風の駆ける先
突飛な質問を受けてゼクシオンは読んでいた本から顔を上げた。任務から戻ったらしくその足で私室に押し掛けてきたマールーシャは、包むようにして何かを両手の中に持っている。
ゼクシオンが本を閉じて身を乗り出すと、マールーシャは手を広げて大事に持っていたものを見せた。透明なガラスでできた、手のひらに収まるサイズの球体がそこにあった。よく見れば糸が通っており、マールーシャが指を通すと球体は宙吊りになった。揺れた拍子に、りん、と音がする。球体の中に仕込まれたものがガラスにあたったようだ。
風が吹くと音が鳴る。全くもってシンプルな作りなうえに、意味もそのままに風鈴と呼ばれるものだとマールーシャは話した。見えないものを愛でる文化なのだという。また見知らぬ世界で得た知識の受け売りだろう。
説明をしながら小さなガラス細工を目の高さに掲げたかと思うと、ゼクシオンの承諾も得ずにマールーシャはそれを窓辺に固定して吊るした。透明なガラスの中にある芯のような金属が揺れ、ガラスにあたるたびに音をたてる。
軽い音が部屋に響くたびにゼクシオンは顔をしかめた。爽やかな音色はこの部屋に、この世界に似つかわしくなくて、思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られる。風流を愛でる心など持ち合わせていないのだから当然だと思う。
「こんな世界に持ち込むべきものではなかったようですね」
ゼクシオンは冷たく言い放った。窓が嵌め殺しなのを差し引いたとしても、この世界に生きた風は吹きこまない。こんな暗い場所になんて似合わない代物を持ち込むのだろう。相手のセンスを疑う。
これを愛でる世界では、きっとガラス越しに美しい情景が見えるのだろう。ここでは窓の向こうに見えるのは常闇ばかりで、透明なガラスは闇に負けて溶けてしまいそうにすら思えた。
「なんでこんなものここに持ち込むんです」
すっかり窓辺に落ち着いてしまった風鈴を見てゼクシオンは呆れながら呟いた。以前からこの男は、外の世界から物珍しいものを見付けると持ち帰ってくることがあった。戦利品を見せつけることで自己顕示欲を満たすのだろうか……などと考えていた矢先、帰ってきた返答はそんな稚拙なものではなかった。
「貴方に見せたいのだ――世界を」
朗々と、マールーシャはそう言った。急に話が壮大になりゼクシオンは一瞬呆気にとられた。
「貴方はこんな暗い世界に籠りきりだろう」
ゼクシオンは黙ったままマールーシャの言葉をそっと胸の内に反芻する。世界。
「……此処にいても世界を知ることはできます」
脇に抱えた本をそっと撫でてゼクシオンは言う。
マールーシャの言わんとするところは理解できた。ゼクシオンが機関の中で負う任務は彼の言う通り、他の世界に出て回ることよりも閉じこもって研究に勤しむことの方が多い。しかしそれゆえ、多くの外に関する情報はゼクシオンら研究部門へ集約されるため、外の世界と完全に隔絶されているかといえばそんなこともないと考えていた。機関の所蔵する本ならすべて読んだ。世界など、実際に赴く以上に知っている。
「知れた世界だな」
ゼクシオンが言うところの意味を正しく汲んだのだろう、マールーシャが嗤う。小馬鹿にするようなマールーシャの態度にゼクシオンはきっと見上げるが――否、見上げようとしたのだが、思った以上に近くに相手がいて、そしてそれは何故だか同じ目の高さにいて、その事実に驚いているうちにそのまま相手の方から触れてきた。ほんの軽く触れるだけ、唇に体温を感じる。揺れた相手の髪の毛先が自分の頬にあたったことに気を取られているうちに、すぐにマールーシャは顔を引いた。
「隙が多いぞ」
そういうマールーシャは、仕掛けてきたくせにその無防備さに呆れ顔だ。遅れて、不意打ちを許してしまったことに気付いたゼクシオンは不機嫌さを隠そうともせず小さく舌打ちした。マールーシャはまた静かにそれを諫める。
「ずっと囚われているつもりか」
マールーシャは前を向いたまま静かに尋ねた。「この世界に」
「囚われてなんていません。僕が此処にいるのは、れっきとした僕の意志ですから」
力強く、毅然とゼクシオンはそう答えた。何もない窓の外を真っすぐに見つめる。キングダムハーツは遠くて、放つ光はまだ弱弱しい。
そうか、と短くマールーシャは言い、二人の間に沈黙が流れた。
やがてマールーシャはぽつりと言う。
「私も自分の意志を貫く所存だ」
曖昧でありながらも確固たる意志を持った彼の言葉は、妙にゼクシオンの胸に響いて聞こえた。
彼の意志とは何だろう。そっと隣を見やるも、マールーシャはそれきり黙ってしまったのでなんとなく聞きそびれてしまった。
まっすぐ前だけを見据えた凛とした横顔を見て思う。この男はきっと、とどまることなく何処までも突き進んでいくのだろう。識らぬ世界を駆ける風のように。
「……明日には取っ払いますからね」
そう言ってゼクシオンは窓辺の風鈴を視線で指した。風鈴はすっかり黙してしまい微動だにしない。
「おや、一晩も飾ってもらえるのか」
手に入れた甲斐があったなとマールーシャは明るく言った。予想に反して嬉しそうにしているのでまた舌打ちをしたくなったが、つい先ほど言われた小言を思い出してなんとかとどまる。
と同時に、なぜ彼の言いなりにならねばならぬのだ、と思えば、今度は気の抜けたようなため息が長く口から出ていた。
20210729
テーマ『風鈴すら声を潜めて』
配布元『icca』様