二夜 - 2/5

 住宅街を通り抜け連れてこられたアパートは一般的な単身者向けのワンルームだった。まだ築浅のようで、通された部屋は明るい色のフローリングが真新しい。ワンルームだが、すっきりと片付いていて物は少ないおかげで空間が広く感じられる。インテリアはいたってシンプルなもので、目につく家具はテーブルと、椅子と、背の低い本棚を境にして、奥にはベッド。装飾の少ないパイプベッドはもちろんシングルサイズだ。部屋の奥にあるベッドはできるだけ意識しないように気を付けていないと、先週の出来事が脳裏にちらつく。

「上着、預かりましょうか」

 普通に友人を家に招いたような調子でゼクシオンは手を差し出す。ご厚意に甘えてジャケットを脱いで渡すと、ゼクシオンはクローゼットを開けてそれを丁寧にハンガーにかけた。ふと、中にスーツが吊ってあるのが目に入る。

「会社勤めなのか」
「もちろん。まさか、学生に見えました?」
「さすがにそれは無理がある」
「よかったですね、犯罪者にならなくて」

 ゼクシオンは軽く笑うとハンガーをクローゼットの中にかけた。素性の知れなさと慣れた様子から、夜の仕事でもしているのかと思った、と喉元まで出かかったが飲み込むことにした。いまのところ、先週の出来事が嘘のようなごく普通の青年だ。
 クローゼットを閉じるとゼクシオンは、何か作りましょうか、とキッチンに向かいながら声をかけた。

「簡単なものなら作れますよ」

 食事のことかと思いきや、彼の目線の先には何本もの酒瓶が並んでいる。ちょっとした家飲みなら十分事足りそうな品揃えだ。

「いや、今日は飲むつもりは」
「せっかくですから付き合ってくださいよ。一杯くらい、あなたなら素面も同然でしょう?」

 マールーシャが唸るのも構わずに、ゼクシオンは冷蔵庫を開けて中を検分した。

「ビールはどうですか。トマトジュースで割って、弱めに作りますから」

 正直なところ、その提案はなかなかに魅力的なものだった。再び酒の席を一緒にできるだけでなく、彼が振る舞ってくれるなんて。一杯程度なら冷静に話をするのにさほど邪魔にはならないだろう、むしろ酒の勢いは必要かもしれない、などと都合のいい解釈を頭の中で並べ始める始末であった。
 マールーシャが頷くとゼクシオンは満足そうに缶ビールとトマトジュースを取りだす。並べて調理台の上に置くと、そのまま手際よく支度を進めていった。細長いグラスを棚から二つ取る。缶のプルタブを開ける音が小気味良く響き、グラスに注がれるビールはその音だけで食欲をそそられる。そこにトマトジュースを傾ければ黄金色のグラスはみるみる赤く染まり、軽くかき混ぜれば鮮やかなカクテルの完成だ。同じ調子で手早くもう一杯を作ると、出来上がったばかりの方をマールーシャに渡す。

「仕事の後はビールですよね」
「手慣れているんだな」
「まあ、好きなので」

 そういいながらゼクシオンはグラスから引き抜いた長いバースプーンをそのまま舌先へ運び、ぺろりと舐めた。赤い舌に目が行く。
 促されるままテーブルに着くと、向かいに座ったゼクシオンはぐっと目線が近くなった。こうして面と向かい合うのは初めてかもしれないとマールーシャは気が付く。バーでは隣に並んで座っていたし、その後のことは……。

「じゃあ、乾杯」

 ゼクシオンはそういってまたあの夜のようにグラスをあてた。遅れてマールーシャもグラスを手に取る。乾杯、と告げて赤い液体を喉に流し込むと、フルーティな飲み口なのに後味は切れが良く、仕事終わりの渇いた体に心地よく染み渡っていった。

「で、どうして今頃連絡くれたんですか」

 突然核心を突く質問にマールーシャは言葉を詰まらせる。聞かれることは覚悟していたが、面と向かって話すのはどこか気恥ずかしかった。正面からゼクシオンを見ることができず、テーブルに戻したグラスを睨みつけながらようやく口を開く。

「忘れられなかったんだ」

 降参するようにおずおずと述べるのを、ゼクシオンはグラスを傾けながら楽しそうに聞いている。

「どういう気持ちなのかは自分自身まだよくわからないが、とにかく会って話したいと思った」
「相変わらず真面目なんですね。会社のプレゼンみたいですよ」
「……君は、よくああいうことをするのか」
「まあそういうときもありますね。そんなに頻繁じゃないですけど」
「あまり感心しないな」

 無粋だと思いつつもマールーシャは正直に感想を述べた。年若い青年だ。しかも、容姿端麗。変な男に気に入られる可能性だってあるだろう。もっと自分を大事にすべきだと思った。

「寝た相手に言われましてもね」

 苦笑するゼクシオンの言葉はあまりにももっともでぐうの音も出ない。

「なんというか、その、特定の相手はいないのか」
「割り切った関係が楽なんですよ。一夜だけ良ければいいんです」
「そういうものだろうか」
「そういうものです」

 そういうとゼクシオンは立ち上がってキッチンの戸棚に向かった。タバスコ使いますか、との問いかけに黙って首を振る。
 最初に出会った時のことを思い出していた。あの日、あそこに自分が座っていなかったら、彼は別の誰かと夜を過ごしたのだろう。そもそも、誰かと待ち合わせをしたといっていなかっただろうか。はなからその気だったということだ。たまたま相手が待ち合わせ場所に現れなくて、自分がそこにいただけのこと。彼にとって一夜限りの相手など、誰でも良かったのだ。

 なんだかやるせなくなってきた。今日彼と直接話をしてよかったかもしれない。この一週間抱えていたもやもやとした行き所のない気持ちにようやく踏ん切りをつけることができそうだ。

 まさにそう思っていた矢先だった。ゼクシオンが爆弾発言を投下したのは。

 

「でも、二回目は好きになった人としかないですよ」

 その言葉にマールーシャは思わず顔を上げた。ゼクシオンも振り返ってふ、と微笑むと、後ろ手に戸棚を閉めながら言う。その目を、マールーシャは知っていた。

「こっちに来てくださいよ、マールーシャ」

 有無を言わさない、強烈に惹きつけて離さない瞳。いつのまにかゼクシオンの目はあの夜と同じ色を放っていた。鼓動が速くなる。
 踏ん切りとはいったい? 脳はもっともらしい言い訳を考えるのを早々に放棄して、マールーシャは言われるがまま席を立つと彼のもとへと歩み寄っていた。触れてしまいそうなくらい近くまで来る。見上げてくる目は静かなる熱情を孕んでいた。すうっとその目が閉じられ、マールーシャは吸い寄せられるように顔を寄せた。

 唇同士が触れた瞬間、ここまで二人を抑制していたものはふっつりと断ち切られた。
 ずっと、彼に触れたかった。やっと気付き認めたその思いがあふれ出して、噛みつくようなキスがお互いを煽る。欲のままにマールーシャが身体に力を込めると、ごつ、と鈍い音がしてゼクシオンは壁に追い詰められた。頭を打ったかと思わずマールーシャの意識が離れかけたのを、ゼクシオンは見逃さない。腕を伸ばしてマールーシャの後頭部を力強く引き寄せると、再び深い口付けを交わした。火照る身体を密着させ、足を絡ませ合い、境界線がわからなくなるくらい熱く抱き合った。

「僕も、貴方のことが忘れられなかった」

 吹き込むように囁かれてぞわっと全身が粟立った。思わず相手を抱く腕に力が加わる。
 キスの合間に、ゼクシオンの手は下へ下る。ごく自然にマールーシャの服に手をかけると、慣れた手つきでベルトの前を開け、スラックスを下ろした。固く主張するそれを指でなぞるとゼクシオンは少し体を離して見下ろし、うっとりとため息をつく。

「よかった、ちゃんと反応してくれて」

 本当だ、とマールーシャは内心では冷静に自分の身体の反応に驚いていた。あの一晩で自分の性的指向がすっかりつくりかえられてしまったかのようだ。同性相手に、と困惑していたはずの情欲は、今目の前の青年相手にこれでもかと自己を主張している。
 情熱的に口づけを交わしながらゼクシオンは徐々にマールーシャのシャツのボタンを外していった。慣れた手つきに少し困惑しつつも、積極的に求めてくる彼を受け止めたくてマールーシャも自らシャツを脱ぐ。ゼクシオンは満足そうに素肌に触れて再び囁いた。

「ベッド、行きましょうか」

 飲みかけのカクテルが残されたテーブルを尻目に、いざなわれるままベッドまで移動して二人で乗り上がる。成人男性二人の体重はシングルベッドを大いにうならせた。あまりに大きくしなるので、つい今後の展開を危惧する。

「壊れないかこれ」
「壊してもいいですよ」

 すでにゼクシオンの息は荒い。ベッドの心配をしていた頭はすぐにまた目の前の青年へと焦点を戻した。
 ゼクシオンはいったん身体を離すと、今度は自分で服を脱ぎ始める。シャツを投げ捨て、ジーンズを放り、下着だけになると、また身体を寄せた。彼の昂ぶりが自分自身に当たるのを感じて、どうしようもなくもどかしい気持ちがぐつぐつとせり上がる。このまま彼を、激情に任せてどうにかしてしまいたい。理性なんてなかったあの夜のように。

「まだ躊躇してます?」

 首に腕を回しながら、積極的に動けないでいるマールーシャの胸の内を見透かしたようにゼクシオンは囁いた。マールーシャの手を取ると、自分の素肌にあてがう。

「貴方が普段女性にするみたいにしてくださいよ」
「君を女性の代わりにするつもりはない」

 思わず強い口調で断言すると、ゼクシオンは一瞬驚いたように目を見開いた。

「男として抱いてくれるんです?」

 まだ僅かな躊躇いに言葉が詰まり明確に肯定はしなかったものの、ゼクシオンはふっと頬を緩ませて嬉しいな、とつぶやいた。

「電気はどうします」
「消す」

 ゼクシオンはリモコンを手に取るとぱちんと照明を落とす。すとんと降りてきた暗闇に、まだ僅かに胸に燻る背徳感を隠してしまいたかった。

「壊れたら、新しいベッド買いましょうか。貴方と並んで寝れるくらい大きなの」

 暗くなった部屋で耳元で囁かれるその言葉は、今までのどんな誘い文句よりもマールーシャを興奮させた。
 細い躯体に体重をかけるとゼクシオンは簡単にそれを受け入れて、二人はそのままベッドへと沈み込んだ。