止まず遣らずの雨の音 - 1/3

 その廃屋は、朽ちた内部をそのままにそこだけ時間が止まっているかのような不思議な空間だった。壁板はところどころ朽ちて剥がれ落ち、扉はすっかり無くなっている。剥き出しになった木造の支柱は自然の猛威にさらされてささくれ立っていたし、床には木材や割れた窓硝子の一部が無残に散らばっていたが、幸いにも屋根はそのままの形を保っていたため、二人の男が突然の雨を凌ぐための避難場所としてその廃屋は一役買ってくれたのだった。
 篠突く雨の中、やっとのことで屋根の下に潜り込んだゼクシオンは雨を吸ってだいぶ重たくなったフードを取り払って今来た道を振り返った。視界は激しい雨に真っ白に霞んでいて、もはや何も見えない。よくここまでたどり着けたものだと感心するほどだ。
「随分都合よく屋根にありつけたものだ」
 同じことを考えていたのであろう、今日の任務の同行者であるマールーシャが同じようにフードを脱ぎ去りながら、雨に溶けてしまいそうな風景を見据えて呟いた。いつもならふわりと柔らかく広がる桃色の毛先は、今日は雨に濡れて重たげにその先端から透明な雫を滴らせていた。鬱陶しそうに髪の毛を掻き上げるその仕草に、彼が目を閉じている僅かな時間だけゼクシオンは視線を送る。

 機関から命ぜられたワールド調査の任務の最中だった。鬱蒼とした薄暗い森は多くのハートレスが横行しており、次から次へと湧いて出るその大群に、マールーシャの戦力とゼクシオンの戦略をもってしても駆除には大いに時間と労力を要した。
 長期戦にもつれ込み、ようやく殲滅したかと思った矢先に追い打ちをかけるように驟雨に見舞われた二人は、道中みつけたこの朽ち果てた廃墟に駆け込んで凌ぐことにしたのだった。
「もうすっからかんです」
 まだ息を弾ませたままゼクシオンは壁に寄りかかるとそう告げた。濡れた前髪が張り付いて右目の視界を完全に遮るのを横に流す。
「少し休まないと。帰り道すら出せません」
 闇の回廊を呼び起こすための魔力すら使い果たしていた。回復手段も尽きている。エーテルの有無を問えどマールーシャは首を横に振るだけだ。体力が戻れば帰り道の用意くらいならできる程度には回復できるだろうと考え、このままここでしばし休息することにマールーシャも異論は唱えなかった。
 身の振り方が決まると、ゼクシオンはぐっしょりと雨を吸って重たくなったコートを脱いだ。渾身の力を込めて絞ってからしばらくその辺に干しておこうと辺りを見渡していると、貸してみろとマールーシャがゼクシオンの手から濡れ雑巾のようになったコートを奪った。マールーシャが絞るとまだたくさん水滴がぼたぼたと音を立てて床を濡らした。ぱんっ、とコートをはたいて高いところに干すのを見て、これ見よがしに力の差を見せつけられたようでゼクシオンは不愉快になる。今度は自分のコートを脱いで絞ろうとしているマールーシャに背を向けると窓際に歩み寄り、景色すら流れてしまいそうな大雨をぼんやりと眺めた。雨の音以外何も聞こえない、何も見えない。知らない世界で、帰り道もなくて、取り残されてしまったかのようだった。この男と、二人で。

 交わす言葉は無に等しい。マールーシャは対の壁にもたれて開け放たれた入口から外の様子を伺っていたし、ゼクシオンは小屋の奥で窓に向かって雨音にただ耳を傾けていた。雨足は未だ強く窓硝子を叩いたが、こんな廃屋でも屋根の下に匿われているとゼクシオンは強気になった。もっと降ればいい。此処から出られなくなるくらい。
 呼吸をすると、滴るような森の香りが鼻をついた。むせ返るような生命の匂いが生々しく感じられた。植物にとっては恵みの雨だろう。弊機関の植物担当はどう思っているのだろう、なんてゼクシオンは背後を少し気にした。ちらと盗み見るも、その後ろ姿は静かに外の様子を眺めているばかりだ。
 任務中の戦闘で昂った神経が落ち着いてくるとともに、雨ざらしになった身体が少しずつ冷えてくるのをゼクシオンは感じ始めていた。いつの間に負った傷が今頃になってじくじくと疼きだす。擦りむいたであろう頬を乱雑に腕で拭うと、うっすらと血の線が伸びた。
「当分止みそうにないな」
 真後ろから声が上がったので驚いて振り返ると、いつの間にかすぐ近くまでマールーシャが来ていた。忍び寄る影のように、この男は気配を消すのに長けていた。黒のインナーシャツ姿のマールーシャを、ゼクシオンはまじまじと見つめる。コートを脱いだ身体は筋肉が隆々としていつも以上に身体のラインをくっきりと強調していた。袖から伸びた太く白い腕に素早く目を走らせるが、雨に濡れた肌の上に傷は認められなかった。面白くない。ゼクシオンの眉間にまた皺が刻まれる。
 怪我をしている、とマールーシャは手を伸ばしてゼクシオンの顔に触れ、傷跡をゆっくりとなぞった。いつの間にか手袋を外していたマールーシャの手はまだ戦闘の余韻を残しているのか熱さが残っている。ゆらり彼の香を感じた。よく知った花の香に似た柔らかさの中に、汗の混じった雄々しさに気付く。
 その瞬間、ゼクシオンは眼前の相手に痛烈に欲情した。男臭い、言いようのない妖艶さに眩暈がした。男性的な分厚い身体に触れたくてたまらなくなった。彼が全身から発するエネルギーと熱を、肺腑の奥まで吸い込んですべて自分のものにしたいと思った。どうしようもなく欲しかった。今すぐに。
 熱を帯びたゼクシオンの目線に気が付いたのだろう、マールーシャの手が頬を滑り、指先は首を伝う。ただそれだけで、ゼクシオンの中の劣情を後押しするのには十分だった。
 マールーシャと目が合った。美しい青い目の奥にある、静かな火を見た。
 言葉は、要らなかった。