二夜 - 1/5
手に持った名刺は紛れもなく自分の名刺だが、その裏面には別の人物の名前と電話番号が書かれている。この一週間、マールーシャを悩ませ続けた番号だ。
名前も何も知らない青年と出会ったのが、一週間前。何の気なしに入ったバーで声をかけられて酒席を共にした後、半ば強引にホテルに連れ込まれて事に及んでしまったのが始まりだった。同性相手の行為は初めてだったが、戸惑いながらも言い知れぬ色気を纏う青年にいつしか夢中になっていた。彼の立ち去った後に残されたのは、名前と連絡先の書かれたこのメモだけ。まるで小説かドラマの出来事のようじゃないだろうか。
渡された連絡先をどう扱ったものかとマールーシャはこの一週間悩みに悩んだ。『また遊んでください』と耳に甦る彼の言葉は、そのままあの夜の関係を望むものだろう。素面ではできないとあの場では断言したものの、酔いが醒めても、日が変わっても、陽の光の下でも、隙あらばあの夜の出来事が脳裏に甦った。悩むこと自体馬鹿らしくて、もう会うことはない、と自分に言い聞かせても、でもあの連絡先がある、その気になればまた会える、ともう一人の自分が頭の中に囁く。
そうして一週間悩みぬいた挙句、結局マールーシャは書かれていた電話番号に発信することに決めたのだった。開き直ったともいえる。会いたいなら会って話せばいいだけのことだ。
金曜日の夜、同僚からの酒席の誘いを丁重に断ったマールーシャは、帰宅もしないうちに人気のない場所で名刺を取り出し、その番号に発信し冒頭に至るのである。都合よくこの後会えたりしないだろうか、などという期待を胸に秘めながら、スマートフォンに耳を傾けていた。
とはいえ、いざコール音が鳴りはじめると途端に緊張が全身を支配した。名乗ってから「誰?」 と言われてしまったらどうしよう。本気にしてバカみたいと思われたら?
意を決したばかりなのにすでに後悔しかけていたが、僅か数コールの後で相手が出た。電話越しの相手の声は落ち着いているが、知らない番号からの着信にどこか訝しげだ。胸の昂ぶりを押さえてマールーシャが名乗ると、わずかな沈黙のあと、ああ、と相手の声が明るくなった。その声が耳に入ると思わず安堵して力が抜けた。どうやら覚えてくれていたらしい。
なんと切り出そうか悩む間もなく向こうがサクサクと話を進めた。
今日これから会えますよ。〇〇駅まで出てこれます? 何時なら平気? じゃあその時間で。改札で待ってます、ではまた。そういうとほぼ一方的に切られた。スマートフォンを肩に挟みながら慌ててメモを取った待ち合わせの場所は聞きなれない場所だった。繁華街ではない。どこか行く当てがあるのだろうか。
悩んでいたのが馬鹿らしいくらいあっさりと話は進んだ。覚えてくれていたことが、純粋に自分も嬉しかった。今夜会える、と思うとふつふつと高揚感が沸き上がってくる。殴り書きのメモが急に大事なものに思えた。
*
電話を終えた足でそのまま向かい、約束の時間より早く到着したにもかかわらず青年、ゼクシオンはすでに改札口で待っていてた。家路を急ぎ構内を行き交う人々の中で、およそ頭一つ分背の低い彼は壁にもたれるようにして立っている。身体のラインがわかるようなタイトなスキニージーンズと黒いTシャツ。ちょっと人目を惹くような容姿は記憶の通りだ。スーツではないところを見ると、仕事帰りではないようだ。何をしている人なんだろう。改めて自分が相手のことを何も知らないまま心惹かれていることを自覚する。
少し緊張した面持ちでマールーシャが歩み寄ると、長い前髪のその青年は気配に気付いて顔を上げた。無表情だったが目が合うとふっと頬を緩めてくれて、それがまたマールーシャの緊張を和らげた。
「お仕事帰りですか? スーツ、似合ってる」
「ああ……急に連絡してすまなかった」
「いいえ、むしろ嬉しかったです。本当に連絡くれるとは思ってなかったから」
挨拶もそこそこにして素直な言葉にマールーシャはなんと返事をしたらいいものかわからず、戸惑ったように笑みを浮かべた。ゼクシオンも特に気にしていない様子で時計をのぞく。
「どうします、軽く何か食べていきます? それとももう部屋にきます?」
「え、部屋って」
「僕の部屋」
ここからすぐです、と当たり前のように発せられたゼクシオンの言葉にマールーシャは仰天した。まさか最初からその気だったとは。聞きなれない駅名も、彼の居住の最寄り駅に他ならない。
「いや、そんなつもりで来たんじゃない……」
「どんなつもり?」
しどろもどろなマールーシャを見てくすくすとゼクシオンは笑う。
「せっかく来てくれたんですから、寄っていってくださいよ。立ち話だけで帰るつもりですか?」
「今日はちょっと冷静に君と話したかったんだ」
「ああ、それは良いですね。僕も今日は冷静な貴方に抱かれたいと思ってましたから」
「なっ」
仮にも往来での大胆な発言にマールーシャはぎょっとして、慌てて辺りを見渡す。幸い、あわただしい改札口にとどまり二人の会話を聞いている人は誰もいなさそうだ。
前回は酒の勢いで彼のペースに乗せられてしまった、と思い込んでいたが、彼の独特なペースには素面でも全くかなわなかった。
「ね、決まり」
言葉に詰まっているマールーシャに構わずゼクシオンはにっこりと、でもきっぱりと断定した。さりげなくとられた腕を振り払うこともせず、引かれるがまま人通りの少ない住宅街にマールーシャは引き込まれていった。その先の展開をうっすらと期待している自分がいることを受け止めきれないまま。