花弁は騙る
ほどなくして、誰かが広間に姿を現した。闇の回廊が開く音、地に降り立った気配に続くゆったりとした足取り。歩幅は広い。顔を上げなくても、足音でおおよそ誰が現れたのか判別できた。特にこの男の場合は、随分と分かりやすくその場の空気が変わるのだ。
足音はこちらに構わず背後を通り過ぎ、そのまま私室の方へと遠ざかっていく……かと思いきや、不意に近くで足音が止んだ。
「おや、こんなところでお目にかかるとは」
こちらの存在に気付いたのか、そんな声が上から降ってきたのでゼクシオンはほんの少し動揺した。声の主は思った通りの人物だったけれど、自分に声を掛けてきたのは想定外だ。
「……こんにちは、マールーシャ」
手の中の本に目を落としたままゼクシオンは口先だけの挨拶を述べる。
相手はマールーシャに違いなかった。我が機関に迎え入れられてまだ日が浅い十一番目のメンバーだ。一見すると桃色の頭髪が女性的で目を引くが、戦闘に長けていそうな頑丈な体躯は屈強揃いの機関員の中でも上位に相当すると言えよう。事実、戦闘能力も申し分ないうえその聡明さも評価され、今度設立される新しい拠点の長を任されることになったらしい。いくら機関が人手不足とはいえ、新人としては異例の出世であった。
機関員には落ち着いた物腰で穏やかに接する様子が見られる一方で、時折、その眼光は恐ろしく鋭い。従順に見えて、腹の底で何を考えているのかわからない、未だ謎の多い男だ。
早い話が、要注意人物なのである。
仲間に迎え入れ、あまつさえ忘却の城にてその城主を任せておきながら、機関は内々にゼクシオンにこの男の監視を命じた。機関に仇なす者であった場合は早急な対応が必要になる。そういった理由でゼクシオンは日頃から彼、マールーシャの動向には注意深く意識を傾けているのだった。もちろんこの日も例外ではない。
二人の間に日頃大きな接点はない。だからこの日も何気なく広間で過ごしているように装っているところにマールーシャの方から声を掛けられるのは予想外であった。
「こんなところで読書か? 手にしているそれは、戦闘用の武器かと思ったが」
マールーシャはそう言うと背後に回り込んでゼクシオンの手元を覗き込んできた。癖気味の髪の毛が揺れる気配に続いて、花のような独特の香りが鼻腔に届く。彼の司る能力の影響だろうか。ゼクシオンはあからさまに顔をしかめる。自己主張の強い人間は苦手なのだ。
「レキシコンではありませんよ……これは、ただの小説です」
レキシコンとは、ゼクシオンが戦闘に用いる自身の武器ともいえる辞書のように分厚い黒い本である。が、いま膝の上に開いているものはそんな一抱えもある書物ではなく、両の掌に収まる程度の小さな文庫本だ。本を読むことは昔から嫌いではなかった。他者と群れるよりは自分の世界に閉じこもる方を好む質である。今もこの男が任務から戻ってくるのを待つ傍ら、時間つぶしにと眺めていたのだ。
「研究熱心なあなたのことだから専門書でも読んでいるのかと思ったけれど、俗世の浮世噺などにもご興味を示すのだな」
「これも研究の一環ですよ。人の心を知るためのね」
「ああ……成る程。そうともいうのか。それならば私も是非知りたいものだ」
なにかと癪に障る話し方をするのでいよいよ鬱陶しくなってゼクシオンは本から顔を上げた。長椅子の背後から身を乗り出すようにしてこちらを見ているマールーシャと目が合う。涼しげな表情でこちらを眺めている。からかわれているのだと思うと腹が立ってきてゼクシオンはきつく相手を睨んだ。
「あなたに本が読めるんですか? 興味がおありなら貸してさしあげてもいいですよ。まあ読めるなら、の話ですけれど」
マールーシャは決して字が読めないはずはないけれど、文学だとかそういったものに興味があるようには到底思えなかったのだ。
精一杯の嫌味も空しく、マールーシャは愉快そうに目を細めると「やっとこっちを見たな」などと笑った。
「そういうことなら拝借しよう。策士殿の趣味も気になる」
そう言うが早いか、マールーシャはひょいとゼクシオンの手から読みかけの本を抜き取ると、そのまま背を向けて広間を後にする。
「あ、ちょっと!」
一瞬の遅れを取ったゼクシオンが背中に向かって声を上げるも、マールーシャは無言で手をひらひらと振りながらもう長い廊下の先を進んでいったのだった。
なんという早技。手癖の悪さも注意すべき点と覚えておかねばならない。いや、今のは自分の方が不注意だっただろうか。簡単な挑発に乗った自分を悔いながら、しかし彼とまともに言葉を交わしたのはその時が初めてだったとゼクシオンは気付く。
本が返却されたのは思ったよりも早かった。もう返ってこないだろうと覚悟すらしていたというのに、マールーシャが再びゼクシオンの前に現れたのは、あれからたった一晩明けた次の日だった。任務を終えて帰還すると、今度待ち伏せされていたのはゼクシオンの方であった。
「……なんですかこれは」
差し出された小さな植物を前にゼクシオンは眉間に皺を寄せる。
「素敵な物語のお礼に」
「僕が貸したのは植物じゃなくて書籍ですけどね」
冷ややかな応対にマールーシャは苦笑しながら、後ろ手に持っていた本をゼクシオンに差し出した。訝しげにゼクシオンは本とマールーシャとを見比べる。
「本当にちゃんと読んだんですか? 一晩で?」
「もちろん。暇つぶしにと思ったが思った以上に楽しめたよ。感謝する」
「ふうん……」
先日の嫌味たらしいやり取りと相反して意外にも素直な言葉にゼクシオンは戸惑いつつも、差し出された本を受け取った。図体ばかり大きい脳筋タイプかと思いきや、意外と文章を読むことも苦にしないのかもしれない。きちんと内容まで理解できたのかはわからないが、確認した方がいいだろうか。
などとゼクシオンが考えを巡らせていると、うっかりお礼とやらの植物まで受け取ってしまった。青い色をした見たことのない花だ。優しく柔らかな香りがどこからともなく香る。
「しかし物語を楽しむのは結構だが、こんなものを読むだけでは人の心など知れたものではないぞ、ゼクシオン」
花に気取られていたゼクシオンは不意に降ってきたマールーシャの言葉に一瞬硬直する。
「……なにを分かったようなことを」
「人の心を理解したいのであれば、物語を俯瞰するだけでなく、もっと直接交わった方がいいと思っただけだ……例えば、」
こんな風に、とマールーシャの指先がゼクシオンの顔を掬い上げた。探るようにこちらを見つめる青い眼をゼクシオンも無言で見つめ返した。何を企んでいる?
「……そういえば小説の中にこんな場面があったな」
「僕まだ読み終えていないんですよね」
「意外と簡単に接触を許すんだな」
「何を企んでいるんです」
「お近付きになれたらと思って。どうやら貴方とは本の趣味が合いそうだ」
軽薄に笑うマールーシャをゼクシオンは冷静に見つめる。彼の意図を探ろうと色々な考えが瞬時に脳内で展開される。けれど、甘い香りが思考の邪魔をする。花の香に隠れて、彼の本性が見えない。
確かに、物語の中にこの場面に似た展開があった。丁度そこを読んでいた時にマールーシャが現れ、本を奪っていったのだ。その先に何が起きるのか、ゼクシオンは知らない。
「……読み終えていないのなら、この先の展開をお教えするのはやめておこう」
そう言って意味深な笑みを見せると、マールーシャは一歩身を引いた。
「読み終わったら教えてくれ」
「な……なんで僕が?!」
「知りたいんだろう、人の心を」
マールーシャは得意そうに言うと、用件は済んだとばかりにその場を後にする。
「私なら教えることが出来そうだ」
呆然と見送るゼクシオンをその場に置き去りにして。
取り残されたゼクシオンは、手に残った本と、そこに添えられた花に目をやった。甘い香りがしたと思ったのに、小さな花は素っ気なく澄まし顔だ。優しいと思ってしまったその香りの正体をに気付き、ゼクシオンは思わずその場で頭を抱える。
20230528
タイトル配布元『OL』様