お疲れのあなたへ side6

 自室で本を読んでいると、突然背後に空間の歪みを感じた。闇の回廊が開かれ、誰かがやってきたのだと振り返らずともわかる。そして、無言のまま後ろから抱きすくめてきた相手の正体も。

「こんばんは、マールーシャ」

 振り返らずにゼクシオンは突然の来訪者に声をかける。返事はない。やれやれとため息をつく。本当に誰も彼も、挨拶というものを学んでこなかったのだろうか?
 コートからは外の匂いがして、任務の帰りのその足で直接来たことがうかがい知れる。座ったままのゼクシオンの顎をぐいと後ろから掬い上げられる。さかさまの視界の中で来訪者と目が合った。はたして後ろに立っていたのはマールーシャだったが、目はいつものように自信に満ちた光はなく、珍しく疲れを映してどんよりと濁っていた。
 ゼクシオンが何か言おうと口を開けかけたが、声が出る前にマールーシャはその唇にかぶりついた。

「は……ん、……」

 文字通り噛みつくようなキスは荒々しく、歯列を割って入りこむと舌先は生き物のようにうねり、ぐちゅぐちゅと水音を響かせながらゼクシオンの口内を激しく貪った。まるで、精力でも吸い尽くさんとでもするかのような執拗なキスだ。混ざりあう唾液がつつと顎を伝い、糸を引いて床に落ちるが、拭う間も与えられない。

 そうしてしばらくの間好き勝手に堪能すると、気が済んだのかマールーシャはこてんと頭をゼクシオンの肩に落とした。

「……許可なく機関員の私室に回廊を使って入り込むことは禁忌ですよ」

 口元をぬぐいながらゼクシオンは咎める。

「罰なら甘んじて受けるさ」

 くぐもった声で短く答えるマールーシャの声には疲労の色がにじみ出ている。よく見るとコートはだいぶ汚れ、傷も目立つ。過酷な任務だったのだろうか。ため息をつくとゼクシオンは読みかけていた本をぱたんと閉じた。

「……随分とお疲れのようですね」
「有能だと任務量も多くてね」
「では有能な新人を労って、お背中でもお流ししましょうか」
「……え?」

 予想だにしない申し出に顔を上げるマールーシャ。

「埃っぽい恰好のままここに居られては困りますから」

 と語尾を濁すものの、身体を押し返すゼクシオンの手は優しい。
 抱擁から解放され、振り返ってマールーシャに向きなおる。じっとこちらを見つめる顔に手を伸ばし、頬についた切り傷から滲む血を袖で拭った。

「ああ、こんなに傷をつけて。せっかくの顔が台無しです」
「……ふん。傷なんか残らないさ」
「手当てはあとでしますから、先にお風呂にしましょうか」

 優しく頬を撫でる手を取り、手袋の上からそっと口付けてマールーシャはにんまりと笑った。もういつもの彼だった。

「なかなか骨の折れる任務だったが、来た甲斐があったな」

 ゼクシオンは立ち上がるとふ、と笑ってマールーシャのコートのファスナーに手をかけた。

 

20181011