七つ下がりの雨と恋

 聞こえる水音が窓を叩く雨の音なのかシャワーの水音なのか曖昧だ。扉の向こうからかすかに聞こえる不規則に跳ねる水音に、自分の部屋にいながらマールーシャは落ち着かなかった。他人の気配があるからだろうか。それがまだ付き合って日の浅い恋人だからだろうか。初めて家にあげたからだろうか。悶々としながら意味もなく窓の外を眺めては、白い靄の中に答えを探している。夕刻になり急に降り出した雨は、未だ止む気配がない。

 

 見頃を迎えた紫陽花アジサイを見に近所の寺院にゼクシオンと二人で出掛けたその帰りだった。ぽつぽつと降り出した雨に、これもまた一興、などと笑っていられたのは最初だけ。雨脚は強くなる一方で、傘を持たない二人は申し訳程度に花をつけた枝の細い木の下に逃げ込んでこの後の身の振り方を考えなおさねばならなかった。
 近くで傘を買ってこようかという提案を何故だかゼクシオンはひたすらに渋った。ビニール傘は溜まりがちだとか、そもそも買いに行くまでにより濡れるだとか、屁理屈のような御託を並べながら、周りに誰もいないのをいいことに木の下でマールーシャの服の裾を握って離さなかった。甘い仕草の陰でほのかに香るのは、頭上の木蓮だっただろうか。
 それならば家も近いしもう帰路に着こうかという提案で、ようやくゼクシオンは首を縦に振ったのだった。

 家に着く頃には二人揃ってすっかり濡れねずみと化していた。血色をなくし寒さに震えるゼクシオンを風呂に押し込んだのがついさっき、着替えだけ済ませたマールーシャはそれからずっと落ち着きなく部屋で過ごしていた。
 部屋にあげたことについて、下心があるかないかといえばゼロではない。しかし夜はもともと家に泊めるつもりでいたし、もちろんそれはゼクシオンも了承の上での話だった。つまり、ほんの少し予定が前倒しになっただけ。
 なのにどうしてこんなに緊張しているのだろう。

 廊下の向こうから足音が近づいてきて、いつのまにかシャワーの水音が止んでいたことに気付く。振り返ったのと、扉からひょっこりとゼクシオンが顔をのぞかせたのと、ほとんど同時だった。

「お先に、すみません」

 持参していた乾いた服に袖を通したゼクシオンがためらいがちにそばに寄ってきた。冷たい雨に濡れてもとより白い顔がより青白くなっていたが、現れた顔が血色を取り戻しているのを見てマールーシャは安堵する。

「貴方もはやく温まった方がいいです」

 そういってゼクシオンの手のひらがマールーシャの腕に触れた。雨に濡れたのはどちらも同じ、服は着替えたものの肌の表面はまだ冷たかった。
 マールーシャの肌が冷え切っているのに気付いたゼクシオンは、そっと腕を取り頬を寄せた。手のひらに唇が触れる。青い瞳が見上げてきたのに射抜かれマールーシャは、その衝動のまま腕の中にゼクシオンを閉じ込めた。

「確かに、温かいな」
「……そういうつもりで言ったわけでは」

 腕の中で語尾はしりすぼみに消えていった。最初の一瞬だけ身を固くしたものの、ゼクシオンはすぐに順応してマールーシャの背中に手を回した。温めるように背中をさする。これでは温まったばかりのゼクシオンの体温を奪っているだけなのではないか。離れようとするが、それに気付いたゼクシオンが腕の力を強めた。
 お前の方が冷えてしまう、いいですから。そんなやり取りをして、ゼクシオンは腕の中で踵を浮かせた。吸い寄せられるようにその唇に触れる。温かい。しかし、相手は冷たかろう。悪いと思っても止められなかった。
 キスをしたのは、これが初めてではない。好きだと告げるより先に奪ってしまった最初の口付けは衝動的で強引なものであったけれど、それに乗じて気持ちを吐露したのは相手が先だった。そのときは互いの中に忘れがたい気持ちの高揚を残したが、今こうして静かな部屋の中で交わす二回目のキスはその時に劣らずに胸の内を燃やした。表面の冷えなど忘れてしまうほどに、その熱は体内を駆け巡って身も心も熱くさせる。

 片手でゼクシオンの身体を抱いたまま、空いた片手で窓のカーテンを引くと脇にあるベッドへそのままもつれ込んだ。
身に着けたばかりであろう服にそっと手を差し入れた。ゼクシオンは緊張こそしている様子ではあるが拒むそぶりはない。注意深く相手を見ながら、すべてをこの目に焼き付けたい、と心底願いながら、ひとつずつ身に着けていたものを取り払っていく。
露わになった白く滑らかな肌を見て思う。跡をつけたらきっと目立つだろう。映える赤を想像すると、思わず喉が鳴る。手が、先を急ぐのを抑えることができない。

 いやだ、と呟く声が聞こえてマールーシャはギクリと身を固めた。いつのまにか自分は間違えてしまったのだろうか。おそるおそる見やると、息の上がったゼクシオンはぎゅうと目を瞑り肩を震わせていた。沈黙が下りてくる中、部屋に聞こえるのは小さく早い息遣いと雨の音だけだ。
 探るように伸びてきた手がマールーシャのシャツの裾を握った。

「……僕だけこんな格好にして」

 目を伏せたままそう言うのを聞いて、マールーシャは彼の服を全て奪っておきながら自分はまだ何も脱いでいないことに気付いた。拒絶かと思ったその手は、たどたどしくボタンを捉える。つたなくボタンをはずそうとする手を取り握りしめてから、マールーシャの手がその先を引き継いだ。
 いくつかのボタンはつけたまま、剥ぐようにシャツを脱いだ。髪が乱れ顔にかかるが気にしていられない。脇に投げたそれを、ゼクシオンの熱を帯びた視線が追う。自分以外に彼の気を引くものが我慢ならず、シャツはなぎ払い、ゼクシオンの顎を捉えこちらを向かせた。濡れた瞳に映る影が揺れる。今このひと時だけでも、そこに映るものを他に許したくなかった。

 長いキスが途絶えると、ゼクシオンはじっとマールーシャを見返した。興奮を抑えた様子で、初めて目にするであろう肌の上を視線があちこちへ泳ぎ、そうして局部のあたりで止まった。

「…………これ、入るんですか」
「……どう思う?」

 ゼクシオンは唸った。無理もない、と密かにマールーシャは思う。
 ほんのすこしの怯えと好奇心の入り混じった目でゼクシオンはしばらく考えるように二人の間を見つめていたが、やがてうつむいたまま小さな声でぽつりと言った。

「…………くちになら、はいると思う」

 

 

 雨に濡れた木蓮の木を思い出していた。降り始めの湿った匂いに混じって甘い芳香を漂わせていた白木蓮ハクモクレンの木。天水を受け上を向いて開くその花弁を脳裏に思い描き、眼前の白い手と重ねる。
 言ったあと、そのまま屈んで逸物に触れるゼクシオンを止めることができなかった。白い手が伸びてきて包まれたかと思うと、ゼクシオンは躊躇うことなくその先端を口に含んだ。ぬるく濡れた感触に覆われてマールーシャは思わず声を漏らし、それに気をよくしたのか、ゼクシオンは更に含みを進めた。早くも降参したい気に駆られる。
 長く息を吐きながら見下ろすと、驚いたことにくわえているゼクシオンの方がよっぽど恍惚としていた。うっとりとした表情で、懸命に、白くて細い指を添えながら、丁寧に行っていた。
 ふと思う。こんな様子の彼をみたことがないし、こんなに丁寧に接されたこともない。確かにこの身に受けているはずなのに、なぜだか見当違いの嫉妬に駆られた。優しく髪を撫でていた手に力を込めると、ほんの少し抵抗を見せたが、おずおずと深めた。ごく、と喉が鳴るたびに温かい口内に締め付けられると、いよいよ腰のあたりが熱くなっていく。

「ゼクシオン、もういい」

 まだほんの少ししか愛撫されていないのに、もう我慢ならなかった。つたない所作のせいかとゼクシオンは不安そうに見上げてきたが、マールーシャが「いれたい」と言うと少し息を詰めて頷いた。
 かぱりと開いた口からまだずしりと重たいそれを引き抜いた。最後まで触れていた舌先から糸を引いて離れると、まだ躊躇している身体を開かせあてがう。あとに思えば、呆れるほどの余裕のなさだった。自分の手から逃れていってしまうことが怖くて、とにかく早く手に入れたいとばかり思っていた。
 傷付けないようにとそれだけは気を配りながら、押し当てた自身を少しずつ相手の中へ埋めていく。窮屈だ、と感じるのとゼクシオンがわかりやすく身を捩るのとが同時だった。痛いか?へいき。取り繕ってでもそう言って無言で先を促してくれたことに、内心安堵した。ここまできて止まれる余裕などもう露ほどもなかったのだ。身勝手な話である。優しくする、なんて軽々しく言わなくてよかった。

 ゼクシオンは苦しそうに息を詰めたりびくりと身体を跳ねさせたりしながら、それでも一度もマールーシャが進むのを止めなかった。浅く上がる呼吸をなだめるように導きながら、やがて行きつくところまで進んでようやくマールーシャはゼクシオンを見下ろした。目尻に涙を浮かべたゼクシオンと目が合ったその瞬間、自分の中での何かが限界点を超えた。急に熱くなった目頭からこぼれそうになるものを見られまいと身体を倒して覆いかぶさった。身体の交わりが深まりゼクシオンが呻いたが、加減が利かない。離すものか。

「動いたらどうですか」

 あまりに長い間そうしていたからか、ゼクシオンが下から声を掛けた。落ち着きを通り越して呆れたのだろうか。

「辛くないか」
「…………平気」

 たっぷり間をおいてゼクシオンは答えた。無理をさせているのだろう。申し訳なく思う気持ちはあれど、それに勝る多幸感に乗じてマールーシャはゼクシオンの下肢を抱えなおす。
 見えるもの、聞こえるもの、肌で触れて感じるもののすべてが自分に向いているのが分かるとマールーシャはようやく余裕を取り戻してきた。そうして全身で相手を感じながら、自身の内側をまた燃やした。
 なかなか思うような快感が得られないのはどちらも同じに違いなかったが、長い時間をかけながら、しかしそのあいだじゅう静かな昂りがずっと二人のなかにあるのを感じていた。激情を伴わない悦びはこれまでにないものだった。こんなにも歪で拙くて満たされた触れあいは初めてだ。喩えようのない充足感に、華奢な身体を掻き抱くことしかできない。

 ゼクシオンが長く息を吐いた。見下ろすとその目は目が窓に向いていた。
 窓の外は曖昧に白く、雨はまだ降り続けている。

 

20210627