それは花の香りに似ている
いつもなら連絡をしてからさして間を空けずに何かしらのレスポンスがあるものの、この日は昼休みに帰りが遅くなる旨こちらから連絡をしたきり、ようやく仕事を終え帰宅する時間になってもさっぱり音沙汰ない。体調を窺う旨追って連絡を入れてみたが、やはり返事は来なかった。何度も確認しては通知の表示されないスマートフォンを置いて、マールーシャはそっとため息をつく。
カレンダーで周期を計算するに、そろそろ頃合いかと思っていた矢先だった。前回体調を崩したときも同じような状態だった。家でぐったりしていることだろうと踏み、栄養のある食事を与えるべくマールーシャは急いで帰路についた。
電気の一つもついていない部屋へ帰宅すると、果たして同居人は寝室でぐったりと身を横たえていた。
「おい起きろ、ゼクシオン」
マールーシャは声を掛けながら寝ている同居人、ゼクシオンの肩を揺すった。見るからに消耗している相手への適切な対応ではないことは承知だけれど、このまま放っておくのは得策ではないこともまたわかっている。
揺り起こされたゼクシオンは呻きながら視線を彷徨わせてやがてマールーシャの姿を認めた。顔色は悪く血の気が失せているのを見てマールーシャは眉根を寄せる。
「どうして毎度、こんなになるまで我慢するんだ」
たしなめるように問いただせど返事はない。これもいつものことである。彼が自分から欲求を露わにするのを極度に苦手としていることも、同居生活を続けるうちにわかったことだ。
とにかく、早く手を打たねばならない。
キッチンから持ち出した果物ナイフを手に取る。しかし果物の類いはここにはない。切られるのは果物ではないからである。
慣れた手つきでマールーシャは刃先を自分の左手の親指の腹にあてると、ためらうことなくすっと横に引いた。ナイフはこのためにきちんと手入れして切れ味を保っているためそこまで痛みを伴わない。
見る間に溢れ出てくる血液の匂いを感じ取ったのであろう、ゼクシオンはぴくんと反応を示して顔をこちらに向けた。栄養を欲している身体と、けれどそれを拒む彼の精神の葛藤が苦悶の表情に表れている。
寝ている彼を抱き起して、マールーシャは血の滲む指先をゼクシオンの口元へと当てがった。
「さあ」
『食事』を前にして尚ゼクシオンは抵抗を見せたが、「少しずつでいいから」とマールーシャがあやすように囁くとようやく薄く口を開けた。一瞬、唇の間から鋭い歯が覗いたけれど、マールーシャは構わずに口内に指を押し入れた。ぬるりと熱い舌先が指に触れ、傷に這う。流れ落ちていく血を零すまいと舌先が蠢き、やがて流れる量に物足りなくなったゼクシオンは指を吸い始めた。触れる感触はこそばゆく、微かな水音と懸命に糧を求める姿にマールーシャは妙な気を起こしかけるのを何とか自制する。
「……足りないならもっと飲んでいいんだぞ」
そう言うとマールーシャは着ていたシャツのボタンをいくつか外して首元を露わにした。指から口を離したゼクシオンがマールーシャに目を向けた。その目がつい先ほどまで病床に伏していた弱弱しい眼差しから一転し、狂気的に赤く光り鋭く首元を捉えるのでマールーシャは思わず身構えた。――『食事』のときにこうして豹変する彼の様子にはまだ少し慣れない。
けれど、ゼクシオンは歯を剥かなかった。ふいと顔を背けると、小さな声で「もう十分です」と呟いた。
「どうだかな」
小食すぎるゼクシオンの様子に呆れながらマールーシャは自分の指の傷を確認する。もう血はすっかり止まっていて痛みもない。痕にも残らないだろう。現に、先週与えた『食事』の痕跡もすっかり消えている。
「血が嫌いな吸血鬼なんて初めて聞いた」
「……ほかに知り合いの吸血鬼でもいるんですか?」
「いやそういうわけでは……よくある本の知識としてだな」
言い訳のように取り繕うのをゼクシオンは不機嫌そうに聞いていた。
そう彼は、吸血鬼。
吸血鬼のくせに人の血を啜ることを嫌がる節がある彼は、極度に血を飲まずにいたため栄養失調で行き倒れていたところを、色々あってマールーシャに保護された。
『……不思議』
初めて見る真っ赤な瞳に気圧されながらも、ゼクシオンに初めて血を分けたときの彼の言葉がマールーシャの中で忘れられないでいる。
『貴方の血、不味くなかった』
それが、二人の奇妙な関係の発端だ。
「さて」
両手で頬を包み半ば無理矢理顔をこちらに向かせると、まだどこか不健康的ではあるものの最初に比べていくらか血色は戻っているようだった。そもそもが青白い肌をしているのでこれ以上は仕方がない。
「食事の後はなんて言うんだ? 教えただろう」
顔を捉えたままマールーシャはゼクシオンの白い顔を覗き込む。吸血行為中に赤く光る目は、今は落ち着いた元の青色を取り戻している。
煮え切らなそうな複雑な表情をしていたが、やがてゼクシオンは消え入りそうな声で言うのだった。
「……ご馳走様でした」
20220813
お題「6が吸血鬼(潔癖)の吸血鬼パロ」