恋はリラの咲く頃
卒業式は午前で終わった。外は多くの生徒やその家族で賑わっている。疎外感を感じなくはなかったが、心ここにあらずでゼクシオンはぼんやりと外の景色を眺めていた。
がらり、と引き戸の開く音がしてゼクシオンは勢いよく顔を上げた。
「あ、まだいたんだ」
そう言いながら数人のクラスメイトがどやどやと入ってきた。思っていた待ち人でなかったため、ゼクシオンは脱力してまた椅子の背にもたれかかった。
「誰か待ってるの?」
「ええと……そう」
曖昧な答えには誰も興味を持たなかった。ふうん、と言いながら彼らは自分たちの荷物をまとめ、じゃあ、と教室を後にした。いつもの帰りとなんら変わらない別れの言葉だったが、おそらくはもう会うこともないのだろうとゼクシオンは思う。進学する大学が同じクラスメイトはいなかったし、卒業して尚連絡を取り合うつもりの友人もいなかった。
机の上には、濃紺の賞状筒が投げ出されている。興味があるわけでもないのに、手持ち無沙汰でまた手に取ってみた。鰐皮だといわれるつややかな表面をなぞり、金色に刻印された卒業、という文字をじっとみつめる。
『卒業したら――』
その言葉は果てしなく先のものだとずっと思っていたので、いざその時を迎えると少し困惑した。
待ち人は来ない。きっとありとあらゆる生徒に囲まれて身動きが取れないのだろう。その光景はありありと想像できた。普段から人目を引いて人気者だった担任教諭は、この日もご多分に漏れず多くの生徒に囲まれているのに違いなかった。泣きながら別れを惜しむ生徒もいるだろう。そして、そういう生徒を決して流れ作業のように扱わず、一人ずつ真摯に応対しているのだろう。
ひょっとしたら、ずっと秘めていた気持ちを今日こそ告げようとしている生徒だって少なくないかもしれない――自分のように。
時計を見上げると、約束の時間をもう一時間近く過ぎようとしていた。現れない待ち人の姿を思い、不毛な想いに長いため息が出た。
好きになってしまったのは何の因果なのだろうか。
万に一つも叶うことのない恋に気付いたのは二年近く前だ。自分が二年次になったタイミングで新たに就任したその教師は派手な色の頭髪でひたすらに目立っていたが、すぐに誰もがその外見ではなく、内面の魅力に夢中になった。彼はそういう素質を持っていた。単純に顔がいいだけでなく、力強さと溌剌とした魅力があって、多くの人が彼に惹きつけられた。自分も、そんな大勢のうちの一人だ。
恋の相手は、教師であり、担任であり、そして同性なのだった。
放課後は図書館で本を読んだり勉強をして過ごすことが多かった。外で走り回ることを好む質ではなかったし、寄り道をする仲の友人もいない。もともと読書家で、本がたくさんある場所は落ち着くのだ。それに、黄ばんだ古い本ばかりでエアコンもついていない図書室は生徒が寄り付かず、静かで広い図書室の、やっぱり窓際の隅の席を陣取っていた。教室とは違って、昼を過ぎたころからここには陽の光が入らない。じめじめとした陰鬱な雰囲気さえも、ゼクシオンは気に入っていた。図書委員会にも所属していたし、入学してから卒業するまで、学生時代の多くの時間を図書室で過ごした。
そんなさびれた図書室に、彼がふらりとやってくることがあった。視界に映り込んだ桃色に、彼が噂の、とゼクシオンは興味を惹かれ少し身を乗り出した。本を探しているのか、棚の間を行ったり来たりしている。そして探し物はみつからないのか、手ぶらで帰っていく。彼のファンが知ったら、図書室が騒がしくなる。それは嫌だな、とゼクシオンは彼が図書室に出入りするのをあまり好ましく思っていなかった。もう来ないでほしい、という密かな祈りに反して、その後もちょくちょく桃色を図書館で見かけた。
その日、ゼクシオンは図書委員としてカウンターの内側にいた。特に試験も控えていないので、勉強はせず好きな本を読んで過ごしていた。当番を決めている委員の仲間はいつも来ない。遊びたいざかりだから仕方ないだろうとゼクシオンは同年ながら俯瞰している。図書室は勉強をしに来る人はいても本を借りに来る人は少なかったから、一人でも問題はなかったのだ。むしろ一人の方が落ち着く。
好きな本を選んで脇に積んで、誰もいない放課後の図書館で、ゼクシオンは物語の中に没入していった。
かつんかつんと靴音が近づいてきた。本に集中していたが、聞きなれないその音が自分の前で止まったことに気付き、ゼクシオンは目線だけあげた。そこにあったのは制服姿ではなく、ワイシャツ姿の背の高い男性。肩にあたって跳ねる桃色が目に飛び込んできて、一瞬呆然とした。癖毛な前髪の下から青い目が真っすぐこちらを見つめていた。すぐに我に返って慌てて背筋を正した際、勢いよく引いた椅子が机にあたって積んでいた本が崩れた。取り乱し様に相手は声をあげて笑った。
「そんなに驚かなくても」
低い声が、鼓膜にじんと響いた。彼の声があまりによく響くのでゼクシオンはさらに慌てた。図書館は、静かな場所であらねばならぬのだ。きょろきょろと辺りを見渡していると、誰もいないよ、とまたその低い声がゆったりと発音した。私たちだけだ、と。
ほっとしてから、改めて目の前の男をおずおずと見上げた。間違いなくあの新任の教師だ。自信に満ちた様子で、堂々としていた。なにか強いオーラを放っていて、瞬時に悟る。自分とは正反対のタイプの人間だと。そして、どちらかといえば苦手なタイプであると。
「新任の先生……」
「マールーシャだ」
よく通る声で彼は名乗った。いや、知ってる……とゼクシオンは心の中で呟く。初日にもちろん紹介されているし、目立つからよく話題にもなっていた。とくに女生徒らのはしゃぎようといったら、たった就任一カ月程度でファンクラブでもあるんじゃないかと思わせるくらいだ。
「君は?」
「え……」
きょとんとゼクシオンは相手を見返した。何を聞かれているのかわからなかった。
「君の名前。と、所属と、趣味」
「えっ」
なんてことない軽い調子で彼は言うとふわ、と花のように微笑んだ。その瞬間、ゼクシオンは確信した。よく言えば人懐こい、わるく言えば馴れ馴れしい相手の態度を見てうんざりする。やっぱり、苦手なタイプだ。
マールーシャは引いているゼクシオンのことをまったく気にしていない様子で、自分の投げかけた質問の答えを従順に待ち続けている。
「ええと……二年のゼクシオンです……図書委員で、今日はここに」
最後の方は消えいるようにぼそぼそと答えた。ふむ、と頷いてから彼は「よろしく」といって右手を差し出してきた。それが握手を求めているのだと理解するのに、また少し時間がかかった。ぽかんとしているうちに、マールーシャは勝手にゼクシオンの右手を拾い上げて優しく握った。大きくて熱い体温を手のひらに感じてゼクシオンは呆然とするばかりだ。いったい何が起きているというのだ。
「趣味は読書、かな」
そういったのはマールーシャだ。一方的に手を握ったかと思えば、呆けているゼクシオンをそのままにするりと手を引いた。と思うと今度は読みかけにしていた本を手に取って表紙を眺めている。
「ケストナーが好き?」
驚いたゼクシオンはひったくるようにしてその本を取り返した。こちらのことなど気にもせずに自分の領域に踏み込んでくる身勝手さには嫌悪すら感じる。
警戒心むき出しの様子に、今度はさすがにマールーシャも肩を竦めた。
「失礼。私も好きな本だったので、つい」
「え?」
警戒心を忘れてゼクシオンは思わず聞き返した。本の話を誰かとするのは初めてだった。好きな著者に触れられたのもまた初めてだ。軽薄な印象だったけれど、本を読む人なのだろうか。
気を取り直した様子でマールーシャは姿勢を正す。
「まだ新任で、わからないことばかりなんだ。勧められたこの本を探しているのだけど、ここにあるだろうか」
そういえば連日棚の間をうろついていた姿を思い出しながら、ゼクシオンは差し出されたメモを覗き込んだ。園芸の本のようだ。出版社と著者を見比べてから、立ち上がって奥の棚に向かって進んだ。うしろからマールーシャがついてくる足音がした。大股で、ゆったりと歩いていた。
「……出版社で分類されていたのか。道理で見つからないはずだ」
感心している様子のマールーシャの声に少し気分を良くして、探し物を見つけ出すとゼクシオンはそれを棚から引き抜いて差し出した。
「ずっと違う棚ばかり見ていましたものね……」
言ってしまってから、しまった、と思った。
「おや、気付いてくれていたのか」
そう言うマールーシャは何故だか嬉しそうに目を細めた。あ、その表情は……ずるい。女生徒なら一発で落ちるに違いない。なぜだか自分までどぎまぎしてしまう。
「目立つんですもの、その頭」
苦し紛れのその言葉は、どういうわけだかマールーシャには誉め言葉ととらえられたようだ。
「ありがとう、助かった。これは借りていく」
そう言って彼は、去り際にゼクシオンの肩にポンと軽くたたいた。ふわりと鼻先を掠める甘い香りに、ゼクシオンはぼうっとその背中を見送る。年頃の女子学生なら瞬時に夢中になってしまってもおかしくない――などと考えていたが、はっと我に返ってその後ろ姿に向かって叫んだ。
「本を借りるなら、手続きをしていただかないと――」
本を借りるときは、図書カードをつくって、借りた日と、名前とを書いてもらわないといけない。いやでも教員が借りる場合ってどうなのだろう。いままで図書室に本を借りに来た教師なんていなかった。
ぐるぐると考えている間にも、マールーシャはすたすたと出口に向かって歩いて行ってしまう。
扉に手をかけて、彼は振り向いた。本を持った手を掲げ、よく通る声で告げる。
「内緒にしておいてくれ」
去り際に、映画のワンシーンのように人差し指を立てて唇の前で立ててみせると、彼は扉を開けて出ていった。
本棚の森の中で、狐につままれたみたいにゼクシオンは一人立ち尽くしていた。
恋の始まりなんてそんなものだ、と後になって思う。
20220327
タイトル配布元『icca』様