忘れていたもの

 存在しなかった城にて。

「あ、ゼクシオン」
 珍しい声に呼ばれたと思いゼクシオンが振り向くと、ロクサスがそこに立っていた。少し後ろにシオンがいて、ふたりとも手に見慣れた青いアイスを持っていた。ロクサスに至っては二本も持っている。
 声を掛けたロクサスが問う。

「アクセルを見なかったか?」
「……今日はまだ見ていませんけれど。まだ任務から戻っていないのでは?」
「そんなあ、今日は俺の番だったからもう買ってきちゃったのに」

 ロクサスは困ったように両手に持ったアイスに目をやった。

「あのね、任務の後に三人でアイスを食べてるの。時計塔のところで待ち合わせをして、みんなで交代でアイスを買うんだよ」

 状況を飲み込めずにいるゼクシオンに説明するようにシオンが前に出て話しだした。なるほど、それで二人で三本のアイスなのだ。ゼクシオンの視線がアイスに注がれているのに気付くと、咎められるとでも思ったのかシオンは慌てて「内緒にしてね、ほら、その……」と小声で付け加える。機関の副官殿の耳に入ることを避けたいに違いない。ほどほどになさいよ、なんてため息交じりに呟くとシオンの表情も安堵に緩んだ。

 律儀に三人揃うまで口を付けないつもりらしく、困惑の様子で二人は顔を見合わせる。
「どうしよう、アイス溶けちゃうね」
「アクセルの部屋に行ってみよう。もしかしたら疲れて先に部屋に戻ったのかも」

 そう言ってロクサスは二本のアイスを片手でまとめたかと思うと、空いた手をシオンの方に差し出した。何かと思えば、シオンはごく当たり前のようにその手を取るのだ。

「じゃあね、ゼクシオン」
「え、ええ」

 意外な成り行きに驚きを隠せないでいるゼクシオンに構わず、二人はそのまま私室の方へと向かって言った。手を取り合って長い廊下を進んでいく小さな二人の背が見えなくなるまで眺めている折、ふと思い出す。ほんの少し呆れたような、けれど穏やかな眼差しと、『ほどほどになさい』とたしなめるその言葉は、かつて自分にばかり向けられていたものだったことを。

 

 最後に人の手に触れたのはいつのことだっただろうか。

 思い起こすのは幼き自分と親代わりの他人。身寄りのない自分を引き取って我が子同然に接し育ててくれた大人たち。誰かしらが幼き自分の手を引いて前を歩いてくれていたように思う。とりわけ、皆に師と慕われていた老人は自分と過ごす時間を多く割いてくれていた。
 自分にアイスを与えてくれていたのは彼だった。冷たいものばかり食べていると眉間に皺を寄せる大人たちも、彼が一緒になってアイスを手にしていると不思議と小言を飲み込んでいたものだ(眉間の皺は一層濃くなった)。これ幸いとばかりに彼の陰で甘味にあやかっていたけれど、ひょっとしたら自分よりも彼自身の方がよっぽどアイスを好んでいたのかもしれない。

 背筋のしっかりと伸びた姿は実年齢ほど老いを感じさせなかったが、歩幅の小さな幼少期の自分には彼の歩む速度は並んで歩くのにちょうどよかった。二人揃って片手にアイスを持ち、空いた手を繋ぎ合わせてどこまでもゆっくりと歩んでいった、そんな情景。

 あの時手にしたアイスの冷たさは覚えているのに、触れていた手の温度をゼクシオンは思い出すことができない。

 

 穏やかな情景はいつもそこで途絶える。視界が、思考が、闇に侵食されていく。空虚な身体になってからいつも見る夢だ。裏切るように繋いだ手を離したのは自分の方だった。大切な時間だったはずなのに、今はその時の感情の行方もわからない。寒くて暗い闇の中で身を縮めていることしかできない。一度人を裏切ると、信じることができるのはもう自分だけなのだ。

『――可哀想に。こんなにうなされて』

 夢の中で誰かの声がする。やめてくれ、同情なんてまっぴらだ。
 肩肘を張っていると、不意に何かが髪に触れた。ぎくりと身を固めるも、そのまま頭を撫でられる感触に急に懐かしさを覚える。こんな風に誰かが触れるのを許したのはいつぶりだろう。なだめるようにゆっくりとさすられていくうちに強張っていた肩の力が抜けていく。ああ、いい夢。こんな感じだったかもしれない、あの時のぬくもり。
 伸ばした手の先に得られた熱に胸が締め付けられるようで、ゼクシオンは手を強く握った。

 

(……熱い?)

 自分の体温以上の熱がそばにあることに気付いてゼクシオンは目を覚ました。身体が軋むのは、椅子の上で変な格好のまま転寝うたたねをしてしまったせいだろう。ぼんやりとした視点はまず作業途中にしていた資料の山を認め、そうして机の向かいに座っている黒いコートの男の姿を認めた。目の覚めるような鮮やかな桃色の頭髪に文字通りゼクシオンの頭は瞬時に覚醒する。

「……入室を許可した覚えはありませんよ、マールーシャ」

 不機嫌を隠そうともしないでゼクシオンは言うが、マールーシャも動じずににこにことこちらを見つめている。
 どうにも最近この新入りの機関員には手を焼いている。共同で任務に出たことなど数える程度、気が合うわけでもないというのに、ことあるごとに声を掛けてきてはこうやって張り付けたような笑みで接するのだ。穏やかに見せかけた表情の裏でこちらの様子をじっと伺っているようにも思える。何を考えているかわからぬこの男にこそ決して気を許してはならないと固く決めていた……ものの、最近ではその執拗さに根負けしてよほど邪魔にならない限りは放っておいている。

「誰も入らない書庫の入室に許可がいるのか?」
「放っておいてください、今は貴方と話す気分じゃありません」それはいつもなのだけれど。
「そうは言われてもな」

 微笑むマールーシャは、何やらいつもと違い機嫌がよさそうだった。ノーバディらしくもないその表情にゼクシオンは少し気を取られるが。

「こうも熱烈ではかなわない」

 そう言って手を握り返されたその時になってゼクシオンは気付いた。それまで相手の手をひしと掴んで離さないでいたのは自分の方だったのだ。慌てて手を解こうにも、もうしっかりと握られた手は彼の手の中で身動きができない。

「いつもつれないのに貴方からこうしてくれるとは嬉しいものだ。やっと少しは話を聞いてくれる気になったか」
「何をわけのわからないことを! 離しなさい!」
「部屋で休め」

 急にマールーシャが真剣な声色で断言したのでゼクシオンは少し怯んだ。

「こんなところで舟を漕いでいたんじゃ休まるものも休まるまい。眠るのが怖いか」
「そんなんじゃありません」

 そう言いつつも、脳裏には悪夢の断片がちらつくのは否めなかった。服の下には汗の感触がまだ残っている。
 語尾が乱れたのを敏く気付いたのだろう。マールーシャはそうだ、と明るい声を出した。

「眠るまで傍にいよう。悪夢にうなされていたらまた・・助けることができる。我ながら名案だな。貴方には休息が必要だ。ついでに私も」
「はあ? 冗談でしょう、貴方に助けられた覚えなんか……あっ」

 ゼクシオンが言い切る前にマールーシャが席を立った。と同時に闇の回廊を開く。手を繋いだままのゼクシオンは引きずられるようにして立ち上がり、マールーシャに連れられて声も出さぬうちに暗い闇の道に吸い込まれていった。

 

20220811

*まだできてない11→6
お題「悪夢に魘される6が手を伸ばした先に11」