◆きっかけとも呼べないできごと
「あれえ、こんなところで、珍しい」
暗い空の色を一面に映す窓と、対照的に白く統一された城内。天井の高い静かなそのホールに、デミックスの明るい声が場違いに響いた。
機関員として毎日のように割り振られる任務を終え、根城に帰還してきたまさにその瞬間の出来事だった。ホールといっても誰が集うわけでもないのに設えられたソファが空しく置かれているだけの空間だと思っていたが、珍しくその日はそこに座る人物がいたのだ。
その人物はデミックスの声を受けて、手元に開いた本から視線をあげるとゆっくりと首を回してデミックスをみとめた。長い前髪が揺れて、その奥の碧眼が自分の姿を捉えたのを見る。
「……ああ、あなたでしたか、デミックス」
「俺の名前、憶えてるの?」
驚いてデミックスは相手を見つめ返した。自分はこの機関に入ってきてまだ間もない。何人機関だか知らないけれど、突然“仲間”になった複数人の男たちの名前なんてほとんど覚えられていなかった。まともに顔を合わせたのなんて一番最初のときくらい。しかも丁寧な自己紹介の時間が設けられたわけでもなく、普段から散り散りに活動しているし、おまけに此処の連中ときたらいつだって同じような服を着て、あまつさえフードで顔を覆っているのだ。体格で見分ける他ない中で、今この目の前にいる青年は比較的自分と似た背格好の部類だ。戦闘慣れしていそうな屈強な体格の持ち主が多い中で、ひっそりとした彼の佇まいは珍しく、背が低いのも相まって黒コートが数人でまとまっているのを見る中でも目立っていた。
無感情で淡泊。第一印象はそんな感じだ。機関員の中では最年少のようだが、あどけなさなんて欠片もなく、落ち着ききった振る舞いは機関内でも群を抜いて大人びて見えた。
デミックスの問いに、当然でしょう、とでも言いたげな様子だ。
「悪いんだけど、俺まだ他のメンバーのこと全然覚えられてなくてさ」
「……気持ちはわかります。こちらは人数が多いですからね。ナンバー6、ゼクシオンです」
彼は――ゼクシオンは淡々と言って名乗った。
名前よりも先にナンバーを強調するのを聞いて胸中で苦笑する。聞いたとおりだ、序列を気にする輩が多いと教えてくれたのはいったい誰だったか(髪の長い隻眼の男だった。名前は覚えていない)。六番目まではたしか機関発足時に揃っていたと聞いた。ともすれば、若いながらにして彼はこの機関においてそれなりの中枢に位置するのだろう。見かけによらないな、とデミックスは目の前の人物を静かに観察する。屈強な男たちとは相反して日陰で育ったような色白の痩躯だが、きっと頭脳派なのだろう。落ち着いた佇まいに聡明さは感じ取ることが出来た。
「ゼクシオンね、うん覚えた。で、こんなところで何してるの?」
見たところ、暇そうに本を読んでいるだけに思える。彼のほかに近くに人はいないし、誰かを待っているような雰囲気でもない。
「本を読んでいます。今日は休暇なので」
「いやそれは見ればわかるんだけど……部屋で読まないんだ。こんなところにいるの初めて見た」
「ずっと部屋で研究していたので、息抜きに出てきたんですよ。この時間ならまだ大半が任務に出ていて落ち着いていますから」
「ふうん」
ということは、デミックスがここを通りがかったのは彼にとっては誤算だったのだろう。憩いの時間を邪魔されて怒りを買ってしまったかと思えど、冷たくあしらうこともなくデミックスの問いかけに丁寧に答えてくれていた。見る限り、迷惑そうな顔もしていない、と思う。
それにしても、休暇だというのに部屋にこもって研究とは恐れ入る。お近付きにはなれそうにないな、とデミックスはこっそり考える。その手の話は深掘りしても退屈そうなので、ほかになにか話せることはないかとデミックスは考えを巡らせた。せっかく機関員と和やかに話せるチャンスなのだ。ここの連中ときたらやれ任務だ説教だとそればかりですっかり参っていた。
デミックスはゼクシオンの手の中の本に目を留める。
「それは、小説?」
身を乗り出して開かれたページをのぞき込んだ。読書なんてこのかたろくにした記憶もなかったけれど、彼の読んでいるものが、難しい参考書の類いではなく物語なのだということは、ページに連なった会話の羅列で見て取れた。
「辞書でも読んでるのかと思った」
「まさか」 ゼクシオンは分かりやすく嫌そうな顔をする。
「しかも、これって」
開かれたページで繰り広げられている会話は、登場人物らが愛の言葉を交わしている場面だったのでデミックスはさらに面食らった。
「へええ、恋愛小説なんて読むんだ。なんか意外」
あまりにも意外で、ゼクシオンの顔と本とをまじまじと見比べてしまう。小説にしても、事件ものだとか推理小説だとか、もっとそれらしい選択肢がほかにある中で。……なんて、彼のことなんてまだほとんど知らないので勝手なイメージだけれど。
「あなた、考えていることが顔に出すぎです」
ゼクシオンは呆れて言うと本を閉じた。
「趣味ではないです、が、人の感情の勉強になるかと思って読んでいます」
「はー……」
思いがけない返答にデミックスは間の抜けた返事をした。真面目、堅物、研究者気質、といったかたい単語が頭のなかに浮かんだ。やっぱり、第一印象通りの性格のようだ。
「それって勉強になるの?」
「……難解です」
「勤勉だねえ」
そういうとデミックスは何の気なしにゼクシオンの手から本を抜き取り、適当な場所でページを開いた。字の羅列を追うのは頭を使うけれど、括弧書きで括られた会話の内容ばかりを追って読んでみた。感情的なやりとりがずっと続いている。なにやら葛藤を抱えている場面のようだった。恋愛なんてこんなところにいると、否、こんな身体になった今となっては自身とは全く関係のないことに思えた。
心を失ってなお生きている自分たち。
心を取り戻したいと集う機関。
ちっぽけな物語の世界を通してその感情を知ろうとする青年。
ばらばらの符号ばかりがある。自分がどこに位置するのか、何を本当に求めているのか、この身になってデミックスはまだよくわかっていない。
「……あの、邪魔です」
声をかけられて、目の焦点が再び目の前の青年に合った。ゼクシオンは怪訝そうにこちらをうかがっているが、それもそのはずで気付けばデミックスはかなり前のめりになってしまっていた。ああ、ごめーん、と軽い調子で言って本をゼクシオンの手の中に戻すと、さりげなく距離をとる。機嫌を損ねる前に、そろそろ退散した方がいいかもしれない。ゼクシオンは手の中の本をじっと見つめている。
じゃあこれで、と告げようとした矢先、先に口を開いたのはゼクシオンだった。
「……そんなに気になるなら貸してあげますよ」
思いも寄らない提案に、え、とデミックスは乾いた声を上げた。嫌そうな声に聞こえたかと焦るが、ゼクシオンは純粋な厚意で言ったようである。興味があるようにでも見えたのだろうか。本なんてとても読む質じゃない。二ページかそこらで寝落ちする自信があるし、そのまま枕にして汚して怒られる未来まで見える。
しかしそんなデミックスの気も知らず、「意外です、あなたも本を読もうと思ったりするのですね」とゼクシオンは感心しているような様子だった。鋭そうに見えて、案外ずれたところがあるのかもしれない。
「あなたが感情の表現に長けているのは、そうやって知識を得ているからでしょうか」
「いやいやいや。そんなわけないじゃんゼクシオンは真面目すぎ」
妙な深読みまでされてたまったものではないデミックスはあわてて手を振る。彼と仲良くなるにしても、読書仲間にされてしまっては困る。
慌てふためくデミックスを見て、ゼクシオンはふっと頬を緩めた。
ほんの一瞬だった。
そうして本を閉じると、かけていたソファから立ち上がる。
「読み終わったら、貸して差し上げます」
そう言ったときのゼクシオンは、もういつも通りの凛とした淡泊さだった。
「ではまた」
そう言い残すと、ぽかんとしているデミックスをその場に残して私室に続く長い廊下をすたすたと歩いていく。
……え、いま笑った?
ゼクシオンの、いや機関員の中でも見たことのない表情に驚き、ろくに返事もせず動けないままデミックスはその背を見送った。
「……“また”かあ」
ついいましがた読んだ本の内容など、もう覚えていない。
けれどどうしてだか、彼が本を貸してくれるというその時がくるのを妙に待ち遠しく思う。
20230906