三夜 - 2/4

 スマートフォンが振動してメールの着信を告げる。けだるげに取り出して画面を確認すると、待ち合わせ相手からのものだ。仕事が長引いて到着が遅れる謝罪から始まり、待ち合わせ場所ではなく直接ホテルで落ち合おうという提案を経て、待たせたお詫びに明日は何でも好きなものを御馳走したいといった旨がそこに書かれていた。気乗りのしない内容だった。文末の『愛してる』などという歯の浮くような文言は見なかったことにしてゼクシオンは機器を机に伏せる。そっとため息をつくと、誘発されるようにそばに置いたグラスの中で溶けた氷がからりと音を立てた。
 時計を見ると夜の十一時を回っていた。自分が店に入ってからはもう一時間ほどになる。薄暗い店内はいわゆるオーセンティックバーで、入り口の安っぽいネオンとは対照的な落ち着いた雰囲気をゼクシオンは気に入っていた。週末になると常連客でそこそこ賑わうが、目立たない路地にあるせいか、いつ来ても店内が落ち着いているのも好感の持てる理由だった。一人で楽しむときは大抵カウンター席に座るが、今日は入り口付近の二人掛けのテーブル席でロックグラスを傾けて時間を過ごしている。待ち合わせをしているときはいつもそうだ。

 一方的に約束を変更されてしまったおかげで手持ち無沙汰になってしまった。ホテルに行くつもりは自分だってあったけれど、ここで過ごす時間を蔑ろにされたようでつまらない気持ちになる。
 酒を追加注文しようか悩みながらゼクシオンはもう一度メールを読み返す。相手は数カ月前に知り合った人物で、待ち合わせてはともに夜を明かすだけの仲だ。会う頻度もそこまで多くなく、呼び名と、性的嗜好が一致しているということのほかは、彼に関してほとんど何も知らない。呼び名が本名かもわからなかったけれど、そんな情報は自分たちの関係において全く必要ないのである。
 都合の良い相手だった。呼び出せばたいてい時間を都合してくれたし、年も離れすぎず話も合った。顔だけあまり好みでなかったが、総じて都合がよかったので目をつぶれる程度ではあった。相手もそう思っているだろう。いわゆる、セフレ。人付き合いの中で生じる面倒な責任や拘束をすべて無視できた。楽しいところ、気持ちのいいところだけをつまみ食いする、気楽で希薄な関係。相手が誰であろうと自分が望むのはそういう関係だ。この思考を嫌悪する人の方が多いであろうことは承知しているが、この相手はそう言った考えを非難することなく受け入れてくれたので、そういった観点からも気負わずに会うことができた。
 彼以外にもこうして関係を持った相手は過去に数人いた。マッチングアプリのようなものを利用することもあったし、時としてこういった外の場で意気投合した相手とそのまま……なんていうこともままあったけれど、いずれも一夜の関係で終わることがほとんどである。今付き合いのある彼は、そんななかでは続いている方だ。前述したとおり都合がいいからという理由に尽きる。深入りするつもりはない。唯一欠点は時間にルーズなところだった。待ち合わせに遅れてくることの方が多く、毎度その理由に仕事の忙しさをあげていたが、本当のところどうなのかはわからない。その理由自体には興味もない。ただ、酒とセックスを楽しむ時間が減るのはゼクシオンとしては面白くないのだった。

 好きなだけ飲んだら、今日はもうこのまま帰ってしまおうか。
 少し冷めた気持ちでこの後のことを決めかねていると、ちりん、とドアベルが音を立てた。客が来たらしい。ドアが開いたのが視界に入ったので、何気なくゼクシオンは顔を上げた。自分の待ち人が現れるはずはないと思いつつも、なんとなく誰が来たのか確認したかったのかもしれない。
 しかしそこに現れた男性にゼクシオンは目を奪われた。目の前を通り過ぎていくその横顔が、はっとするくらい美しかったからだ。

 背の高さと、頭髪の明るい桃色が印象的な男性だった。遠慮がちに中の様子を気にしている素振りを見るに、この店に来たのは初めてなのだろう。バーテンダーに促されてカウンター席に腰掛けると、リラックスした様子で酒を選び出した。耳をそばだてると彼の口からはブランデーの銘が聞こえた。落ち着いた低い声が聞こえて、胸の内がざわめく。すぐに注文の品が前に出され、男性は一人で酒を楽しみ始めた。
 興味に抗えず、カウンターに座る彼の背後からゼクシオンはしばらく彼の様子を観察した。肩幅の広い背中。癖の強そうな髪の毛は肩にあたって跳ねている。背筋をまっすぐに伸ばしていて姿勢もいい。何かスポーツでもやっているのだろうか。屈強な体格は極めて好みだった。ラフな服を着ているその下にあるであろう筋肉のついた体幹を想像するのに夢中になった。

 声を掛けてみようか。
 そんなことを思いついたのは、ほんの気まぐれからだ。今夜約束していた相手と会う気はすっかり失せていた。一瞬見ただけの彼の横顔が忘れられない。もう一度見たい。その目に自分を映してほしい。いつものようにこの後の展開まで行かずとも、酒の肴に少し話が出来ればよかった。
 ゼクシオンはスマートフォンを手に取ると、先程届いたメッセージを呼び起こして短く返事を送った。今夜は会わないという旨のメッセージを送ると、そのまま相手の連絡先を消してしまう。一度見限ったらもう連絡は取らない主義だ。繋ぎとめて保険にするつもりもない。何せ自分の興味はいま、目の前の男性に惹きつけられてしまってやまないのだ。こんな興奮は初めてだ。

 グラスに残ったバーボンを飲み干してからゼクシオンは静かに席を立った。ゆっくりとカウンター席に歩み寄りながら相手の様子をうかがう。酔いが回っているのか、癖毛の彼はぼんやりとしているように見えた。手持ち無沙汰のようにグラスを静かに揺らして氷を溶かしている。雰囲気を楽しんでいる様子にも更なる好感を覚えた。すでに何件か飲み歩いてきたのだろう、仲間内で楽しんできた後、一人で楽しみにこの店に入ってきたのだろうなと見当をつけた。
 静かな高揚を胸に、彼の隣の椅子の背に手を掛けた。少し離れたところでグラスを磨いていたバーテンダーが気にした素振りを見せるが、ゼクシオンが意味ありげに微笑んでみせると黙って再び手元に目を落とした。彼は、ゼクシオンがときどきこうして誰かに声を掛けることがあるのを知っていた。よほどのことがない限りは放っておいてくれる柔軟性を持ち合わせている。
 肝心の癖毛の彼はまだ自分の世界に浸っているのか、ゼクシオンが近付いてきたのに気付いてもいない。そっと唇を舐めてから、ゼクシオンは椅子の背に置いた手に力こめた。

「お隣、空いてますか」

 一瞬の間があった。まさか自分に話しかけているとは思わなかったのだろう。空想の世界から引き戻された彼の、はっとしてこちらを振り返ったその表情は驚きを隠そうともしないものだった。見開かれた目が真っ直ぐに自分を見つめていることに、ぞくぞくと興奮が湧きたつ。
 正面から見る彼は切れ長の目が凛々しい印象を与えた。シャープな輪郭とすっと通った鼻筋は間違いなく整った顔立ちと言える。体格だけでなく、顔立ちも極めて好きなタイプだった。こみ上げる興奮を何とか抑えながら、ゼクシオンは隣の席座りたいと申し出た。相手は更に驚いている様子だったが、勢いに押されてか断ることもなく許してくれた。
 二、三言やり取りを交わしてから同じ銘柄の酒を注文すると、手元に置かれたグラスを握り彼のグラスにそっと当てて言う。

「楽しい夜にしましょうね」

 

 それが、マールーシャと会った最初の夜の出来事だ。