ロールキャベツの晩
半年に一度、レベルチェックのために受けている英語の試験をようやく終えたところだった。就職活動はせずにこのまま院に進むつもりなのでスコアを必要とされる予定は当分ないけれど、こうでも機会を作らないと勉強する機会を失ってしまうと考えてなんとなく受け続けている。根が真面目なのだ。
問題用紙まで回収されて無事解散となり、教室を出たところでスマートフォンの電源をつけると、トークアプリがさっそく通知を連ねた。内容を確認すると友人のデミックスから、同じく試験を終えて外で待つという旨だった。すぐに向かう意向を送ったあと、もう一つ、別の通知内容を確認する。短く淡白に試験終了をねぎらう言葉がそこに送られていた。同様に、試験を終えた旨を事務的に報告する。決して気持ちまで淡白なわけではない。彼とのやり取りはいつもこんなものだ。
校舎を出ると、入口のところでデミックスが所在なさげに立っているのを見つけた。こちらに気付くやいなやぱっと表情明るく駆け寄ってくる様は、さながら飼い犬のようでなんだか愛嬌を感じてしまう。なんて、友人に対して失礼だろうか。
「ゼクシオンおつかれー!」
また全部終わんなかった、とデミックスは屈託なく笑う。ついつられてゼクシオンも微笑んだ。
「お疲れさまでした。読解問題難しかったですね」
「せっかくの日曜日に散々だよ! もう、しばらく受けないからな。このあとなんか食べに行かない?」
「じゃあ、どこか入りましょうか」
二時間も通しで試験を受けていたせいでデミックスはすっかり疲れ切っていた。どちらかといえば彼はあまり積極的に勉学に取り組む方ではないが、今回は気まぐれで一緒に受験するなどと言い出したのでこうして試験の終わりに待ち合わせるに至っている。
カフェテリアに入って温かいカップに指先を温めながらあれこれ話していると、長らくの勉強ですり減らした身も心もだいぶ回復していくようだった。解答を確認し合いながら一喜一憂する友人は素直なもので、見ているゼクシオンも思わず頬が緩む。
季節限定のホットサンドを頬張りながらデミックスはゼクシオンのカップを覗き見た。
「何も食べないの? お腹空いてない?」
「一応、試験前には食べたので」
とは言っても自宅を出る前の話なのでもうかなり前にはなる。空腹でないわけではなかったが、この後の予定を考えると胃は空のままにしておきたかった。
「ふーん……」
デミックスは曖昧に相槌を打つも、何かに気付いたかのようにニヤニヤとこちらを見つめてくる。
「この後、何かあるんだ」
「……だったらなんです」
「いや? 別に」
「気色が悪い」
「ひどいな?!」
普段は頭ゆるゆるなのに変なところで勘が鋭いから困る。微笑ましそうにこちらを見てくるデミックスはなにやら勘違いをしていそうだが、面倒なのでゼクシオンは何も言わないでおくことにした。
*
デミックスと別れてから、スマートフォンを取り出してこれから向かいます、と連絡を入れる。迎えに行こうか、というご厚意は丁重にお断りして電車に乗って恋人の自宅へ向かった。
自宅にいくのはかなり久しぶりだ。試験前の期間はしばらく訪問を控えていた。今となっては居心地の良すぎるそこは誘惑が多く、精力的に勉強に励むには向いていなかったのである。特にここ一か月近くは会う時間を工面するのも難しく、空いた時間でたまに電話をするのが関の山だった。僅かでも話ができる時間は癒しのはずなのに、スピーカーを通した声はどこかうら寂しさを募らせた。
相手はいい大人なのだから、ちょっと会わなかったくらいでどうということなどないのだろう。心待ちにしているのは自分だけかもしれないな、とゼクシオンは車窓の外を流れる都会のビル群をぼんやりと眺めていた。夕日が沈みかけていた。
何はともあれ、試験は無事に終わってゼクシオンは晴れて自由の身だった。試験が終わったら自宅で手料理をご馳走してくれるという約束は、長いことゼクシオンの心の支えとなっていた。恋人の手料理なんて、その言葉の響きだけで疲れが吹き飛びそうである。相手も働いている人なので手料理を振舞われたのは過去に数回だけだが、これがなかなかゼクシオンの胃袋をがっちりと掴んでいた。どうしてこうもなんでもできてしまうのだろう。なんて嫌味な人だ。たまらない。早く会いたい。
自宅マンションについて、部屋の前でインターホンを押す。ドアの内側に人の気配を感じると、久しぶりに会うせいかちょっと緊張した。しかしガチャリとノブが下がり、迎えてくれた顔を見るとそんな緊張もすぐに緩む。マールーシャは久しぶりの訪問を快く迎え入れてくれた。
「よく来てくれた」
「なんだかお会いするのは久しぶりですね」
「誰かさんが頑なに来ないと言ってきかないから」
マールーシャは軽口をたたきながらも、目は優しい。さりげなく荷物を預かってくれるところに、もうすでにいろいろ持っていかれそうになる。ここが居心地がいいから、という理由は何となく伏せておくことにした。……なんだか悔しいから。
「お疲れ様。試験はどうだった」
「時間配分がまだ下手で。ぎりぎりでした」
「時間内に解き終わるのは難しいんだろう。さすが優等生」
「馬鹿にしてません?」
「とんでもない。何か飲むか」
「あたたかいものがいいです」
日が短くなってきて、夕方になってくるともう風が冷たい。マールーシャは機嫌よくキッチンの戸棚を開けて中を検分する。薬缶に水を汲んで火にかければ、くつくつと煮える音が沸き起こり耳に心地よい。きちんと茶器を温めて、時間もしっかり計って、選ばせてもらった茶葉で淹れる紅茶は疲れていた身体にじんわりと染み渡った。花のような甘い香りが部屋の中に広がって、それにもまた癒される。
試験の話に始まりお互いの最近の話などを連ね、ポットが空になるころにはマールーシャは隣にきていて、梳くように髪の毛を撫でていた。されるがままにしているが、自分からもたれかかるにはまだ理性が邪魔をしていた。不意にデミックスの屈託のない笑顔が脳裏に浮かんだ。友人の素直さが少しでも自分にあったら、などとつい他人と比べてしまう。あまり良くない癖だ。
もやもやとあれこれ頭の中に巡らせているのに気付いてか、マールーシャは黙って撫でていた髪の毛に指を通したまま、そっとゼクシオンを抱き寄せた。
「優等生君はまだ何か考えごとに夢中らしいな」
「え? いや、べつに……」
「今日は甘えていいんだろう?」
こういう時間は随分と久しぶりだ、といってマールーシャは抱く腕に力を込める。見透かすような物言いも、ひねくれた自分とは対照的に素直に思いの丈を伝えてくれるところも、彼の好きなところだった。こく、と頷けば、そっと額にキスを落とされる。こういう一連の動作が流れるようにできるのも彼ならではだろう。
ドキドキと胸打つ音が相手に伝わってしまうんじゃないかと思ったが、ゼクシオンは腕を伸ばして広い背中を抱いた。恋人の纏う甘い香りと体温はゼクシオンを優しく包み込み、しばらくの間会えなかった時間を埋めていくようにその温もりを堪能した。
*
ソファでじゃれているうちに転寝をしていたらしい。はっと目を覚ますともう窓の外は暗く、部屋中にいい匂いが漂っていた。紅茶の漂わせる華やかさとは違う、家庭的な夕餉の香りだ。もぞもぞと起き上がると、それに気づいたマールーシャがキッチンから顔をのぞかせる。
「すみません……寝てました」
「疲れてるんだろう」
寝ていたらいい、といいマールーシャはキッチンから声をかけた。調理にあたりゆるく髪の毛を後ろでまとめ、腰巻の黒いエプロンをかけている。
ゼクシオンは体を起こしてクッションを手繰り寄せると、顎を乗せてため息をつく。何をやらせてもさまになるのが悔しい。てきぱきと作業をしながらマールーシャは壁側の冷蔵庫に向かいこちらに背を向けていた。くせっけな毛先はまとめられて尚いろんな方向に跳ねている。ふと、白くて太い首があらわになっているのが目についた。滑らかな肌が遠くからでもよく見える。
(跡、つけたい……かも……)
先ほどまでのじゃれ合いが尾を引いてじゅんと口の中が潤い、ゼクシオンはごくりと唾をのみ込む。服の下の熱い体温を想像してぼうっと見とれていると不意に振り返ったマールーシャと目が合ってしまい、慌てて目をそらしたりして。甲斐甲斐しく働く彼をふしだらな目で見ていた自分を恥じた。久しぶりに目の当たりにする恋人は、やっぱりどこか眩しく見えてたまらない気持ちになる。
そうこうしているうちにやがて料理ができあがり、ゼクシオンも二人分の食器を並べるのを手伝い、湯気の立つ皿を囲んで二人は食卓に着いた。本日のメニューはロールキャベツだ。前々からリクエストしていた。優しい出汁の香りが食欲をそそる。
「本当に、なんでも完璧にこなしちゃうんですね」
「料理は嫌いじゃないからな」
並んだ料理の品を見下ろしながらマールーシャも出来栄えには満足そうだ。エプロンは外され、髪も解かれてもういつも通りの彼だった。
じっくりと煮込まれたキャベツはほのかに透き通り、煮崩れすることもなく見た目から美しい。きちんと手を合わせてから箸を入れれば、芯まで柔らかく煮えたキャベツは簡単に切り分けられた。とろっとしたスープに絡めて口に運ぶと、キャベツの甘みの後に肉汁がじゅわぁと広がり悶絶必至だ。
「どうだろうか」
「……おいしいです」
出汁の絡んだ和の風味が絶妙だった。染み入るように味わっているゼクシオンをマールーシャは満足そうに眺めていた。
「トマト煮のよりこっちのが方が好きです」
「私もだ。ついでに干瓢もないほうがいい」
「わかります、口に残りますよね」
「そのくせなかなか味が染みこまないから厄介だ」
二人は食の好みもだいたい合っていたので、食事に行く時に意見が割れて困ることもそうなかった。お互いの味付けの好みなどを話しながら和やかに食事は続いた。
食後のコーヒーもすっかり飲み終えた頃、最高の手料理と恋人との時間にすっかり癒されてゼクシオンは満足のうちにマールーシャにもたれて並んでソファに座っていた。バラエティ番組は明るく部屋を賑わせているが、あまり頭には入ってきていなかった。触れたところから伝わる体温が心地よい。ようやく素直に体を預けられるようになったというのに、楽しい時間はあっという間に過ぎていくもので、時計の針はもうすぐ九時を指そうとしていた。まだ帰りたくないなあ、と思いながらゼクシオンは壁にかかった時計を見てそっと息をつく。でも今日は泊まるとは言っていなかったし、彼も明日は仕事だ。電車があるうちにそろそろお暇しなくてはならない。
ぐずぐずと帰りを言い出せないでいるゼクシオンの心を読んだかのように、マールーシャも時計を見上げて呟いた。
「そろそろ」
「……はい」
「シャワーを浴びたらどうだ」
え、とゼクシオンは顔を上げる。
「泊まるんだろう」
さも当然とばかりのマールーシャを窺うようにゼクシオンは見上げた。
「でも……明日仕事でしょう」
「何か問題でも?」
「仕事に障るといけないですから……」
ぼそぼそと答えるゼクシオンの返事に、マールーシャはくすくすと笑う。
「ゼクシオン、何が仕事に障るって?」
「え?」
「私は泊まるか聞いただけだが」
「……え、あ?!」
自分の先走った発言に気付いてゼクシオンはみるみる顔を赤くした。対してマールーシャはにやにやと笑みを浮かべるとぐるりと姿勢をかえてゼクシオンを近くで覗き込む。
「何を期待している」
「ち、違……」
「違うのか?」
「……っ、貴方ってほんとに……!」
頭を抱えるゼクシオンにくつくつと笑いながらマールーシャは顔を上げさせた。
「心配の必要はない。私は体力もあるし若い」
「ほんと自信家ですよね」
「このまま帰すと思ったか」
低い声にぞくっとする。この肉声が自分を狂わせるのだ。
「言っただろう、今日は存分に甘えると」
ふ、と耳に息を吹きかけられるとぞくりと身体が跳ね、スイッチが入る。目が、真剣で射抜かれてしまいそうだ。すう、と目が細められると、つられるようにしてゼクシオンも目を閉じた。
「ン……」
柔らかく熱い感触が、一気に体内での熱を増幅させていく。ついばむようなキスを繰り返しながら、徐々に体重をかけられてゼクシオンはソファと彼の間で身動きが取れなくなっていた。さっきまでの優しさから一転したやや強引な手つきに戸惑いながらも、内心は待ち侘びていた熱に高揚していた。
すっかりゼクシオンを組み敷いてしまいながらマールーシャは言う。
「全く、こっちがどれだけ我慢していたかも知らないで」
「えっ」
どきっとした。我慢していた?彼が?
「寂しかったんですか……?」
なんて、どの口が聞くんだと思いながらも聞かずにはいられなかった。マールーシャは二ッと笑うとコツと額をくっつけてゼクシオンを覗き込む。
「寂しかったよ」
沸点はとっくの昔に到達したと思っていたのに、胸の高鳴りは留まるところを知らない。
「なんだ、会いたいと思っていたのは私だけだったのか」
「なっ、違いますよ!」
ため息をついてみせるマールーシャにゼクシオンは慌てて声を上げた。
「僕だって……っ、あいた、かった……です」
身を絞るようにして吐き出した言葉はゼクシオンにとっての精一杯だ。湯気が立ちそうなくらい真っ赤に上気してしまったゼクシオンを、マールーシャは宥めるように撫でた。本心を引き出せて満足そうである。
「じゃあ、この後はどうする」
「……泊まらせてください」
返事を聞いたマールーシャはいい子だ、と囁いてゼクシオンの手を取ると、一度起き上がり自分の膝の上に向かい合わせに座らせた。本当にこの人にはかなわない、とため息をついてゼクシオンはその肩にもたれかかった。跳ねた毛先がチクチクと顔に当たる。そっと腕を首に回し、髪の毛をかき分けてうなじを露出させた。白い肌は滑らかで、すぐにでも吸い付きたい衝動に駆られる。
「ああ、さっき物欲しそうに見ていたな」
「跡、つけてもいいですか。見えないところ」
「もちろん。見えるところでも構わない」
「それはだめです」 僕だけの印だから。
マールーシャは手で髪の毛をまとめて横に流すと、やりやすいように下を向いてくれた。
「優しくしてくれ」
「馬鹿」
悪態をつきながらも、もうすっかり欲情しきった眼はうなじを捉える。マールーシャの手が服を捲り背中をつつと撫で上げると、それに突き動かされるようにしてゼクシオンはその首に吸い付き、強く吸った。
夜はまだ、これから。
Fin.
20191101