37℃でとろかせて - 1/2

 家で過ごす時間がまだ生活の一部ではなくて非日常的なデートだったとき、週末の夜といえば借りてきた映画を見たり、料理に凝って時間も気にせず何本もワインを空けたり、ときには早いうちから寝室へとしけこんだり、二人で過ごす時間に夢中だった。一滴も零さないように、無駄がないように、隙間を埋めるように工面した時間はなによりも甘く、代えがたいものだった。
 やがて生活の拠点を共にしようと彼の方から提案してくれて今の生活の基盤が出来上がると家で過ごす時間は徐々に安らぎを求めるものへと変わっていったが、それでも二人揃って過ごす時間がかけがえのないものであることに変わりはなかった。

 そうして彼と同じ屋根の下で二人で過ごす生活は、間もなく一年経とうとするころにはすっかりなじんでいる。変わったことも変わらないこともあるなかで、恋をしていた時のような熱烈さは落ち着いたものの、飽きたり冷めたりすることはなく二人の付き合いは順調に続いていた。

 

 

 給湯器が風呂の湯が溜まり切ったことを知らせる音色を奏でたのを機に、ゼクシオンは読みかけの本にしおりを挟んだ。金曜日の夜、夕食は済んでまだ早い時間だ。
 そっと隣を見ると、マールーシャはソファで沈み込んでぼんやりとテレビを眺めていた。このところ忙しかった彼が日付が変わる前に帰宅していることは珍しい。もっと言えば、一緒に食事をとったのも久しぶりだった。
 忙しい時期であるとはゼクシオンも聞いていたが、正直これ程とは思わなかった。タイミング悪く案件が重なり、出張に駆り出され、帰宅するなり倒れ込むように寝入ってしまったりする日も少なくない。一度ソファで寝られてしまうと自分よりも大きな身体を抱えて寝室まで連れていくことは到底かなわず、やむなく彼には毛布を掛け、自分はだだ広いベッドで一人過ごす夜も何度もあった。何のためにこんな広いベッドにしたんだとむなしく思う気持ちがなかったといえば嘘になるが、誠実に仕事に取り組んでいる彼にそんなことをいうわけにもいかず、なかなか温まらないシーツの中でひとり背中を丸める他なかった。

 立ち上がり、あとで洗面所にに行くついでに持っていこうと思っていたバスタオルをたたまれた洗濯物の中から取り上げる。もう一度マールーシャをみるが、やっと今後の見通しもついて仕事も一段落したと人並みの時間に帰宅してきたとはいえ、ぼんやりと虚空を見つめているばかりで番組の内容など頭に入っていないであろうことは一目瞭然。今日のところはさっさと風呂に入れて寝てもらった方がよさそうだ。もっと話をしたいし、もっと触れたい……という欲求はひとまず胸の奥にしまい込むことにする。同じ布団に彼の体温があるだけで、今夜はいつもよりも少し満たされてくれるだろう。

「先に入りますか」

 控えめに声を掛けると、呼び戻されたようにマールーシャがはっと顔を上げた。なんのことだ、と言わんばかりの表情をしていたのでバスタオルを掲げて見せると、ああ、と納得の表情に変わる。

「そうさせてもらおうか」

 軽く目頭を揉んでからそう答えると、マールーシャはソファからゆらりと立ち上がった。デスクワーク疲れだろう。最近はおろそかになっているが、本来彼は心身の調子に丁寧に向き合う質である。ストックしているあらゆる効能のハーブティーのなかに、目の疲れに効くものもあったのではなかっただろうか。寝る前に入れて飲むのがいいかもしれない、たしか戸棚の上の段に……などとゼクシオンが思いを巡らせていると、ふと視線を感じた。顔をあげるとマールーシャがじっとこちらをみている。何か言いたげなその視線に首をかしげると、真っ直ぐにこちらにきて、そっとゼクシオンの髪に触れた。

「この時間に家で一緒に過ごせるのは久しいな」
「ゆっくりしてきたらいいですよ。はい、タオル」
「今夜、どうだ」

 出し抜けにそう聞かれて、ゼクシオンは一瞬何のことかわからなかった。
 マールーシャは微笑んだまま返答を待っている。彼の声もじっとこちらを見つめる目も優しいけれど芯のある強さがあり、でもどこか甘えねだるような色さえ含んでいて、言葉少ないながらにその意図は明瞭、つまり、お誘いだ。
 思わぬ提案にどきりとしたが、もちろん断る道理はない。週末だし、明日の予定はないし、というか普通に嬉しい。
 こくりと頷くと、毛先を弄んでいた指先が離れて頬を撫でた。マールーシャはそのまま静かにかがんで、キスを一つ。離れ際、ふっと緩んだマールーシャの目元に少し疲労の色を見た気がした。

「じゃあお先に」

 そう言ってゼクシオンの手からひょいとタオルを受け取り、マールーシャはすたすたとバスルームへ向かっていった。
 急なお誘いに呆然としていたが、遅れて湧いてきたふわふわとした高揚感にゼクシオンは熱くなった頬を両手で押さえる。穏やかだった週末の夜が一気に緊張感をまとった。まったく、どうしてこうもスマートに事を運ぶのだろう。一瞬でその気にさせられてしまったではないか。男らしいのに甘え上手ってどういうことだとゼクシオンは頭を抱える。付き合いが長くなっても、いつも彼は新鮮なときめきをもたらしてくれる。
 バスルームの方からシャワーの水音が聞こえてきたのに意識を引き戻され、色々と支度をすべくゼクシオンもリビングをあとにした。

 

 マールーシャがゆっくりとバスタイムを過ごした後、交代でゼクシオンが入る。身体中念入りに清めてから、溜めてあったバスタブのお湯につかって疲れを癒した。熱いお湯はしみいるように身体の深部まであたため、彼がいれたのであろう花のような香りの精油が蒸気の中で優しく漂っていた。花の名前は何度聞いても覚えきれなかった。爽やかに甘い香りのする湯に浸かりながらこの後過ごす時間を思い、いつぶりになるだろう、とゼクシオンは考える。
 一緒に暮らして長くなってきたこともあり、スキンシップの習慣は日々あるものの、深く触れ合う回数は初期と比べれば落ち着いたものだ。特に最近は彼が忙しかったこともあり、週末も同じベッドで眠れるのが関の山といったところ。月末に祝日を繋いで連休があるが、おそらく出勤になるだろうといっていたことを思い出す。彼が露骨にうんざりした様子は珍しく、何もできない自分がもどかしく感じられたっけ。
 珍しい誘い方をしたマールーシャの表情を思いかえした。いつ見ても吸い込まれてしまいそうに綺麗な色の瞳に、彼らしからぬ余裕のなさが見て取れた。疲れて人肌恋しくなっているのかもしれない。ともすれば。

 身体がじゅうぶんに温まった頃合いでゼクシオンはバスタブから立ち上がる。シャワーで身体を流し、ささやかな決意を胸にバスルームを後にした。

 今宵は、お疲れの彼を精一杯労わって差し上げるのだ。