瞼の裏の幸福
「調査ルートから大いに外れてしまいましたね」
「構わんだろう、あまり有用な世界とも思えない」
マールーシャは調査任務を切り上げたいのだろう、早々と結論付けた。与えられた責務に対する怠慢な態度にゼクシオンは眉をひそめる。とはいえゼクシオン自身考える結論は同じだ。木々に阻まれ空間は少なく、足場も悪い中でハートレスの数もそれなりに多い。使い勝手は悪そうだ。頭の中で、提出する報告書の文章を練り始めている。
「意外と早く済んだな。それでは帰還しようか」
「何言ってるんですか、まだ来たばかりですよ」
帰る気満々でフードを手繰り寄せて帰り道を用意しようとしているマールーシャに食って掛かる。結論は動かないとて、せっかく足を踏み入れたのだから新しい世界についてもう少し情報収集しておきたい。
「もう少し進みましょう。ほら奥の方、少し開けているみたいです」
「勤勉すぎるのも考え物だな」
やれやれと頭を振ってマールーシャは近くにあった岩に寄りかかった。
「群れで行動するタイプのハートレスが多い。足場も悪いし想定以上の消耗、これ以上の連戦は避けたいところだ。今日はただの調査任務のはずでは?」
「調査任務で戦闘を要する時のために貴方がいるんですよ。そういうわけですから、励んでくださいね」
そう言ってゼクシオンはうんざりとした様子で嘆息するマールーシャを横目に足を進めようとする。
「なんですか、ポーションが足りないなら分けて差し上げますけど」
「……わざわざアイテムを消費する必要はない。回復魔法が使えるだろう」
そう言うとマールーシャは企み顔でゼクシオンの腕を捕まえた。そうして近くまで引き寄せてから、じっと目を見つめる。
「マールーシャ、貴方……」
ゼクシオンははっとして目を見開いた。悪戯っぽい目をしたマールーシャはそのまま顔を近付け――
「……貴方、早くそこからどいた方がいいです」
「ん?」
触れる寸前でマールーシャが静止したのでゼクシオンは彼のコートを引いて寄りかかっていた石から数歩離れた。
腰高ほどもあるその岩は寄りかかるには丁度いいサイズに思えた。蔦木に覆われ苔も蔓延ったそれはほとんど自然の岩かと思われたが、そこにあったのは……
「……墓石か」
マールーシャが呟くのに、ゼクシオンも黙って頷く。雨風に晒され続けたせいか、もはや刻まれた名前も読めない。もう長い間誰も訪れなかったのであろうことはその様子から明白であったが、上部に十字を彫られたそれは確かに人の墓だ。
「これは悪いことをしたな」
非礼を詫びたい、と言いマールーシャはその小さな墓の前にひざまずいた。手の内に白い花が現れたかと思うと、静かにそれを墓前に供える。手を合わせる真似まではしなかったものの、流れるように自然で静かな所作にゼクシオンは黙ったまましばし見入った。
墓石を見つめたままマールーシャはぽつりと言う。
「森の奥にどうしてこんなものがあるのだろう」
「……身寄りのない者や、訳あって家族の墓に入れない者を弔うための人里から離れた墓地が森の奥にあると本で読んだことがあります」
「墓地と言うことは」
ゼクシオンの言葉にマールーシャは顔を上げた。よく見れば、辺り一帯に似たような墓石がところどころ立ち並んでいた。不揃いなそれらは、森の奥にまで続いているようだ。道のない墓の連なる先、鬱蒼とした木々の陰になにやら屋根のようなものが見える。
ゼクシオンが奥に向かって歩き出すのに、今度はマールーシャも異論を唱えなかった。
✠
墓石の並びは奥に向かうにつれて進みやすくなった。不揃いの墓石もよく見れば柵のようなもので囲われており、朽ちかけていながらも人の手が加えられていた場所であることが一目瞭然だ。
道をたどっていくと、やがてそこに現れたのは三角屋根の小さな家屋。
「相当長い間、誰も訪れていないのだろうな」
入り口の脇ですっかり錆の色をしているランプを覗き込んでマールーシャは言った。彼の言う通り、見るからに荒れ果てていて人の出入りを感じさせなかった。窓硝子はすべて割れていたし、何処からともなく伸びている蔦に半分ほど覆われている。木の扉は朽ち果てて半分ほどなくなっており扉の役割はもはや果たしていない。ゼクシオンは興味のまま足を進めていく。朽ちた扉は外れかかっていたが、静かに押すとまだ機能していた蝶番がぎいと音を立てて道を開いた。
中に足を踏み入れた途端、正面奥の壁に大きく掲げられた十字架が目に飛び込んできた。ここはどうやら教会らしい。道中並んだ墓の存在が腑に落ちた。しかし廃教会と言う方が正しいだろう。形のあるものはすべて持ち去られたのだろうか、見渡せば中はすっかり空である。もう壊れて使い物にならない椅子がいくつか隅の方に置き去りになっているばかりで、礼拝席も祭壇もそこには無い。装飾の類いも少なく朽ちた山小屋とも見まがうほどの質素な屋内だったが、丸窓のステンドグラスが荒廃したこの教会の中で唯一の彩りだった。
ゼクシオンは粉々に割れた硝子の散らばる絨毯の上を歩いて奥まで進み、木でできた十字架を黙って見つめた。マールーシャも物言わぬまま隣に立っている。そっと隣を盗み見ると、意外にも真剣に十字を見つめている。その表情にゼクシオンはひそかに息を飲んだ。
「……何か懺悔することがあるなら聞いてあげますよ」
ゼクシオンは独り言のように呟いた。こちらを振り向いたマールーシャは、もういつもの華やかな雰囲気を取り戻している。
「私が罪人に見えるか?」
「何か言いたそうじゃないですか」
「救済を神に求めるつもりはない」
マールーシャはそっけなく答えたが、それに関してはゼクシオンも同感だった。いるかいないかも知れぬ不確かなものに縋るような人々の思惑など、たとえ心があったとしても理解できる気はしなかった。
「懺悔の代わりと言ってはなんだが、せっかくこんな場所だ」
そう言うとマールーシャは再び貼り付けたような笑顔でゼクシオンの方に向き直り覗き込む。
「愛を誓うのにはうってつけだろう」
粋狂な物言いに何を言い出すのかと思えば、マールーシャが壁の十字架に目をやるのを見て、それが婚儀の真似事なのだと理解する。
甘い香りが鼻先を掠めた。見れば、いつの間にやらマールーシャの手の中に白い花が咲きこぼれている。先ほどの墓前での彼の所作が脳裏に甦る。身に宿す属性故か、花に関してはやはりある程度自在らしい。
またくだらないことを、という言葉が喉元まで出かかったものの、ゼクシオンはマールーシャの腕の中から花を一本抜き取った。おや、とマールーシャは頬を緩ませる。
「乗り気だなんて珍しい」
「言い出したのはそっちでしょう」
そう言いながらゼクシオンは手にした花を検分するように見つめた。瑞々しい花弁、金色の粒子を纏う蕊に至るまで、まるで今まさに摘みとったばかりかのように見える。限りなく本物に近い、けれど、そんなはず有り得ない。紛い物から本物が生まれるはずがないのだ。
花に気を取られていると、不意に視界が翳った。前髪をかき分けて、マールーシャの唇が瞼の上に柔らかく触れる。ゆっくりと押し当てられる体温は心地よく、されるがままにゼクシオンは目を伏せた。外の日の光が割れたステンドグラスにあたって腐りかけた床材に歪な影を落としているのが見える。
「……随分一方的な『誓い』ですね」
マールーシャが離れていったあとの前髪を撫でつけながらゼクシオンは言う。
「所詮真似事だ。教会など滅多に訪れる機会はないからな。殊更、二人きりでなど」
情緒的な切り出しから一転して淡泊にマールーシャは笑った。
「僕からは差し上げられるものがありません」
「構わない。この花も所詮、紛い物だ」
マールーシャは花に目を落とした。ゼクシオンも手の中の花を見つめる。瑞々しく甘く香る花はまるで美しい、けれど。
「ノーバディに“生”は生み出せない」
決然とした言葉に突き動かされるように、ゼクシオンは背伸びをすると躊躇いなくマールーシャの唇を奪った。息を飲む気配に構わずに強くコートの裾を引き寄せ、己を押しつける。じわりと身体の温まる感覚がふたりを包む。手の中にあった花が、輪郭を失って崩れていく。
「一方的なのはそっちでは?」
「回復魔法、必要だったんでしょう」
「……やってくれる」
狭間の身は人のそれと比べたら、人々の愚かしい信仰と同じくらい不確かなものかもしれない。けれど、今ここに確固たる意志をもって存在していることには違いない。神にも誓わず、花はこの手に残らなくとも、己に誓いをたてそれを聞き入れるものがあればそれで十分だろう。
荒廃した、がらんどうの教会。こんな二人には確かにお誂え向きだ。
マールーシャは珍しく動揺している様子で、ぐしゃりと掻き上げた髪の毛の間から見える耳の先はいつもより色付いているかのようにみえる。こっちを見るなと不機嫌に言い捨てるその横顔も、少なくともそれまでの貼り付けたような笑みなどに比べたらよっぽどいい。
未だ上昇した体温が戻らないのは、力の放出によるものだろうか、それとも。
20220606
タイトル配布元『睫毛』様