夏盛り、暁を待つ - 1/3
夏、うだるような暑さの昼下がり。改札を出て、照り付ける灼熱の日差しの中へと踏み出す。じりじりと肌を炙るような強い日差しに、車内のクーラーで冷え切っていた身体もすぐに汗が滲みだした。
見慣れない駅に一人降り立ったゼクシオンは、きょろきょろと辺りを見渡す。待ち合わせの相手は、目印にした駅ビルの入り口で日陰に入って涼し気に立っていた。すらりと背の高いその姿は雑踏の中でもよく目立っている。
暑さをものともしない爽やかな相手と対照的に全身から熱を発しながらゼクシオンは前に立った。人影に気が付くと、マールーシャは読んでいた本を閉じてお疲れ様、と微笑んだ。ふわっと柔らかい表情を目の当たりにして、午前中の授業と暑さによる疲労が少し軽減された気がした。
「真っ赤だ、暑かったな」
少し涼んでいくか、とマールーシャは駅ビル内を指さすが、ゼクシオンは首を横に振る。殺人的な暑さだったが、ここでのんびりするわけにはいかない。今日は行くところがあるのだ。ハンカチで汗を抑えながらそう伝え、マールーシャも頷くと、二人は肩を並べて歩き出した。
人の流れに乗って通りを歩いて行くと、すぐに大きく開けた通りに露店の立ち並ぶ地帯に出た。祭りで見るようなありふれた食べ物を扱う屋台もあるが、大多数は違う。どの露店にも大小さまざまな植木鉢が並び、支柱に青々とした蔓を巻き付かせている。
「うわ……すごい」
初めて見る光景にゼクシオンは思わず呟いた。一帯を埋め尽くす、鉢、鉢、鉢。
今日は、隣町で有名な朝顔市に来たのだ。
誘ったのはもちろんマールーシャだ。たまった有給休暇を消化するというので都合を合わせてどこかへ出掛けようという話から始まり、ちょうど今こんなものが、と雑誌の特集を見せてくれた。江戸末期から続く地域最大規模の朝顔市は、今年で七十周年になるという。
朝顔の店だけでなく縁日の露店も多く並ぶから退屈しないだろう、とマールーシャは言ったが、ゼクシオンも純粋に朝顔市に興味を持ったので快諾した。歴史ある催しがこんな近くで行われていたなんて知らなかった。
金曜日の午後、朝顔市は最終日を迎えるその日、ゼクシオンの授業が終わってから現地で待ち合わせようと話は決まった。翌日は休みだが、その先の予定はまだ決めていない。
夕刻ということもあってか、通りを歩く人はまばらだ。傾き始めた西日を背中に受けながら、長い影に先導されるようにゆっくりと市場を見て回った。
「朝顔だから、やっぱりこの時間は咲いていないですね」
蕾んでいるばかりの植木鉢を見渡してゼクシオンはマールーシャに話しかけた。もしもこの通り一帯の朝顔が満開だったなら、それはさぞ壮観だろう。艶やかに彩られた露店が並ぶところを想像した。
「早朝に来れたらそれは見事だろうな」
同じ光景を想像したのだろう、うっとりとマールーシャは言う。
「でも夜の朝顔市もまた違う雰囲気で悪くない。奥に夕顔の店もあるから、あとで見に行こう」
表立ってはしゃいでいるわけではないけれど、楽しんでいるのが伝わってくる。そんな様子を見るのはゼクシオンもどこか嬉しかった。来年は朝から来ようか、なんて言われると、くすぐったい気持ちになる。穏やかな時間。
一通り見て歩いてから、マールーシャは目星をつけていた露店に戻った。やはり鉢を買って帰るようで、店主とあれこれ話し込んでいる。退屈なわけではなかったがなんとなく暇を持て余して周りを見渡していると、一本横に入った細い通りの先で、風に吹かれて何かがキラキラと光っているのが見えた。さっきは通らなかった道だ。
マールーシャに声を掛けてから、ゼクシオンは一人で路地に向かって歩いていく。近付いていくとすぐにその正体が分かった。全貌はまだ見えないが、軽やかな鈴の音は他にない。風鈴の音だ。
路地を抜けると、ゼクシオンはその風景に圧倒された。小さな区画ではあるが、その一帯を埋め尽くす風鈴が藤棚に吊るされていた。風が吹くと一斉に揺れて、好き勝手鳴り響いている。暑さを忘れさせてくれるような、涼やかな音色が心地よい空間だ。
朝顔市ほどではないが、それなりに人で賑わっている。皆、風に乗って聞こえる軽やかな音に惹かれてきたのだろう。地方の硝子職人が焼いたというその品々をゼクシオンも見て歩く。透き通ったガラスもあれば鉄製だったり陶器のようなものもあり、どれも美しい絵が施されている。多くは朝顔をあしらったものだ。
親に買ってもらったのだろう、嬉しそうに小箱を抱えた子供が脇を駆けていった。今日の記念に、自分もひとつ買って帰ろうか。小さな浴衣姿を横目で見送ってから、ゼクシオンも自分の部屋に迎えるものを見繕う。
ちょうど支払いを済ませたところで、細道からマールーシャがやってくるのが見えた。手には鉢の入ったビニール袋を提げている。
「いい場所だな。何か買ったのか」
「ええ……涼しげでいいかな、と」
いいと思う、とマールーシャも喜んでいる様子だ。
「楽しんでくれているようで、嬉しい」
自分の買い物をそんな風に言われると、なんだか照れ臭くなってゼクシオンは視線を鉢に向けた。
「貴方も買えたんですね。お宅のベランダ、そろそろ狭いんじゃないですか」
「ん? そうだな……これは、」
言いかけて、マールーシャは手に提げていた鉢を胸の高さに抱え上げた。たくさんついた蕾がゼクシオンによく見えるように、少し傾けて見せてくれる。
「プレゼント用」
「えっ」
びっくりして見上げると、マールーシャは優しい目をしてこちらを見ていた。
「お前の部屋に合うものを選んだ」
「あ……ありがとうございます」
予想外だったので驚いていたが、うれしかった。手の中の鉢を覗き込むと、まだ育ち盛りの蔓に息づいている小さな蕾たちに急に愛着が湧いた。
「何色?」
「咲いてからのお楽しみ」
そうやって笑う表情は少し子供っぽいのに、時計をちらと見たかと思うと「置きに帰ろうか」と耳打ちする時には恋人の表情になっていて、すっかりその差異にあてられてしまいながらゼクシオンは小さく頷く。