に反して身体が反応してしまいそうになるのを堪えるためだ。本当はずっと、青年の艶めかしい姿が、声が、脳裏から離れない。
「茶化すんじゃない」
「だって貴方、とってもタイプなんですもん。ねえ、また遊んでくださいよ」
すっかり服を着終えた青年は再びベッドに乗り上げて楽しげに言った。
また会うのか?この青年に。マールーシャの中で期待にも似た気持ちがわずかに首をもたげる。また会えるのか?
手に馴染んだペットボトルをようやく開けて一気にあおった。冷たい水が喉を通り、胃の形をなぞるように体内に流れ込む感覚に、気持ちが少ししゃっきりとする。
「……やめておこう。場の雰囲気というものだ。素面で出来る気はしない」
「なんだ残念。遊んでそうなのに真面目なんですね」
「そっちは見かけによらず軟派なんだな」
「真面目に見えます?嬉しいな」
軟派男は楽しそうだ。
「お酒を飲んでその仮面が外れるのよかったですよ。マールーシャさん」
不意に名前を呼ばれて思わず顔を上げる。名乗った覚えはなかった。
怪訝な顔をしているのを見て青年は胸ポケットから小さなカードを取り出す。自分の名前が書かれたそれを見てマールーシャは唖然とする。
「お名刺、拝見しちゃいました。いい会社にお勤めなんですね」
にこにこと笑いながら名刺をもてあそぶ青年を見てすうっとまた血の気が引くのを感じた。
「おい勘弁してくれ、鞄を開けたのか」
「誓って言いますけど、他は何も触れてませんよ。知りたかったのは名前だけ。だからこれももうお返しします」
言葉を失っているマールーシャを見て青年は名刺を机の上に置いた。そのまま自分の鞄を肩にかけると、すたすたと出口へ向かう。
「まだ時間はあるからごゆっくりどうぞ」
「もう行くのか」
「ホテルから一緒には出ない主義でして」
澄ましていいながらドアに手をかける青年をみて、マールーシャは無性に引き留めたくなる衝動にかられた。しかし、引き留めてどうするというのだ。一晩床を共にしただけで相手を好きになってしまうほど純情ではない。……はずなんだが。
もの言いたげなマールーシャを見て青年は微笑む。優しくて、どこか蠱惑的なその笑みから目が離せない。
「またいつでも相手になりますよ」
それじゃあ、と短く挨拶をして青年は振り返らず部屋から出て行った。
マールーシャは閉じられたドアを見つめてしばらく茫然としていた。気を落ち着けてからベッドから立ち上がると急いで鞄を確認する。財布、鍵、スマートフォン。貴重品は無事だ。カード、現金、財布の中身も抜かれたりしていない。
ものすごい脱力感に襲われて、まだ裸のままマールーシャは床に膝をついた。昨夜から長い夢を見ているようだった。本当に現実だったのだろうか?思い出したように身体を見下ろすと、腰骨のところには小さな赤い跡が彼の存在を静かに主張していた。
ふと机の上に置かれた自分の名刺が目に入る。
『また相手になりますよ』
彼の最後の言葉が脳裏によみがえる。どきどきしながら名刺に手を伸ばす。裏返すと、流れるような美しい字体で名前と電話番号が書かれていた。
「ゼクシオン」
声に出してその名を呼ぶと、胸の鼓動は高鳴りを増した。
20190407
(20240331加筆修正)