焦燥はそれでも甘くて

 木枯らしが窓の外で裸の木の枝を揺らしている。残っている木の葉は冷たく吹き晒され、ゼクシオンが見ている前で風に乗って木の枝を離れると、くるくると円を描きながら彼方へと飛ばされていった。飛んで行った木の葉が見えなくなるまでゼクシオンは窓の外を目で追った。冷たい風は古い校舎の窓をがたがたと揺らす。教室の中はエアコンが効いて寒さを感じさせなかったけれど、窓からの風景は寒々しい。階下を行き来する学生たちもみな厚着をして、吹きすさぶ風に身をすくませているように見える。午後の講義に向かっているのか足早に並木道を通り抜けていく。
 予鈴の響き渡る広い教室は多くの学生たちで賑わっていた。昼休みを挟んだせいで部屋全体に雑多な空気が漂っていた。間もなく講義が開始されるはずだけれど、学生たちはまだ思い思いに過ごしている。通路で分断された前後のうち、後方ブロックの最前列にゼクシオンはいつも席を取っていた。ノートを広げ、本鈴が鳴ったと同時に前置きもなくいつも唐突に始まる講義に備えている。そんなふうに真面目に講義に臨むものは少ない。
 退屈な講義だけれど、必修科目のひとつなので学生の数は多かった。出席日数とレポート提出が単位取得の条件で、講義の最後に提出するリアクションペーパーを以て出欠をとるスタイル。そのおかげで、講義半ばごろになってから悪びれもせず遅れて教室に入ってくる学生も少なくない。そういった学生らは決まって最後方の目立たない(と彼らは思っているだろうが教壇からは一番よく見える)エリアに集まる。そのうえ後方エリアは講義が始まってなお声を潜めておしゃべりを続けている学生や、講義そっちのけで携帯機器を眺めてばかりいるものなど、あまり治安が良いとはいいがたい。そういった連中とできるだけ距離をとるために、ゼクシオンはいつも決まってこの位置に陣取っていた。廊下側から一番離れた、窓際の席。すぐ前は通路を挟むため知らぬ学生の後頭部を前にする閉塞感もなく、廊下側からは遠いので途中の出入りもさして気にならない。講義が退屈なときは、それとなく窓の外に視線を送って気を紛らわすこともできた。教室棟の二階とそう高くもない場所だけれど、大学の大きな広場を一望できる眺めは悪くない。
 数列後ろに陣取っている女生徒のグループは昼休み開始から現在に至るまで飽くことなくおしゃべりに花を咲かせている。課題がはかどらない話、バイト先の気に入らない先輩の話、他科の若い准教授がタイプだとかなんとか。イヤホンを持ってくればよかった。女生徒の甘ったるい声は教室のどこにいてもよく耳に届くように思えた。

 意識を逃すように窓の外を眺めているおり、眼下にふと知っている姿を見付けた。遠目見てもわかりやすい癖毛のその人物は、黒いコートの裾をはためかせながら並木道を闊歩していた。珍しく一人だなと思ったのも束の間、すぐに複数人の学生が駆け寄るようにして、あっという間に彼を囲んだ。彼も足を止めて立ち話に興じている。朗らかに笑っているのが二階からでもよく見えた。遠くにいるのをいいことに、ゼクシオンは食い入るようにその表情を見つめた。彼のことを見付けられるのを、彼の頭髪の色が派手なせいだと思い込もうとしている。それ以上の理由などないと思い込もうとしている一方で、彼が目を細めて笑うその表情を、もっとよく見たいとほんの少し窓の方へ身を乗り出している。

 あー! と後ろの女生徒の声が数段大きく響いた。自分のすぐ横の窓辺に駆け寄り、窓の外を覗き込むとはしゃいで仲間たちを振り返った。
「マールーシャ先生がいる!」
 それを聞いて女生徒らはわらわらと窓辺に集まり始めた。ほんとだ、かっこいー、足長ーい、と口々にまくしたてた。女生徒らと何ら変わりなく彼の容姿に見入っていたゼクシオンは、ばつが悪くなって視線を窓から外すとまた白いノートの前に戻ってきた。
 女生徒たちの問答は続く。
「今日の先生、なんかいつもと違う?」
「髪型ちがくない? いつももっと跳ねてるじゃん」
「あのコート、見たことなーい」
「今日、デートらしいよ」
 不意に発されたその言葉は周囲の女生徒らに驚嘆の悲鳴をあげさせた。ゼクシオンも思わず顔を上げていた。
 女生徒たちの早口なやり取りが傾けずとも耳に流れ込んでくる。うそお、誰情報? 研究室の学生が冷やかしてデートですかって聞いたら否定しなかったんだって。おまけにニッコリ笑っちゃって。誰と! 彼女!? 知らないけど、相手の一人や二人いたっておかしくないでしょ。たしかにー。
 女生徒らは叫んだり唸ったりしながらひとしきり騒ぐと、やがて長い息をついて誰かがため息混じりにこぼす。私もデートしてもらいたーい。
「誘ってみたら?」
「門前払いでしょレポートは終わったのかって言われるのが関の山。あの人、課題の量ほんとえげつないから」
 女生徒らの話題は浮いた話から講義の課題の多さと評価の厳しさへの文句へと転じていった。
 ほどなくして本鈴が鳴るのと同時に講師が入室してきた。マイクを通した聞き取りづらい声で前回の内容をさらうと、スクリーンにスライドを表示させる。眠たくなる声のほかに、さらさらとノートを取る音ばかりが聞こえる。後ろの方ではまだ声を潜めてしゃべっている人がいる。
 そっと窓の外を覗くが、もう彼の姿は見えなかった。先ほど背後で繰り広げられていた会話の内容が耳の奥から離れない。今日、デートらしいよ。
 講師の話などそっちのけで目を瞑り、ゼクシオンもため息をついた。先ほどの女生徒のそれとほとんど同じ長さだった。

 

 

 マールーシャはゼクシオンの通う大学で教鞭を執る教師の一人だ。若くして准教授のポストに就いていることや、そもそも目立つ容姿をしているのことから学内では知らない人の方が少ないのではないかと思う。

 心理学を専門としている彼の講義をゼクシオンも取っていたことがある。自由選択の中にあった基礎心理学の講義だった。
 初めて教壇に上る彼を目の当たりにした時、そこかしこで女生徒が黄色い声を上げる――そのうえ彼はそういうリアクションに対して律儀に手をあげたり微笑み返したりする――のに反してゼクシオンは白い目で彼を眺めていた。浮付いた講義だったらいやだなあと勝手に身構えていたものだったが、講義前の軽薄な態度に反して大変堅実なクラスだったので驚いたというのが彼の講義に対する正直な感想だ。専門学部の学生だけでなく他学部の学生も多く受講するなか講義内容はわかりやすく丁寧にまとまっていて、彼の話自体も学問への興味をそそられて面白かった。多くの学生がそういった魅力に初回講義から骨抜きにされかけていたであろう講義の最後、男でも見とれてしまうような甘い微笑みを振りまきながら配られた分厚い関連論文に関するレポートを次回講義で提出するよう求められ、学生一同狐につままれたような面持ちで教室を後にすることになる。色々な意味で印象に残るクラスであった。

 マールーシャには人を引き付ける魅力がある。それは決して容姿の華やかさにものを言わせているという話ではなく(その要素も少なからずあるにしろ)、要領を得た話し方であるとか落ち着いた物言いだとか、質問に対して親身になって応じてくれる姿勢だったり、かと思えば質問者の見落としに容赦なく切り込む着眼点の鋭さであったり。要は、頼りがいのある教師なのだ。話し上手であり聞き上手でもある彼は、学生から多くの支持を得ている。彼の持っている講義の受講者数を見れば一目瞭然だ。かくいうゼクシオンも彼の聡明さには一目置いているし、彼が視界に入ればつい目で追ってしまうなんてことも少なくない。
 そんなわけで、講義内容もさることながらマールーシャ自身に惹かれる人が多かったおかげで大人気のクラスだったけれど、課題と評価の厳しさには定評のある人だった。ミーハーな感覚で真面目に課題をこなさなかったものは容赦なく切り捨てられ、毎度のレポート提出に加え期末テスト、そして字数指定の期末レポートまで要求してくる自由選択科目とは思い難いその厳しさに、受講者の大半が単位を落としたという噂だ。一緒に受講した友人も毎週のレポート提出に音を上げ早々に脱落している。課題に関してはゼクシオン自身も骨の折れる思いであったが、講義は有用で面白かったと感じている。

 

 彼はその頃から常に誰かしらに囲まれていたし、一教員として尊敬はしていたけれど個人的にお近づきになりたいとまで考えたことはなかった。そんな希薄ともいえる関係性に一歩踏み込んだのはマールーシャの方からだった。受講していた基礎心理学のクラスで、たまたま自分が講義室を出るのが最後だったときに話しかけられたのがその発端だった。
 出席確認がわりのリアクションペーパーを教壇の上に置いて帰ろうとすると不意に名前を呼び止められた。その時そこにいたのはアシスタントの院生くらいで、珍しくマールーシャを取り巻く人間はいなかった。マールーシャはその場でゼクシオンの書いたレポートに目を通し、いつもほかの学生にするように微笑んで、毎度のリアクションペーパーがきちんと内容を理解して的を得たレポートだとほめた。あと、字が綺麗だとも。
 講義内容に関してゼクシオンも興味の範囲で意見を述べたりして会話はそれなりに続いた矢先、唐突にマールーシャは言った。
『君が好きそうな本があるんだが、読んでみないか』
 何故彼がそんなことを自分に対して言い出したのか、そのときのゼクシオンは皆目見当がつかなかった。自分は心理学科の専門学生でもないし、彼を取り巻く人たちのように、積極的に自分をアピールしたこともない。しかしマールーシャは講義の後片付けをアシスタントの院生に任せると戸惑うゼクシオンを自分の研究室へと半ば強引に連れていき、よくわからないままそれに従うような形でゼクシオンは勧められるままに本を借りた。彼は何故だかゼクシオンの所属する学科のみならず今後希望する研究室とそのテーマまで把握しており、手渡されたのはその方面に関連のある本だった。
『専門書だけど君なら読めるだろう。よければ感想を聞かせて欲しい』
 素直に厚意に甘えて本を借りた。読むのに時間がかかったけれど、彼の言った通り興味深い内容であった。何の偶然だかわからないけれどちょうど書かねばならなかった専門分野のレポートにも生かせそうだったので、渡りに船とばかりに活用させてもらうことにした。自身の専門学科の勉強もそこそこに、空き時間の多くを費やして読み進めた。
 講義の終わりに本を返そうと様子を窺っていたがなかなか彼を取り巻く人は絶えず、日を改めてゼクシオンは再び彼の研究室へ赴いた。簡潔にお礼と感想を述べてすぐ立ち去ろうと思って本を渡したが、読んでくれて嬉しい、君ならば理解してくれると思った。マールーシャは嬉しそうに言うと、またゼクシオンを部屋の中へと招き入れた。他に人がいないのをいいことに借りた本に関する議論が白熱し、ゼミの学生が集まりだすまでゼクシオンはマールーシャとの討論を楽しんだ。研究室が賑わいだした頃をしおにお暇する間際、マールーシャはまたいくつか本を見繕ってくれた。こうして本の貸し借りをする関係が始まったのである。

 読んだ後はその本の話をした。はじめのうちは彼の部屋で話すことが多かったけれど、研究室に出入りする学生は自分だけではない。彼の周りにいるのは彼のような華やかな種類の人が多く、また彼らはこの部屋の主へのあからさまな好意を隠そうとしないどころか、むしろ積極的にアピールしていた。そういった人間で常々賑わっている部屋に長居するのはゼクシオン自身落ち着かなかった。
 そんなゼクシオンの様子に気付いてか、ここでは落ち着かないから、とマールーシャはゼクシオンを連れ出して、学外のカフェテリアまで足を伸ばして話をするようになった。穴場なんだと紹介されたのは、大学から近いのに人の少ないクラシカルな喫茶店。マールーシャ自身も学内では落ち着かないから時としてここを避難所にしている、なんて語った。どこにいても学生が寄ってくるから確かにそうだろうとも思った。人気者は大変だな、と考えていると、こうして静かに話ができるのは嬉しい、よかったらたまにこうして本の話でもしようと彼は笑った。ふわりと花が開くような笑顔に、こりゃ誰もが夢中になるのも仕方ないとゼクシオンも考える。
 連絡先を交換して、いつしかプライベートな話をすることも増えたけれど、基本的にマールーシャのこういった配慮を、教育熱心なのだとゼクシオンは受け取っている。明るく華やかで人に囲まれがちだが、学問に関しては自他共にストイックな彼の周りで生き残っていけるのはそれなりに優秀な学生ばかり。だからそんな彼に見初められたのだとしたら誇らしいことだ。

 彼のクラスの単位は無事取得したけれど、自分が主として扱う研究テーマとの関連は特になく、それ以降履修はしていない。
 けれどその後も何となく連絡は取り続けていたし、本の貸し借りとそのついでに時間を作って会うことも少なくなかった。

 

 

 さてところで、今日は久しぶりに彼と会う約束をしていたはずであった。デートだなんて大事な予定とダブルブッキングするだろうか。自分の勘違いだったかとゼクシオンは手帳を開いて予定を確認するも、やっぱりこの日付で間違いない。午後の講義が終わったあと、正門前で待ち合わせ。この日なら自分の仕事も落ち着いているからと提案してくれたのはマールーシャのほうからだったはずだ。
 例によって本の話をしているおり、欲しい専門書がどこを探しても見当たらないと嘆いたら、ありそうな書店に見当がつくといって、よければ都内のそこを案内すると申し出てくれたのだ。一人で探しに行ってもよかったのだが、マールーシャの方があまりにも熱心に誘ってくれるので折れた。無論、迷惑などとは少しも感じていない。自分などのような一学生の買い物に忙しい准教授を付き合わせて申し訳ないと思うのだが、彼は他にも勧めたい本があるしむしろ喜んで同行したいなどと笑うのだった。
 申し訳ない、なんて思いつつも、本当は楽しみにしていた。マールーシャと会うといっても彼の研究室――大抵たくさんの学生らで賑わっている――を訪れるか、大学近くの穴場のカフェテリアで話をする程度だったから、一緒に遠出するのは初めてだ。そこまでしてくれる彼の優しさに惹かれつつ、けれどきっとほかのどの学生に対してもこうやって世話を焼いているのだろうと思う。そうして愛想を振りまいた多くの人の中に、彼を射止めた人がいるのだろう。相手の一人や二人いたっておかしくない、と言っていた女生徒の言葉を思い出す。全くもってその通りだと思った。自分だけが特別なはずがない。デートの約束の方が、一学生の買い物付き合いの何倍も大事に決まっている。

 リスケ、あるいは約束のキャンセルの連絡が来ているだろうかとそっとスマートフォンを鞄から取り出してみるが、彼からの連絡はないようだ。きっと軽い気持ちで自分との約束を取り付けた後、デートの約束が舞い込んだのだろう。もしかしたら彼から誘ってくれた手前、約束を反故に出来なくて困っているかもしれない。ならば、ここは自分から身を引くのがいいだろう。自分の買い物なんかより、今後を左右しかねない重要な約束を優先してもらった方がいい。
 こういったことは本来ならばあまりしないのだけれど、講義のさなか、ゼクシオンは教員の目を盗んで机の下でこっそりスマートフォンを操作した。メッセージツールを呼び出して連絡先を探る。普段からやり取りをする相手はごく限られているせいで、彼の連絡先も常々一番上かその次くらいには表示されていた。失礼のないようにと頭をひねりながら、メッセージを打ち出していく。
『今日の約束ですが、お忙しいのではないでしょうか。本屋の所在地を教えてくださったら自分ひとりで探しに行こうと思います』
 トン、と送信ボタンを押した後、何とも言えない虚無感に苛まれた。楽しみにしていた気持ちは落胆に変わりかけていたけれど、これで関係が終わるわけでもない。だいたい彼の恋愛事情に対してどうこう言う資格など露ほどもない。自分は学生で、年齢も離れていて、友人にすらなり得ない。いつも通り本の貸し借りの合間に少し話が出来れば、自分はそれで満足だ。そう思ってゼクシオンは自分の気持ちに納得できるような理由付けをした。自分の中に芽生えかけている彼への感情を、この時もまた見て見ぬふりをした。そうやってずっと彼への感情をないものとして扱っていることに、本当は気付いているにもかかわらず。

 ところが退屈な講義を終えて再びスマートフォンを取り出すと、彼からの返事は以下のようなものであった。
『心配には及ばない。約束通り十七時に正門前で。』
 短く簡潔な返事。逆に気を遣わせてしまったのだろうかと心配になる。『ところで講義中では?』なんてお咎めの一文はとりあえず見なかったことにした。一度自分の中で折り合いをつけたはずなのに、複雑な感情がふたたび首をもたげていた。デートの約束とやらは大丈夫なのだろうかという心配と、それでも自分との約束を無碍にしないでくれたことへの安堵と。

 教室の時計を見上げると、午後最初の講義を終えて時計は三時を指そうとしている。あと二時間。複雑な思いを胸中にないまぜにしたまま机の上の教材を片付け、だらだらと出口を目指す学生の波に加わった。

 

 

 約束の十五分前に到着したのにもかかわらず、マールーシャはもうそこにいた。あたたかな日差しを受けて髪の毛がまばゆく光を放っている。桃色の豊かな頭髪は何処にいても目を引いた。背も高く、人の多い空間でも彼を見付けるのはたやすい。真っすぐ姿勢よく立っているその姿を遠くから見つけた瞬間、ゼクシオンですら納得した。これはたしかに、余所行きの格好だ。
 服に興味のないゼクシオンとは対照的にマールーシャはいつだって洒落たものを身に纏っていた。教壇に立つ姿は主張の強すぎない落ち着いた雰囲気の中にもどこかアクセントがきいていて、ゼクシオンでは思いつかないような着こなしだった。決して華美ではなく、けれど彼らしさを引き立てるような服装。ところが今日の服装は、いつもの落ち着き具合に対してどこか華やいだ印象が受けられた。上等そうな黒いコートは彼の肌や髪色の明るさを際立たせていたし、先の尖った革靴はしっかり手入れされ磨き上げられているのが見て分かる。いつもは自由に跳ねさせている癖毛が今日は少し落ち着いて見えるのは、整髪剤か何かを使ったのだろうか。やはりこのあとの予定を意識したものなのだろう。立っているだけで様になるのだから、道行く人が彼に視線を送るのも納得できた。デート、という単語が頭によぎる。
(……ふうん、女性を相手にするとこういう格好をするんだ)
 あまり見たことのない彼の一面を目の当たりにして感心する一方で、誰かのために誂えたであろうことを思うとほんの少しだけ胸中に違和感を覚える。が、すぐにゼクシオンはゆるくかぶりを振る。自分には関係のない話だ。

 一呼吸置いてから近付いていくと、ゼクシオンに気付いてマールーシャは破顔した。屈託のない笑顔になんだか気後れしてしまい、目を逸らすようにしてゼクシオンはぺこりと頭を下げた。
「今日はお忙しいのに、ありがとうございます」
「なんだ? やたらと気にするな。案内したいと言ったのは私の方だぞ」
 マールーシャはそう言ってから柔らかく微笑んで続ける。
「アルバイトの時間を変えてもらったんだろう。こちらこそ、今日のために貴重な時間を割いてくれて感謝するよ」
 こっちの都合までよく覚えているな、とゼクシオンは内心驚いた。初めてこの話が上がった時、マールーシャに提案されたこの時間は本当はアルバイトが入っていたのだけれど、彼の厚意に甘えたくて別日に振り替えたのだった。学内でも引っ張りだこの彼を独り占めできる滅多にないチャンスなのだから、それくらいわけもない。
「駐車場まで少し歩くが構わないか」
「ええ……って、駐車場?」
 目を瞬いた。電車で行くものとばかり思っていた。車内というそう広くないプライベートな空間を想像して少し緊張が走る。
「ここからだと車の方が早いだろう。それに、運転は好きなんだ」
 マールーシャはなんてことなさそうに答える。確かに合理的な提案であった。けれど、きっと女性を迎え、送り届けるための車だろう。そう考えた方が納得できた。じゃあいこうか、と歩き出したマールーシャから、甘い香りを感じる。香水をつけているのだ。甘いけれど爽やかさが後を引く、多分花の香りの香水。講義の合間に会う時よりも、もう少し主張が強いかもしれない。やっぱり、今日は少し気合が入っているのかもしれない、デートとやらのために。
 そのデートには間に合うのだろうか。彼の都合を確認すべきだった気もしたけれど、甘い香りにつられるようにゼクシオンはマールーシャについて歩き出した。そのまま道中マールーシャとの話は話題が絶えず、なかなか切り出せなくなってしまい、ひとまず諦めることにする。彼がいいというならいいのだろう。目当ての本を探しに行く買い物程度ならきっと一時間もあれば済むだろうし、大人のデートの時間に遅すぎることもあるまい、とゼクシオンは考える。

 

 学外で過ごすマールーシャとの時間は期待していた以上に充実したもので、ゼクシオンはしばらく胸中のもやつきを忘れて過ごした。
 マールーシャの教えてくれた本屋は専門書ばかりを取り扱う店で、その堅苦しさと店構えの古さも相まって若者はまるで寄り付かないという。話をするのも躊躇われるような静まりかえった空間、乾いた紙の匂い。古い本ばかり扱っているのかと思いきや専門書に関して品揃えはぴかいちで、どれだけ探してもなかなか手に取ることが出来なかったゼクシオンの探し物も、案内された先ですぐに見つかった。品揃えもよく落ち着いた雰囲気のその店を、ゼクシオンはすぐに気に入った。
 目当ての本を見付けた後も、研究テーマの書籍で興味深いものを見て回り、マールーシャの買い物にも付き合った。話をするときは柔和な印象なのに学術書に向けられる目は真剣そのもので、無意識のうちにその横顔にみとれている自分を自覚せずにいられなかった。
 その後も大きな書店を何件か見て歩き、マールーシャは細かい買い物をいくつかしていた。他人の買い物に付き合うことなどほとんどなかったゼクシオンだが、思ったほど苦ではなかった。むしろ興味深かった。自分の知らない感性でものを選ぶところをもっと見ていたいと思う。
 よく歩いて程よい疲労感を感じるころには外はすっかり暗くなっていて、驚くことにマールーシャはそのまま食事に誘ってくれた。
「えっ……時間は大丈夫なんですか」
「もちろん。結局私の買い物にばかり付き合わせて歩かせてしまって、疲れただろう。君さえよければ、だが」
「僕は大丈夫ですけど……」
 またとないチャンスに思わず頷いてしまったが、はたと心配になった。専門書に夢中になっている間は忘れていた、幻の女性の姿が再び脳裏に甦ってくる。
 マールーシャはそんな心配をよそに嬉しそうにはにかむと、駅前に良い店があるんだ、とゼクシオンを先導して歩いた。明るく自分を引っ張ってくれる姿に、胸中がさざ波だつ。
 おすすめだという駅のそばの明るいダイニングで食事をしているときも、楽しければ楽しいほど不安の影は濃くなった。濃厚なクリームソースの味もどこか曖昧だ。
 つい、今夜を一緒に過ごすであろう相手のことを想像した。どんな相手なんだろう。大学関係の人だろうか。もしかして学生? 恋人なんだろうか。……そうだろうな。彼の隣に立つ相手を明確にイメージしようとして、やっぱりやめようと意識を散らして。そんなことばかり繰り返していた。話しかけられても、生返事ばかりしてしまっている。
 せっかく誘ってもらえたのに、妙なことを気にし続けている自分がだんだんと嫌になってきた。せっかくマールーシャが時間を割いてくれているのだから、せめて楽しまないといけなかったなと反省する。こんな機会、きっともうないのだろうから。
 伝票をもって先に会計に行ってしまったマールーシャの背中をゼクシオンは慌てて追いかけた。

 

 いよいよ解散かと思いきや、少し歩かないか、と言って、マールーシャは駐車場と反対方向に歩き出した。繁華街の喧騒から逃れて、やがて二人で川沿いの静かな道に出た。ぽつりぽつりと等間隔におかれた街灯だけが道を照らしている。夜風が気持ちいい静かな道を歩きながら、けれどゼクシオンはいよいよ時間が心配になっていた。腕時計を盗み見ると、もう二十一時になろうとしている。こんな時間まで自分と過ごしているということは、仕事を終えた相手とこのあと合流するのかもしれない。同年代の落ち着いた雰囲気の綺麗な女性が彼の隣にいるのは似合いな気がした。この後は相手の家に直行するんだろうか。明日は休日だし、きっと泊りなんだろう。それまでの時間潰しに付き合えただけでも自分は十分だ。

 何度目かのため息が出そうになるのをゼクシオンは飲み込む。仕方ない、だとか理解している、と思っている反面、周りに誰もいない中ふたりで並んで歩くこの時間が、まだ続いて欲しいと思っている自分がいる。彼がこの後過ごすであろう時間を思うと、身を焼くような焦燥に駆られる。もう長いこと、ゼクシオンは自分の中のマールーシャへの感情を持て余している。
 憧憬、だと思っていた。彼からの教えでの知識以上に望むものはないはずだった。いつからこんな目で彼のことを見るようになっていたのだろう。特別な相手がいたって何らおかしくないというのに、それでも抑えられないこの気持ちに名前が付くことからずっと目を逸らしてきた。けれど、そろそろ観念した方がいいのかもしれない。まいったな、とゼクシオンは頭を抱えたい気持ちになる。恋愛なんて生まれてこのかたほとんどしたことがない。失恋すらどうしていいかわからない。何をもって、この愚かしい感情に終止符を打つことができるのだろう。ゼクシオンは自分の中の得体の知れない感情に困り果てていた。

 ぐるぐる考えていると、半歩前を歩いていたマールーシャが振り返った。急に口をつぐんだかと思うとじっとこちらを見つめているので、ゼクシオンはたじろぐ。

「な、なんでしょう」
「今日はなんだか心此処に在らずといった様子だな。話していても、ずっと上の空だ」
「あ……」
 相手にまで見透かされていたなんて。自分の愚かしさをゼクシオンは呪った。せっかく時間を作ってくれたというのに。
「すみません」
 気分を害しただろうかとおそるおそる見上げるも、マールーシャは気づかわし気にゼクシオンを覗き込んでいる。
「何か、悩みでも? よければ相談に乗るけれど」
「……そんな大層な悩みではないんですけど」
「といっても勉学は問題ないだろうし。研究室の選択も就職活動も、まだ先だったな」
 うまい言い訳もできずに、ゼクシオンはまた曖昧に濁してしまった。

 貴方といると喉がつかえるような感覚に襲われて苦しいんです。
 ほんの少し、一緒の時間を共有できるだけでよかったはずなのに。
 これってどういうことなんですか?
 僕が貴方に本当に望んでいることって、何なんでしょう。

 なんて……聞けるはずもない。
 そんな様子のゼクシオンを見て、ふっとマールーシャは寂しそうに笑うと聞こえるか聞こえないかくらいの声でボソリと呟いた。

「……いったいどうしたら貴方の心を独占できるんだろうな」

 ……。
 ……。

「……え?」
「いや、こっちの話」
 言葉の意味を飲み込めずに目を瞬いている間に、にっこりと笑って見せたマールーシャはすっかりいつもの余裕を取り戻していた。微笑みの裏側に隠されてしまった彼の本音はもう聞こえない。もう一度言ってくれないだろうかとじっと見つめ返してみたが、マールーシャはもういつも通りに優美に微笑むだけだった。先ほど一瞬だけ見せた寂しげな表情は、幻影だったのだろうか。
「よければまた誘ってもいいだろうか。今日は楽しかった。今度は心配事のないときに、また色々話せたら嬉しい」
 気を取り直した様子で、マールーシャはそう言ってゼクシオンの返事を待った。思いがけない『また』の誘いにゼクシオンの胸が高鳴る。
「僕でよければ……喜んで」
 そう答えたときのマールーシャの表情はふわりと花が開くような優しいもので、ゼクシオンは今日一番見とれてしまった。こんな笑顔を向けられたら男女問わず夢中になるのもそりゃあ頷ける、といつかも感じたことを思い出した。そう、夢中なのだ。もうすでに。

 さっき話していた映画を見に行くのはどうだろうとマールーシャはもう楽しそうに『また』の話を始めた。せっかく彼がまた時間を作りたいと言ってくれたのだ。もう少し自信をもって、今度はちゃんとその時間を堪能したい。
 街灯の下で足を止めて鞄の中から手帳を取り出して開いたかと思うと、何の躊躇もなくゼクシオンに広げて見せた。
「いつなら都合がいい?」
 いいのだろうかと思う反面、興味が勝ってマールーシャの予定が書きこまれた手帳に目を走らせた。忙しい彼らしく、あれこれと書き込みがある。走り書きのメモやら、細かく書き込まれた授業計画。筆跡や几帳面さを愛しく感じた。
 それとなく今日の日付を盗み見る。十七時校門前と書かれたのは自分との待ち合わせのことだ。書かれているのは、それだけ。だけど、赤いペンで線が引いてある。モノクロの紙面の中で、その細い線だけが存在を際立たせていた。幻の女性の名前や待ち合わせ時間の書き込みはない。それを見て安心している自分がいる。……重症だ。

 予定はほとんど空いているゼクシオンが合わせる形で、あっという間に次の約束を取り付けた。月末の日曜日、日中から会う約束をした。ランチをして、映画見て、また買い物もして。それってまるで、
「……デートみたい」
 つい、そんなことを口走ってしまった。あ、しまった。慌てて顔をあげると、マールーシャもびっくりした顔でこっちを見ている。
「や、そんなつもりじゃなくて……あの、気分を害したらごめんなさい」
 ゼクシオンがしどろもどろになっているのを見てやがてマールーシャはくすくすと笑いだした。
「むしろそんなふうに思ってもらえてるなら嬉しい」
 よくわからないフォローをされ、極めつけに「楽しいデートにしような」と目を細められた。眩しくて直視できない。色々なことに慌てすぎて顔が赤くなってしまう。
「でも、今日もいいデートだったよ」
 マールーシャが静かにそう言い添えるので、はたとゼクシオンは顔を上げる。目が合うとマールーシャはしばらくじっとゼクシオンを見つめてから、またいつものように優しく微笑んだ。
「……そろそろ帰ろうか。家まで送ろう」

 駐車場の方向に向かいながら、今日を振り返った。夕方からの待ち合わせだったはずなのに、随分長く過ごしたような気がしていた。色々な感情に翻弄されたけれど、欲しかった本は買えたし、夕食も一緒に過ごして、そのうえ次回の約束までして。

「……僕も」 自分からは目を合わせられないまま、囁くようにゼクシオンは言う。「今日はいい日でした」

 

 この複雑で厄介な自分の中の彼への感情と、もう少し真っすぐ向き合ってもいいのかもしれない。

 帰ったら自分も手帳に予定を書き込もう。彼と違って人に見せることのない空白だらけの手帳。約束の日には、特別なインクでラインを引こうとゼクシオンは考えている。

 

 

20230101

タイトル配布元『icca』様