003 100回キスしないと出られない部屋

 前略、例の部屋です。

 

「何とかしたらどうなんです」
「お手上げだ。武器も出ない。お前こそお得意の魔法はどうした」
「……右に同じです」

 ゼクシオンは頭を抱えて相手によく聞こえるような大きなため息をついた。
 ドアすらない密室。部屋にはマールーシャと二人。そして、この部屋を出る唯一の鍵となりえそうなこの難儀な課題。文字列を見るだけでぞっとした。百回キス? 男二人を密室に閉じ込めておいて、悪趣味にもほどがある。

「何者かの陰謀だろうか」
「どうでしょう。付近から他者の気配は感じ取れませんが」

 ゼクシオンは五感を研ぎ澄ませるが、部屋の中には二人しかおらず、窓もドアもないただの空間は誰かに監視されているとも思い難かった。

「全く……こんなことをしている暇などないというのに」
「ではさっさと百回終わらせてここを出ようか」
「えっ?」

 思わぬ提案にゼクシオンは顔を上げた。マールーシャが何食わぬ顔で近付いてくるので思わず後ずさる。

「まさかこれに従うつもりですか?」
「他に手立てもないだろう」

 マールーシャはそういうと、身体を強張らせているゼクシオンに構わずにその右手を取った。そのまま、ゼクシオンが何か言う前にその手の甲にそっと口付ける。伏せられた目にかかる睫毛の長さにゼクシオンははっとして見入った。

「どこにキスするか指定は無いようだし、すぐ終わるさ」

 に、と笑うとマールーシャはそのまま指先を口元に運んだ。革の手袋越しに音もなく触れるそれが果たしてキスと呼べる代物なのかわからないが、従順に愛撫を続けるマールーシャにゼクシオンは呆れて息をついた。

「本気で百回も?」
「半分ずつにしようか」
「僕は……遠慮します」

 渋るゼクシオンをみてマールーシャはくすっと笑う。手に指を絡ませながら少し力を込めると、ゼクシオンは何か言いたげながらも引かれるがまま一歩近寄った。手のひらに口付けながらマールーシャは目を細める。

「この可笑しな部屋に閉じ込められる相手が私でよかったな」
「貴方みたいな物好きでなければ確かに成し遂げられないでしょうね」
「誉め言葉と受け取っておこう」
「誉めてな……あ、ちょっと」

 不意にマールーシャがゼクシオンの手袋を外した。空気に触れたその素手に、マールーシャは再び唇を寄せ愛撫をする。指先に、手の甲に。手袋越しとは違う、体温と唇の柔らかさを感じてゼクシオンは急に落ち着かなくなった。手のひらに濡れた柔らかい感触が押し付けられると、無意識に自分の指先はマールーシャの頬に沿わせていた。手のひらに伝わる体温が温かくて気持ちいい。
 マールーシャは献身的に愛撫を続ける。手首を掴むとその内側にまた触れた。ちゅ、と音がする。素肌に触れるそれはだんだんそれっぽくなってきてゼクシオンはむずがゆいような気持ちになった。気を落ち着かせるために、素数、ではないけれど、愛撫の回数を頭の中で数えた。片手への愛撫だけでもう三十回は超えている。確かにこれなら思ったよりも苦労しなさそうだな、と考えていた矢先、マールーシャはゼクシオンのコートの袖を捲り上げて腕にキスを進めた。腕の内側の柔らかい部分にあたる熱がこそばゆい。少し身を捩じらせてまた半歩引こうとする、が、逃げ腰に気付いたマールーシャは掴んだままの手首を強く引いてゼクシオンを捉えた。そのまま首元に顔を埋めて、ちゅぅと食むように吸い付く。

「ん」

 思わず声が漏れそうになるのをなんとか噛み殺した。マールーシャの熱い息が首に当たるのを感じる。濡れた感触がなんども首筋に触れ、身体の中に熱がぐるぐると渦巻きはじめた。三十八回目、歯を立てながら首筋を強く吸われると、ゼクシオンはついにこらえきれずに短く声を上げた。背筋がぞくぞくした。思わずマールーシャのコートを握ると、催促と捉えたのかすっぽりと腕の中に閉じ込めてマールーシャはゼクシオンの髪の毛にそっとキスを落とす。逃げないのを見ると、そのまま髪の毛を掻き上げて額に、瞼に、と絶えず愛撫は続いた。もう、すでに、しんどいかもしれない。とキスの嵐を受けながらゼクシオンがふと上を見上げると、マールーシャとぱちりと目が合った。心なんて無いはずなのに、その瞳の奥には燃えるような何かを宿している。魅入られるようにして、そのままゼクシオンは唇へのキスを受け入れた。五十回目のキスだった。

「そろそろ折り返しか?」
「数えていたんですか」
「交代だ」

 マールーシャはそういうと長い指先を自分の口元にとんとんと当てた。む……と口をつぐんでいたが、やがて腹を決めると踵を浮かせ、その指の導く先に伸びあがった。目を閉じる間際、マールーシャが薄く唇を開いたのが見えた。つられるようにして口を開け、下唇をそっと食む。熱く濡れた舌先が自分の上唇をこじあけると、それまでの躊躇いは瞬時に霧散していった。
 舌の絡み合う水音と自分がだらしなく漏らす吐息の音が部屋に響く。何度も角度を変えながらの啄むようなキスに理性を溶かされてしまわないよう、ゼクシオンは必死で回数を頭でカウントした。七十四、七十五、七十六……

「ん、ぁっ」

 七十七回目、かくんと膝が折れる。いつの間にかすっかり情熱的なキスの嵐に腰砕けも寸前だった。バランスを崩した身体をマールーシャは受け止めるも、そのまま壁に背を押し付けるようにして深いキスをつづけた。ずるずるとそのまま二人して崩れ落ちていく。すっかり座り込んでしまうと、マールーシャの手がコートのスライダーを引き下ろした。コートの金具を外し、露わになった鎖骨に口付ける。ゼクシオンが止めないのをいいことに、手はそのままインナーの下に潜り込んだ。

「ちょっと……こんなところで」
「そうだな、誰も来ない」
「ベッドも、ないのに……っ」
「ベッド以外でするの、好きだろう」
「なっ……好きじゃない!」

 思わずかっとして腕をばたつかせるも、弱弱しい抵抗は簡単に抑え込まれてしまう。押さえつけられた腕をかわしながら耳元を唇で食まれるとすぐにまた力は抜けていった。

 いつの間にこんなことになってしまったのだろう、と、マールーシャが手袋を外すのをぼんやりと見つめながらゼクシオンは考えた。こんなはずではなかった。大きな手はゼクシオンの頬を撫でると、くいと顎を掬いあげて目線を合わせた。射抜かれてしまうような鋭い眼差しに捉えられると、頭の片隅に沸いた疑問などどうでもよくなった。もう、どうにでもなってしまえばいい。

 八十六回目のキスは、ゼクシオンに数えることをやめさせた。

 

*好きじゃない!(好き)


今日の116
100回キスしないと出られない部屋に閉じ込められる。38回目でそんな雰囲気になってきて、51回目で舌を絡める。77回目にはくらくらしてきて二人で倒れ込む。86回目で我慢できなくなりました。