ホシノアワ

 浅く呼吸をするたびに、しめった土の匂いがした。見上げると、漆黒の夜空を背に満開の桜が見事だ。音もなく咲き誇る桜にしばし目を奪われていると、いつの間にか吹き出ていた汗が顔を伝った。先ほどからずっと地面を掘り続けているせいで、体力は限界だった。それでも、まだ足りない。深く、もっと深く掘らなくてはならない。今にも降り注いできそうな満点の星夜、辺りに聞こえるのは荒い息遣いと、土を掘り返す単調な音だけだった。
 流れる汗を袖で乱雑に拭い、ゼクシオンは再び地面を掘り返す作業を再開した。ざくざく、ざくざくと、無心で掘り進める。永遠に終わらないのではないかと考えると眩暈を感じるが、それすらも忘れるように作業に没入する。

「こんなに時間をかけて、たったこれだけか」

 不意に降ってきた声に顔をあげると、マールーシャが遠くからこちらを眺めていた。こちらは慣れない肉体労働に四苦八苦しているというのに、桜の木の幹に寄りかかって優雅な素振りは普段の彼らしい。

「交代してくれませんか」

 はあ、と息をついてからゼクシオンはマールーシャを見上げた。
 穴を掘って深い場所に立っているので、(もともと図体のでかい相手であることを差し置いても)マールーシャの顔を見るためにはかなり上を向かなくてはならなかった。額からは汗がとめどなく流れ落ちる。手のひらも、重たいシャベルを握りっぱなしで痛みを感じ始めていた。
 夜空に映える桜を背に、しかしマールーシャは首を振る。

「お前がやり遂げなくてはならないから」

 ち、と舌打ちをしてゼクシオンは荒々しくシャベルを土に差し込んだ。
 こんなこと、好きでやっているわけではない。それでも反論する気にはなれず、ゼクシオンは再び黙々と土を掘り進めた。
 穴は順調に深くなっていた。自分の身体が埋まりそうなくらいの深さにはなっている。しんとした夜、暗くて狭い穴の中は意外にも居心地よく感じられた。生きとし生けるものが、最後に土に還っていく道理は何となくわかるような気がする。この静かな土の匂いや、湿っているのにどこかあたたかいような不思議な感覚はゆっくりと肌に馴染んでいく気がして、体中泥塗れにであるのに何故だか不快感はなかった。
 ふわりと視界に何かが舞う。桜の花弁だ。風が出てきたのかもしれない。

「ほう、よく掘り進めたな」

 どこかにいっていたのか、静かだったマールーシャが再びひょっこりと顔をのぞかせた。
 ふとゼクシオンは、もし今土をかぶせられたら助かる見込みはないなとぼんやり考えた。疲れ切っていて、ろくに抵抗もできないだろう。もしそんな事態になったとしても、不思議と素直に受け入れられる気がした。この半端者の身体が、闇に溶けていくことより、土に還ることが許されるのならば。
 しかしマールーシャはかがみ込むと、ゼクシオンが這い出てこれるように身を乗り出して手を差し伸べた。シャベルを先に外に出してから、手を借りて地上へ這い上がった。土に囲まれているのも悪くないなどと思っていたが、新鮮な空気が肺に送り込まれると、やはり地上の方が断然良かった。地は身体を埋めるものでなく足を付けるものだ。少なくとも、生きている間は。
 地に膝をついてゼクシオンが息を整えていると、マールーシャも目線を合わせて隣にかがみこんだ。

「男前だ」

 そう言って、土汚れのついたゼクシオンの頬を袖口で拭う。
 馴れ馴れしく触るなとゼクシオンが口を開きかけて、いつの間にかマールーシャが手に持ったものに気付いた。
 それは、小さな箱だった。木でできた簡素な箱であったが、その全体には厳重に鎖を巻かれ、錠がかけられている。

「……箱に入れてしまうと、なんだか小さく見えますね」
「お別れをしたらいい」

 そういってマールーシャは箱をゼクシオンに渡した。黙って箱を受け取る。小さな箱なのに、本来の重さよりも腕にずしりと重たく感じた。
 言葉は出てこなかった。ただ、小さな箱に腕を回して胸に抱いた。祈るでも呪うでもなく、ただ最後の短いときを過ごす。

 顔をあげると、マールーシャがもういいのか、と聞いた。ええ、と答えると、ゼクシオンは箱をもって穴の前に立ち、掘り終えたばかりの穴の中にそれをそっと落とした。
 土に埋もれる鈍い音を確認してから、再びシャベルを手に取り穴に土をかぶせていった。手袋の下で手が擦れて痛かったが、邪念を振り払うように、一心不乱に穴を埋めた。気持ちは、どこか清々しかった。
 マールーシャはやっぱり手伝わず、少し離れたところからゼクシオンが仕事を終えるまでずっと見ていた。

 掘り返した土をすべてかぶせ、辺りの地面と馴染ませ終えてから、ようやくゼクシオンはシャベルを放り出した。肉体的にも精神的にも、限界が近い。
 ふらふらとマールーシャの元まで歩いて行くと、足元のおぼつかないゼクシオンをマールーシャが抱き留めた。

「よくやったな」

 優しい声で、優しい腕の中にいたのはほんの一瞬。
 次にはもう、ゼクシオンは桜の木に押しつけられていた。ざらざらとした硬い木の皮が頬を掻いた。両腕を後ろにまとめて拘束されている。これに抵抗できる力など残っているはずがない。生き埋めにされたほうがまだましな気がした。

「忘れないでおこうな、此処に眠るもののことを」

 桜の記憶と共に。
 耳元で囁くその声の甘さに、腕を抑える力の強さに、身体が震える。その指がたどる先を、おかした罪を、知っている。
 一方的に翻弄されただ身を任せながら薄目を開けた。濁った眼には眩しいほどの星夜。何もかも、この美しさの中で溶けてしまえばいいのに。泡のように、空へと立ち消えていけばいいのに。

 横暴に身体を開かれながら、桜の下に眠るもののことを考えてゼクシオンは深く息を漏らした。

 

20210427