蝶よ花よ

 

※『夢見鳥の鼓動』その後

 

 黒い服を脱いだ彼の身体は驚くほど白かった。雪のよう、と詩的に例えるよりかは蠟のようといった方が適切に思えた。いかにも日の当たらないところで細々と育ちましたといった青白さだったからだ。
 それでも、まるで一切の穢れを知らぬかのような真白い肌を初めて目の当たりにした時、マールーシャは一目でその純朴さを愛した。彼が纏う黒い衣を自ら脱ぎ去った時、自分だけが触れることができ、また穢すことを許されたのだと思った。
 痕を残したい、と衝動的に思う。白い肌の上に咲く赤はさぞ美しかろう。それを自分の手で刻みたい、とも。それが原初の欲求だ。

 許可も得ず残した小さな赤い痣が、初めて彼、ゼクシオンに与えた痕跡だった。頭を垂れ髪の毛を掻き上げねば決して人目には触れない。目立たずも首の後ろに小さく主張するその赤を宿した彼を見て、沸き起こる高揚に震えた。上気して汗ばんだ肌からゆっくりと熱が引いても、その赤色だけはいつまでも残って肌の上によく映えていた。物堅い彼が人知れず不埒な印を身体に刻み込んでいるのは、どこか背徳的でそそられた。
 触れ合う夜に、以前残したはずの痕がなくなっている、もしくは消えかかっているのを見ると、マールーシャは何度でも同じように痕跡を重ねた。ゼクシオンが文句のひとつも言わずに受け入れているのも気分がいい。彼とていい顔はしなかったけれど、服に隠れる部分であれば強く咎められることもなかった。どうやら彼自身ある種の快楽を見出しているようだ。身体の自由を奪うと目に見えて感じ方が変わることに気付くと、もう最初のころには戻れなくなっていった。小さな鬱血の跡はやがて歯形を伴い、四肢には拘束の跡が残る。次第に行為はエスカレートしていくけれど、それすらもいずれは薄まり元の白い肌に戻ってしまう。唯一その点だけ、マールーシャは満足に至らなかった。

 

 

「まだ飽きてないんですか、それ」

 マールーシャの部屋を訪れるたびゼクシオンは、あの日と同じ道具がベッドの傍に用意されているのを見て呆れて言う。

「あの日、貴方のことを謙虚だと言いましたけど」
「そうだっただろうか」
「撤回します。とんだ強欲だ」

 ゼクシオンは冷ややかに言った。マールーシャは微笑んでいる。そうとも、自分は強欲だ。欲しいものは必ず手に入れる。自分だけの印を刻み込んで他の誰にもつけ入る隙のないようにしておかなくては気が済まない。
 そんなマールーシャの腹の底を知ってか知らぬか、ゼクシオンは長く息をついてから尋ねる。

「――で、今日はどこに彫るんです?」

 

 

 消えないタトゥーをその身体に施すことを思いついたのは、飽きもせず身体を交えた後、与えた傷を眺めているときだった。ゼクシオンはその突飛な提案を訝しげに聞いていたけれど、予想通り拒むことはなかった。素直に求められることに彼は弱いのを知っている。
 初めて施した作品は小さいながらもよくできたと思う。目立たぬ足の付け根で静かに羽を広げる黒い蝶は、人知れず妖艶な雰囲気を醸す彼に似合うと思った。見えぬところに在るのが勿体ないくらいだけれど、秘めているのもやはりよかった。

 一つ与えれば満足できるなどと、及ぶ前に思っていただろうか。利己的な支配欲は募る一方で、消えない墨の色は日ごとに彼の身体を侵食していく。
 いったいどこまでゆけば気が済むのだろう。名前の付けようのない彼への感情は留まるところを知らない。

 

 ベッドに伏したゼクシオンの背中を見下ろす。彫りつけたばかりの部分は赤く隆起し見るも痛々しく、触れずとも確かな熱を放っている。対してマールーシャの指先は冷えていた。ゼクシオンが痛がり身を捩るのも構わず、できたばかりの刻印を撫でた。汗ばんだ肌と腫れた痕がざらりと手のひらを舐める。じんと伝わる熱に感じ入っていると、

「まさか、毒なんて盛っていないでしょうね」

 ゼクシオンは咎めるように呟いたが、その声は弱々しかった。ぐったりとして、針を刺した部位に留まらず全身から発熱している。身体に入れる墨の量が増えていくにつれ、身体はまるでそれを拒絶しているようだった。無駄な抵抗を、とマールーシャは思う。脳を灼くような熱も、肌を伝う汗も、この黒を消すことなどできないのに。

 マールーシャは黙ったまま白い背中に黒く伸びる荊棘いばらを眺めていたが、やがてその背に覆い被さったかと思うと、脚を開かせその間に身体を捻じ込ませた。

「綺麗だ、ゼクシオン」

 うっとりとしたマールーシャの声が部屋に響く。本心だった。
 この後の展開を予測したであろうゼクシオンはわずかに身を強ばらせたけれど、マールーシャは構わずに四肢を押さえ付けながら隘路をひらいていった。
 新しい印を刻むとマールーシャは高揚のままにゼクシオンを抱かずにはいられない。抵抗すらままならない彼をいいように組み敷くのはやや暴力的にも思えたが、熱にうかされ痛みを抱えながら身体を交えることはゼクシオンをも昂らせたに違いなかった。ずっと触れ合ってきたのだ、彼の性的嗜好は手に取るようにわかる。

 このまま黒で覆い尽くしたら、いつか闇に溶けてしまうだろうか。
 徐々に身体を染めていくゼクシオンを見てマールーシャは思う。しかし――

(私なら見失わない)

 マールーシャは手を伸ばすとゼクシオンの足の付け根に触れた。そこにある刻印の脈動が手のひらに伝わる。
 熱纏う身体を搔き抱いた。本当は後ろからするのは好きじゃない、理性の溶けていく表情が見えないから。けれど、自分の施した印を身に纏い、熱に浮かされ、尚も身体を開きその先を渇望するその姿は、マールーシャの高揚をどこまでも助長する。

「マールーシャ、痛い……」

 吐息と共に零れた彼の声に恍惚の色を聞いた。いつの間にか押さえ付ける手に力が入りすぎたようだったが、マールーシャは手を緩めずに身を屈めると剝き出しの肌の上に口付けた。まだ熱を持った荊棘の陰に唇を押し付け、吸うようにして口付ける。ぢゅ、と音が漏れるとゼクシオンは身震いをして甘く息を漏らした。

 黒く染め上げた荊棘の陰に咲く赤、それを纏う彼。
 なんと美しいのだろう。自らの手で一層美しくなっていくゼクシオンを、マールーシャはたまらなく愛している。私ならば、決して見失わない。

 

 尚も返事をしないでいると、ゼクシオンが肩越しにこちらを振り返った。瞳が水膜の中で熱っぽく揺れている。
 潤んだ瞳にマールーシャは微笑み返した。

こんな感情、きっと毒ならまだよかった。

 

20221106