シチューの晩 - 1/4
夜の住宅街は夕餉時で、どの家庭も温かい光が窓から漏れていた。おまけになにやら食事のいい匂いまで漂ってくる。ホワイトシチューのような濃厚な香りが鼻をくすぐり、マールーシャは思わずため息をついた。寒い日のあたたかいシチューは格別だ。どちらかといえばビーフシチューのほうが好みだが。
寒いと温かいものが恋しくなるのはマールーシャも同じだった。家の照明、煮込まれたシチュー、そして、恋人の体温……。思いつくまま欲しい温もりを頭の中に並べる。
ふとスマートフォンを取り出して画面を見ると、メールの通知が一件来ているのが目に入った。内容を確認するとそのままポケットにしまい込み、寒空の下を家路へと足を速める。
***
「あれ……早かったですね」
呼び鈴を鳴らさずに鍵を開けて家に入ると、物音を聞きつけてキッチンからゼクシオンが顔をのぞかせた。
「駅についたら連絡してくださいってメール入れたんですけど」
「すまない、見ていなかった。何か買うものでもあったか?」
「いえ、あの、食事の支度がまだ中途半端で」
「構わん。ゆっくりやってくれ」
きまり悪そうにしているゼクシオンをなだめるように声を掛ける。……恋人がキッチンに立つ姿を拝みたいからメールに気付かぬふりをしていると知ったら、彼は呆れるだろうか。
それよりも部屋中に広がるいい匂いに誘われて、マールーシャはコートを脱ぎかけたままキッチンを覗き込んだ。鍋で何かを煮込んでいるのが見える。
「いい匂いだ。もしかして」
「ビーフシチューです。寒いと食べたくなりますよね」
絶妙なチョイスに頭を抱えたくなる。なんでもそつなくこなす彼は料理も上手い。
「ちょうど食べたかったんだ」
「それはよかったです」
一人だとなかなか作らないので、というゼクシオンは少し気恥ずかしそうで、マールーシャはたまらない気持ちになった。
こっちがどれだけ感動しているかも知らず、ほら手を洗って、コートをかけて、とゼクシオンは淡々とマールーシャをキッチンから追い出した。
付き合ってそれなりにたつ彼はまだ年若い学生だ。学業は順調のようで、必要単位はすべて取り終わり、希望の院に進むことも決まっている。真面目で頭が良くて、自分を慕ってくれている、そんな彼に好意を伝えたのは自分からだった。何度か家に来るような関係になってから渡していた鍵を気兼ねなく使ってくれるようになったのはつい最近のことで、授業のない午後などはこうして家に来てくれることが増えていた。
仕事を終えて帰ってきた家に明かりがともっているだけでも嬉しいのに、そこに恋人がいて、果ては手料理まで用意されているという状況が、独身男性にとってどれだけ感じ入ることか。(お相手の彼も例にもれず独身男性なわけだが)
などと、一人感傷に浸っていると後ろから怪訝そうな声がする。
「……いつまでそうしているんです?」
「あ? ああ」
現実に引き戻されたマールーシャは脱ぎかけたコートからやっと袖を抜く。
あたたかな明かりに照らされたリビングルームに、出来立ての手料理、そして、それらを用意してくれた恋人。テーブルに並ぶ湯気の立つ濃厚なビーフシチューは、暗く寒い夜をすっかり忘れさせてくれそうだった。
***
温まった部屋にテレビの音が柔らかく響き、コーヒーの香りが満ちていく。
至福の食事が終わり、洗い物も済むとマールーシャの淹れたコーヒーを手に団欒の時間になるのが二人の常だ。ゼクシオンが膝を抱えながらぼんやりとテレビを眺めている傍ら、手すりを枕にマールーシャはソファにだらりと姿勢を崩しながら仕事の書類を睨みつけていた。すぐ済むから、と取り出した仕事の処理に思いがけず難儀している。修正箇所をいくつも見つけてしまい、早く帰りたいがために焦って書類作成を御座なりにしてしまった数時間前の自分を猛省していた。休み明けはいつもより早く出ないとまずそうだ。
修正箇所にどんどんペンを入れていく折、ふと、足の指先がほんの少し何かに触れる感覚。顔を上げると、ゼクシオンがもぞもぞと足をすりよせていた。立てていた膝にこつんと頭を落とすと、じっと目線を投げかける。
「眉間に皴」
「ああ……待たせてすまない」
「もう終わりますか」
それ、と書類を見やる目つきは心なしか恨めしそうだ。せっかく恋人と過ごすせる貴重な時間に申し訳なく思う気持ちと、わかりやすく構ってほしそうにしている彼を愛しく思う気持ちとが混ざり合う。結果、思わず頬を緩ませてしまった。
「もう少しだ。先に風呂に入ったらどうだ」
手を伸ばしてなだめるように髪の毛に指を通して撫でる。
「泊っていくだろ?」
されるがままのゼクシオンは無言でうなずいた。
「その間に終わらせる」
もう一度頭を撫でるとゼクシオンも遠慮がちにすり寄ってくる。さながら猫のようで、気持ちよさそうに目を閉じているその様は、もしそのままゴロゴロと喉を鳴らし始めたとしても違和感がなさそうだ。面白がって顎の下に手を差し入れようとすると、不穏な気配を察知したのか形の良い眉を顰めながらぱっと離れてしまった。まさしく猫そのものである。
少し乱れた髪の毛を手櫛で整えながらゼクシオンはマールーシャの手元の書類を覗き込んだ。
「訂正ばっかり」
「焦るもんじゃないな」
「焦っていたんですか」
「え?」
「何を焦っていたんです?」
「あ」
いたずらっぽく見上げてくる目とかち合った。にやりと口角が上がるのを見てマールーシャはいたたまれなくなり、整えられたばかりの前髪をぐしゃりとやや乱暴に撫でる。
「やかましい、早く風呂に入れ」
ゼクシオンは楽しそうに含み笑いをすると、するりと身体を離し、ではお先に、とリビングを後にした。
部屋を出ていくゼクシオンの背中を見送り、ぱたん、とドアが閉まると、マールーシャはため息を一つつく。ぬるくなったコーヒーを流し込むようにして飲み干すと、背筋を正して仕事の残骸の処理に集中することにした。
お先にどうも、と戻ってきたゼクシオンはすっかり楽な服装に着替えていた。家に寝泊まりすることが増えてから、着替えと生活用品は急な宿泊でも困らない程度にマールーシャの自宅にストックされつつある。
ほこほことあたたまり、柔らかくてしっとりとした温もりを身にまとう風呂上り独特の色気に当てられて、マールーシャはまたしても頬が緩みそうになる。スウェット姿のゼクシオンに普段の無感情的な鋭さは全くなく、今は気を許して甘えてくれる可愛い恋人でしかない。まだお湯が熱いうちにどうぞ、と心配りもしみじみと染み入る。
マールーシャは読んでいた本を閉じて傍らに置いて立ち上がると、部屋で待つように言ってとゼクシオンはの髪をくしゃりと撫でた。洗い立ての柔らかい髪の毛が指に気持ちいい。自分のシャンプーの匂いが感じられて、自分色に染まりゆく恋人にこみ上げる喜びを噛み締めた。もうすっかり骨抜きである。
ゼクシオンも自分を撫でる大きな手にうっとりと頭を預けていたが、早く出てきてくださいね、と笑う顔はどこか蠱惑的だ。
熱いシャワーに打たれながら、 マールーシャは思考を巡らせる。今日は何曜日だっけ、明日午前授業あるんだっけ、泊まりに来てくれたってことは、つまり、いいんだよな?
柄にもなく緊張していた。初夜でもあるまい。もう付き合ってそれなりの月日がたとうとしていたが、彼には未だに心を乱されてばかりだ。今日は待たせてばかりの恋人をこれ以上待たせたくなくて、ドライヤーは粗めに手早く済ませる。どうせすぐ脱ぐだろうが新しい部屋着に袖を通し、初々しい緊張を胸に寝室の扉を開いた。
部屋では布団にくるまったゼクシオンが、読みかけにしていたマールーシャの本を手にとって眺めているところだった。マールーシャが入ってきたのに気づくと本を閉じて身を起こす。布団から白い肌がのぞいているのをみてマールーシャはくらりとめまいを感じた。服、いつの間に脱いだんだ。
無言のままこちらを見つめているゼクシオンに誘われるように近づく。ベッドに乗ると、布団の中から白い腕が伸びてきて、ほとんど濡れたままの髪の毛に触れた。
「全然乾いてないですよ」
楽しそうに笑うゼクシオンから黙って布団を剥ぎ取る。湯上りの上気した身体はまだ柔らかく、吸い付くと鮮やかに赤く色付いた。何箇所も跡をつけるのをゼクシオンは厭わずされるがままだ。胸元に吸い付くマールーシャの、まだしっとりと湿り気を帯びた髪の毛に指を絡ませて優しく抱く。たくさんキスをしながら、優しく、丁寧に愛撫すれば、体を這う手に先ほどの穏やかな笑みは何処へやら、ゼクシオンは興奮気味に呼吸を荒くした。その吐息に、マールーシャも身体が熱くなる。『これ以上待たせられない』だなんて戯言だ。もう一秒だって待てないのは自分のくせに。
「でんき、けして」
キスの合間に短く発せられる吐息交じりの熱っぽい声に、マールーシャは無言でリモコンを手に取る。ピ、と音がして照明が落ち、闇とともにゼクシオンの体を覆い尽くした。