狂い咲きマグノリア

 雨が窓をたたく音だけが部屋に響いている。照明も付けずにベッドに腰掛けて、ゼクシオンは白く煙る窓の外を眺めていた。
 背後に気配を感じる。待ち人がシャワーから戻ったのだろう。ベッドが軋む音の次に、うなじに熱く濡れた感触が押し当てられた。吸い付かれるような感覚が走りゼクシオンは反射的に肩をすくめる。相手の鼻先が探るように髪の毛をかき分けて耳にたどり着くと、くすぐるように息を吹き込んだ。腰のあたりが途端にぞくぞくと痺れ、ゼクシオンはため息をついて相手の名を呼んだ。マールーシャ、

「情緒とかないんですか」

 背後から回された腕はゼクシオンを捉え、指先はもう服の下に潜りこんでいる。ちょっと性急すぎやしないか。しかしそう指摘しようとした矢先に耳を嚙まれたので言葉は飲み込まれてしまった。分かりやすく身体が跳ね、咄嗟に自分を囲う腕にしがみついた。促したわけではないのに、相手はそれを都合よく解釈して手を進めていった。シャワーを浴びた後だからか、触れる手はもう熱い。

「雨が気になるか。明日まで止まないぞ」

 しきりに外を気にしているのに気付いてか、マールーシャはそう告げた。二人の住む地域も例年より遅くようやく梅雨入りしたのだ。
 雨が止むまで此処にいたらいい。そう言って手が進むのをさせるがままに、ゼクシオンは濡れる窓硝子のその先を眺め続ける。
 雨の日は少し感傷的になる。初めてこの部屋に来た時もまた雨が降っていたことを思い出すのだ。
 ひとり過去に思いを馳せていると、待ちかねたように後ろに引き倒された。真上から覗き込んできた逆さのマールーシャと目が合う。覗き込む青い目が、自分の目の奥の奥を、遠いところにある何かを探している。
 彼もまた、同じようにあの日を思い出しているのだろうか。

 

 こういう行為は、どうしようもない衝動と激情と快楽で形成されているのかと思っていた。初めてことを成し遂げたとき、それが想像していたよりもずっと静謐なものであったことに驚いたものだ。もちろん自分が初めてであったゆえ、相手の方があらゆる加減を尽くしてくれたのであろうことは予想できた。けれど。
 そういう風にできていない二つの身体を無理矢理繋げると、マールーシャは長い間自分を腕に囲ったままじっとしていた。我慢できないほどの痛みはないものの、経験したことのない圧迫感に自我を保つだけで精いっぱいだったが、それでも静かな時間だった。あまりにも長くそうしているから、自分から先を促したくらいだ。
 はじめは小さく、だんだん早く、動きに力が加わってくると、どちらからともなくばらばらに果てた。夢中になり切れず、違和感ばかりがあったけれど、一番最初なんてそんなものなんじゃないだろうか、とゼクシオンは自分の初体験に勝手に及第点を与えた。互いの呼吸が落ち着いてくると、聞こえるのはやっぱり雨の音だけだった。
 ちぐはぐだった交わりは、あれから何度もこの部屋に訪れて肌を重ねていくうちにやがて最初の想像に近いものへと変貌を遂げていた。触れられるところはどこも熱をもって神経をとがらせ、理性を溶かし、どうしようもないところへと落ちていく、二人で。
 それでもその淫靡さとは遠いところで最初にかわしたあの静謐な行為が紐づいていて、それは雨の日のたびにゼクシオンの中で呼び起こされるのだ。

 

 その日は付き合ってまだ間もなかった頃のデートで、道すがら雨に降られた。二人して傘もなく、濡れ始めた街並みを駆けて途中にある木の下に身を寄せ合った。
 徐々に強まる雨を見かねて、マールーシャは傘を買おうかと言いながら身を乗り出して遠くに目を凝らした。道の先に店を探しているようだ。枝から滴る雫が髪の毛を濡らすのでゼクシオンは慌てて腕を取り引き戻した。しかし、濡れてしまうというのは建前で――もうすでにびしょ濡れだ――本音としては、せっかく近くにいるのにどこにも行かないで欲しいというただの我儘だった。濡れていく服の裾を捕まえたまま木の下に留まることを、マールーシャは何も言わず許容してくれた。服も靴も濡れて不快なのに、不思議とこの場所にとどまっていたいなどと思っている自分がいた。
 ふと甘い香りに気付いて見上げると、白い花が枝の合間を彩っているのが目に留まった。枝に葉はなく、冷たい雨に濡れながら花開く姿に寒々しい印象を覚える。
 ゼクシオンが頭上に気を取られているのに気付いたマールーシャは、それが木蓮という花だと教えてくれた。名前くらいは聞いたことがある。くっきりと肉厚な花弁が曇天の中で浮き上がるようで目を引いた。

「この時期に咲いているのは珍しい。もっと早くに咲く花のはずなんだ」
「今年は春もずっと気温が低かったからでしょうか」
「そうかもしれない。狂い咲きだな」

 季節外れに咲く花に対してそういうのだ、とマールーシャは言う。
 枝にとまる白い鳥のようだと例えるマールーシャの言葉にゼクシオンは首をかしげた。

「僕には……手に見えます」
「手? 人の手?」

 ゼクシオンは花を眺めたままうなずいて、そっと自分の手を上にかざした。ふっくらとした花弁を滑る雨雫を見ていると、それはまるで濡れた人の手のように思えた。天水を求めて健気にしたたかに手を伸ばしている様はどこか官能的にも見える。なるほど、とマールーシャは感心したようにうなずいた。
 枝の薄い木の下は雨宿りになるはずもなく、花を伝いぽたぽたと雫が降り注いでくる。冷気が服の下に伝わりくしゃみをひとつすると、マールーシャがこちら振り返った。なんともスマートな身振りで自分の上着をゼクシオンの肩に掛けると、お礼も言わないうちにそっと身を屈めて言った。

「家に向かおうか。少し早い気がしないでもないが、しかたない」

 服も濡れてしまったし、と付け加えた。本当はこの後も街の方へ出る計画を立てていたのだが、確かにこうなってしまっては予定はキャンセルするほかなさそうだった。そしてそれは特段悪くない提案に思えたので、ゼクシオンはすぐにうなずいた。

「予定、狂っちゃいましたね」
「まあ、それもいいだろう」

 マールーシャは目を合わせずにそう言うと、雨の中に踏み出した。これから初めて彼の部屋にあがることに、もしかして彼も彼なりに意識しているのだろうか。
 静かな高揚を胸に、先を歩く背を追ってゼクシオンも木の下を抜け出た。冷たい雨も気にならない。肩にかかるジャケットを抱き寄せて、未知の先へと向かう。

 

20210627