花火

お題054 たこ焼きを作ってみた
お題099 たこ焼きを作ってみた2
その続き

 

 花火は好きかとマールーシャが聞いた。浴衣を買いに出かけて電車に揺られる帰り道での会話だった。腕に抱えた浴衣の入った紙袋はずしりと重く、ゼクシオンは深い充足感に浸っていた。これを着て地元の夏祭りに行こうという話をした、その流れでの質問だった。
 地元で行われる夏祭りの夜、小規模に催される花火大会がある。大会と言えど所詮地域開催の祭りのおまけのようなもので、短い時間で大きな花火が数発打ちあがる程度だが、祭り同様地元民には人気を博している。

『見るのは好きですけど、どうにも人ごみが苦手で』

 ゼクシオンは顔を曇らせた。人ごみ嫌いは一貫している。当初は隣県の大きな七夕祭りに行こうかと話していたが、あまりの混雑予想に難色を示したので、妥協案として地元で行われる小さな夏祭りに行くことにしたくらいだ。

『うちのベランダから見える』

 なんてことないようにマールーシャは言う。ははあ、さすが高層階、贅沢ですね、などと笑っていると、来ないか、とマールーシャはゼクシオンを誘った。夏祭りだって人が多いだろうから、少し見て歩いたら家で何か飲みながら花火を見るのはどうだろう、と。

『え、ご自宅に?』

 急展開な提案にゼクシオンは聞き返した。いくら親切とはいえ、夏祭りに行く約束のみならず浴衣まで買ってくれて、果ては自宅にまで呼んでくれるほど彼はお人好しだっただろうか。
 恋人でもあるまいし、とゼクシオンは胸中で付け加える。自分がそう言った類いの感情を相手に対して持っていることは隠しきれない事実ではあるものの、どういう感情で彼の提案を受け止めていいのか、ゼクシオンにはわからない。
 様々な感情が浮かんでは消えていく一方で、マールーシャは楽し気に返事を待っている。その純朴な眼差しを見て、妙な下心を抱いているのは自分だけだと瞬時に理解したゼクシオンは、その文面通りの目的で彼の家に行くことを承諾した。親切心から言ってくれただけに決まってる。
 計画を練るマールーシャは楽しそうだったので、ゼクシオンも素直に約束の日に思いを馳せた。夜空に咲く花と、自分の隣にいる人のことを、瞼の裏に思い描く。

『楽しみです。夏祭りも、花火も』

 それは、間違いなく本心であったはずだった。

 

 慣れない下駄のからころなる音が、歩幅が違うせいでばらばらに響いた。周囲の人はほとんどが逆方向に向かって歩いて行く。間もなく始まる花火大会に向かうのだろう。群れからはぐれた金魚のように、二人は喧騒から逃れていく。
 鼻緒ですっかり擦れてしまった足が痛むのを庇うせいで少し歩くのが遅かったが、マールーシャはゼクシオンに合わせてゆっくり歩いてくれた。浴衣だし、おぶさるわけにもいかないなとマールーシャは悩ましげであったがゼクシオンはその提案は断固固辞した。タクシーを呼ぼうとするのも何とか止め、ゆっくり歩いてくれればいいと言いながら並んで歩いた。足は痛むが、夜風を頬に感じながら歩く時間は満ち足りていた。時々ちらと相手を見上げる。凛々しい横顔。彼はいま、何を思っているのだろう。
 すぐ隣にある彼の大きな手。ついさっきまでこの手の中に自分の手があったなんて。祭りの喧騒から離れた薄暗い茂みの中で、蛍の光と、指に絡む熱と、唇に触れた柔らかさ。何もかも夢だったような気さえする。

 

 蛍が離れていくと、暗がりの中で交わりが深まった。気付けば腕の中にいて、初めての出来事に相手に身を任せながら無我夢中で浴衣にしがみつくことしかできなかった。
 触れるだけのキスを何度か繰り返して離れると、気付けば強く握りしめてしまったせいで相手の浴衣がかなり乱れていた。わ、すみません、と慌てて手を離した。目が馴染んできたのか、暗がりの中で少し胸元が開いてしまったマールーシャはたまらなく色めいて見えた。ここが暗くてよかった、といいながらマールーシャは笑って簡単そうに浴衣を軽く整える。戻ろうか。そういうと、ゼクシオンに手を差し出した。そうあるべきであるかのようにゼクシオンも自然にその手を取り、寄り添うように、二人並んで来た道を戻っていく。
 温かな体温を手のひらに感じながら、本当はまだ帰りたくないと思っている本心をなんとかやり過ごす。この時間が終わらなければいいのにと思っている自分がいる。明るい場所になんてちっとも帰りたくなかった。触れる感覚を焼き付けたいと切望する。誰か、夢じゃなかったと言って欲しい。
 賑やかしい境内が見えてきたあたりで、「祭りは堪能したか」とマールーシャは聞いた。幻想的な空間から現実に引き戻される。屋台を回っていたのが、もうずっと前のことのように思えた。「はい。ありがとうございました。浴衣も、たこ焼きも」なにもかも、全部。
 そうか、というマールーシャも満足そうだった。

「このまま家に帰ろうか」

 そう言ったとき、つないだ手に力が込められた。彼がそうしたのか自分がそうしたのかわからない。寂光の余韻を繋ぎとめるように、互いの体温にそれを求めたのかもしれない。
 ゼクシオンは頷くと、歩道に出るまでのわずかな時間、相手の腕にそっと額を押しつけた。
 明るい境内に出る間際、絡めた指をほどいて、二人は現実の喧騒の中に戻ってきた。

 

「……どうかしたか」

 声を掛けられて、はっとしてゼクシオンは顔を上げた。いつのまにか自宅について、マールーシャが玄関のドアを開けながらこちらを振り返っていた。

「あ、いえ、すみません、」
「痛むのか」

 マールーシャは眉尻を下げてゼクシオンの足元を見つめた。首を横に振ったのは、強がりなどではない。満ち足りた記憶に浸っていたら痛みなんてさっぱり忘れていた。けれどマールーシャは、早く手当をしよう、とゼクシオンを家に入れた。
 マールーシャが塗り薬やら何やらを探している間、所在なさげにリビングにいた。なんとなく気持ちが落ち着かず、ゼクシオンは窓辺に寄る。花火が見えるというのはこの窓だろうか。そっとレースのカーテンを捲って目を凝らしてみた。視界は開けていて邪魔になるものもなく、暗い夜の空が広がっている。確かにこの景観ならば花火は期待してよさそうだ。そっと鍵を外して窓を開けると、涼しい夜風が部屋に通った。

「よく見えそうだろう」

 声を掛けるマールーシャは得意げだった。手には薬箱のようなものを持っている。ゼクシオンが窓を閉めようとすると、マールーシャはそのままでいいと止めた。花火が打ちあがる時間まで、もう間もなくだ。

「でも、こっちが先」

 そう言ってマールーシャが消毒剤を掲げたのでゼクシオンも大人しくソファに腰掛けた。
 改めて足を見下ろすと鼻緒の当たっていた部分は見るからに痛々しく赤く皮がめくれていた。消毒をしてから軟膏を塗り、絆創膏で覆う。その一連の流れをマールーシャがすぐ隣で終始見ていたせいで、なんだか気もそぞろになり、随分不格好な仕上がりになってしまった。

「無理をさせて悪かった。でも、どうしても見たかったんだ」

 隣に座っているマールーシャが足元を見つめたまま呟いた。落ち着いていた鼓動が再び高鳴りだした。

「絶対に似合うと思っていたが、思った通りだった。とても綺麗だった、ゼクシオン」

 うっとりとマールーシャはそう言うと、もうすっかり顔を上げられなくなっているゼクシオンの頬に触れて「こっちを向いて」と囁いた。おそるおそる顔を上げると真っ直ぐな眼差しに捉えられる。吸い込まれてしまいそうな深い青が近付くのを、自然に目を閉じて受け入れた。
 耳元で囁かれた告白の言葉を噛みしめ、ゼクシオンも頷く。自分も同じ気持ちだったからだ。

 分厚い身体にしがみついていると、窓の外から花火の音が聞こえ始めた。ぱらぱらと空が鳴るが、ソファからでは外の景色を見ることができない。

「見えるか?」

 彼の気が逸れたかとゼクシオンは不安げに見上げたが、マールーシャは窓に背を向けゼクシオンを見ていた。黙って首を振り、ゼクシオンもまたじっと相手を見上げた。楽しみにしていたはずの花火のことなどいまやこれっぽっちも頭になくて、目の前の相手のことしか考えられなかった。
 ふと、まだマールーシャが簪を挿したままにしているのに気が付いた。紅い玉が揺れるのに腕を伸ばし、複雑に巻き付けられた簪をそっと抜き取る。柔らかい髪が解かれ肩からしだれかかり、甘い花の香りが広がった。その濃密さにくらくらして、夢中で相手を引き寄せる。

 綺麗だ、と呟く。夜を背に花を纏う彼こそが、誰よりも美しいと思う。

 

20211111