白雨の檻

 シンクに跳ねる水の音と、続いてグラスの触れあう硬い音。開け閉めされる冷蔵庫のドアの音のあとには、ボトルに入ったミネラルウォーターを注ぐ音が聞こえた。静かにグラスを満たす水の流れる音に、目を瞑ったまま心地よく耳を傾けていた。倦怠感に身を任せ、火照った四肢を投げ出したままでいると、やがて足音が近づいてきてこちらを覗き込む気配がした。寝たふりをしてしまおうか、なんてふいに思いついたいたずらも、彼の気配と共に漂う甘い香りに思わず頬が緩んで、すぐにばれてしまった。なにをわらってるんだ、という彼の声が優しくて、満ち足りた思いでゼクシオンはゆっくりと瞼を開いて眼前の相手をみつめた。

「大丈夫か? ほら、水」

 マールーシャはそう言って透明な水をたたえたグラスをひとつ、こちらに差し出した。手を伸ばして受け取ろうとすると、先に起き上がってから、とたしなめるように言うので、しぶしぶゼクシオンは身を起こした。隣りに座ったマールーシャが手渡してくれたグラスを両手で受け取る。火照った手のひらにグラスの冷たさが気持ちよく、口を付ける前にグラスを頬に押し当てて息をついた。再び目を閉じて触れているものへの感覚に集中していると、隣りからはごくごくと水を飲み下す音が聞こえた。喉が渇いているのだろう。この部屋は暑いし、二人は十分に汗をかいたあとだった。

「ちゃんと飲めよ、脱水症状になったら困る」
「わかってますって」

 恋人のお節介にまた頬が緩みそうになるのをこらえながら、ゼクシオンはグラスに口を付けた。冷たい水が口内に広がり、喉を伝い、胃の形をなぞるように落ちていく。存外自分も喉が渇いていたのだろう、ほぼ一息で飲み干してしまったのを見て、マールーシャは笑いながら傍らに置いたボトルを掲げた。

「たくさん汗をかいたな」
「すみません、なんだか最近冷房の効きが悪くて」
「夏本番になる前に点検した方がいいんじゃないか」
「まあ、気が向いたら」

 苦笑するマールーシャを尻目に、ゼクシオンは注いでもらった二杯目の水を、今度はゆっくりと口に含んだ。マールーシャはボトルを冷蔵庫へ戻しに立った。彼が自分の部屋で自由に振る舞ってくれるようになったのを嬉しく思う。互いの家で過ごすことが増えてきたからだろう。

 こういった夜を自分の部屋で過ごすことは珍しい。幾分賑やかにしてしまったが、今日はいつも気を配っている壁の向こうの隣人に配慮する必要はないのだ。隣り部屋に住んでいるのは大学の友人で、来週にかけて旅行に行くのだと聞いている。友人が楽しげに旅行計画を話すのを何気ない顔で聞いておきながら、頭の中では恋人を部屋に呼ぶことを考えていたなんて、友人に知れたら幻滅されてしまうかもしれない。けれど、できるだけさりげなさを装って自宅に誘ったときのマールーシャがとても嬉しそうに応じたのを見た瞬間、そんな心配はすっかり消し飛んだのであった。自分から何かを誘うことは家の都合を差し引いても滅多になかったので、それも功を奏したのかもしれない。終始機嫌のいい彼と一緒に部屋に帰ってきたその後は、想像に難くないだろう。現在の時刻は午前三時を過ぎたところだった。

 隣りに戻ってきたマールーシャが、またゼクシオンの方を覗き込んだ。彼も汗がまだ引かないようで、首筋に髪の毛が幾筋も張り付いていた。何を思うでもなく、その太い首元に顔を埋める。発熱しているせいでいつもより濃い彼の匂いに酔いしれながら、まだ熱い肌の上に痕跡を残す。舌先に少し塩気を感じたが、不快ではなかった。水を飲んだせいだろう、唇と舌が触れると彼はつめたいと肩をすくませたが、ゼクシオンが顔を離すと今度は迷いなく自分のそれを重ねてきた。冷たいのは表面だけだ。触れ合っているうちに、すぐに深部の熱が主張を始める。好きなだけ啄み合ってから、安堵に似たため息がどちらからともなく零れた。

「シャワーを浴びよう。先に入るか?」

 そう言ってマールーシャはゼクシオンの前髪が頬に張り付いているのをはがすように払った。ゼクシオンもまだ身体中火照らせたままだ。エアコンはがたがたと音ばかりたててるものの、いっこうに部屋は涼しくならない。

「それもそうなんですけど……シーツまでだいぶ濡れちゃいましたね」

 ゼクシオンはそう言って、自分らの下のシーツにそっと手をやった。触れて分かるくらい汗を吸ってしまっていた。シャワーを浴びた清潔な身体でこの上に再び横たわるのはあまり好ましくない。そうすぐ乾くとも思いがたかった。

「コインランドリー、行ってこようかな」
「今から?」

 素っ頓狂な声を上げてマールーシャは時計とゼクシオンとを見比べた。

「替えのシーツくらいあるだろう」
「あいにく、今朝替えたばかりなんですよ」

 そりゃあ恋人を泊めるのだから、とゼクシオン内心で付け加える。古い方はこれから洗いに出す袋に入れてあった。シーツなどの大物は自宅で干しきれないため、乾燥機の使えるコインランドリーを利用することが常である。

「ちょっと行ってくるので、先にシャワー浴びててください」
「待て待て、そもそもこんな時間に営業しているのか?」
「近所に二十四時間営業のところがあるんです。近いので、すぐですよ。乾燥までやると遅くなってしまいそうですけど、このままここで寝るよりはましでしょう」
「そんなことを言ってるんじゃない」

 突飛な申し出にマールーシャは頭を抱えんばかりだったが、ふと思いついたように表情が明るくなった。

「……それなら、私も一緒に行こう。こんなことになった責任は私にもあるわけだし」
「責任というほどでも」
「こんな時間にそういった施設を利用することも滅多にないだろうからな」

 今晩の寝床のために億劫な洗濯をしに行かねばならないというのに、マールーシャは名案を思い付いたとばかりに楽しげである。

「そうと決まれば、早くシャワーを浴びていこう。さあ、立って」

 マールーシャはゼクシオンの腕を取って立ち上がらせると、そのままバスルームに向かった。

 

 

 外に出ると、空気の中に雨の匂いがした。知らぬうちに降っていたのだろう、見れば地面はそこかしこに水溜まりを張っていた。傘を持つか悩んだが、洗濯物を入れた大きなバッグを持っていたので諦めることにした。帰りに降られたら洗濯物が台無しだ、とマールーシャが一本長い傘を持ってくれることになった。真っ暗な夜道を並んで歩く。すっかり夜なのに、湿度のせいかじっとりした空気は心地よいとはいいがたい。シャワーを浴び、清潔な服に袖を通したものの、歩き始めるとすぐに暑くなった。

「こんな時間に野外をあなたと歩いているなんて、なんだか妙な気分ですね」
「珍しいことをすると、雨が降るかもな」
「もう降ったあとですよ」

 マールーシャはどこか楽しそうにみえた。
 疲れているせいか自然と歩みはゆっくりだ。雲の切れ間がぼんやりと明るいように見えたが、まだ雲がぶあつくて月の輪郭は見えない。ふと、情事の直後に外へ出たのなんて初めてじゃないだろうか、とゼクシオンは思った。いつもならば熱に抱かれながら眠りに落ちていくのに。思ったけれど、なんとなく口には出さないでおいた。身体の奥にほんのりと残る気怠さとやましさを持て余しながら歩いて行くと、夜道の先に明かりが見えてきた。

 一番近いコインランドリーまで、歩いて十分も掛からない。同じアパートに住んでいる学生も、こうして大物の洗濯をするだとか、時には溜めこみすぎた衣類の洗濯をまとめて行うだとか、様々な理由でその多くがこの施設を利用するのを知っている。ただでさえ私物の洗濯をするのに知り合いと居合わせたくないというのに、その上今日は恋人同伴だ。まさかこんな時間に利用するものなど他にいないだろうと思いつつも、煌々と明かりのついた店内を覗き込むときは少し緊張した。そんな気など知ってか知らぬか、マールーシャは飄々と入店するとぐるりと店内を見渡してから「誰もいないよ」と笑った。

「初めて来た」
「でしょうね」
「どうやって使うんだ」

 そう言ってマールーシャは興味深げに周囲を見ている。洗濯物を取り出しながらゼクシオンは使い方を説明した。まずリフレッシングをして、洗剤は必要ならあっちで買って。なるほど、と頷きながら真剣に聞いているマールーシャがなんだか可笑しい。自宅に立派なドラム式洗濯乾燥機があるくせに、コインランドリーなんか使わなそうなのに、何をそんな真面目に。
 シャワーを浴びている間に洗濯だけ済ませておいた二組あるシーツを、贅沢に二台使って乾燥させることにした。お金はマールーシャも半分出してくれた。硬貨を落とし込むと、すぐに稼働してドラムが回転を始める。

「この後はどうする?」
「いつもなら待ち時間は食事に出たりするんですけど……今日はすることがありませんね」

 このままここで時間を潰せるものも特にないため、面倒だが一度帰るのも手かもしれない。けれどマールーシャはこの珍しい状況を楽しんでいるらしく、ゼクシオンの提案に対し、このままここで待つのも構わないと言った。
 何をするでもなく備え付けのベンチに腰掛けて話をしていると、ふと外が騒がしいことに気付く。見れば、いつの間にやら大雨になっていた。ついさっきまで月が見えそうだと話していた矢先だったのに、叩きつけるような雨を呆気に取られて眺める。

「嘘でしょ……やっぱり傘、持ってくればよかった」
「通り雨みたいだ。終わるころには止むと思う」

 スマートフォンで雲の動きを確認したマールーシャが画面を見せてくれた。結局、ここに留まるほかなさそうである。

 

 ごうんごうんと規則正しい機械音は眠気を誘う。最初の内は他愛ない話をぽつぽつとしていたけれど、単調な空間にやがてゼクシオンはうとうとし始めた。それもそのはずで時刻はもう明け方に近付いているし、そもそも身体も疲れているのだ。返事が間延びするようになり、つい欠伸をした。それを見たマールーシャはほんの少し二人の間の距離を詰めると、静かに肩を抱く。

「寝ていたらいい。まだ少しかかりそうだ」

 こんなところで寝るつもりなどない、けれど、寄り添う体温に沈み込んでいしまいたくなる。本当はこんな公共の場で身を寄せ合いような真似などできないのだけれど、時間も時間だし、外の雨はひどくなる一方。誰も来はしないだろうと決め込み、ゼクシオンは黙って頷くと隣りの肩にもたれて身体の力を抜いた。

 ごうごうと音をたてる乾燥機の音のほかは、外の雨の音が心地よい。日常的な空間なはずなのに、外も見えないくらい激しい雨によって隔絶された、奇妙な世界。
 妙なものだと思う。いつも一人で来ていた場所に彼と来ることになるなんて想像もしていなかった。マールーシャの部屋に泊まっていたら絶対にありえないであろう深夜のデート。確かにちょっと楽しかったかもしれない。
 マールーシャは平気そうにしているし、退屈そうにも見えない。この時間を楽しんでいるのだろう。ずるい、とゼクシオンは眠い頭でぼんやりと思う。自分だって起きていたいのに。一緒にこの貴重な時間を過ごしていたいのに。そう思いつつも、意識は徐々に重みを増した。
 コインランドリー特有の洗剤の香り、乾燥機の音、外の雨の音が、自分の中に流れ込んでくる。ごうんごうんという音と共に、ぐるぐると混ざり合って自分の中に溶け込んでいく。ひとつひとつは日常的なもので形成されているのに、それはなんだか、奇跡的なことのように思えた。

 

 ビー、と乾燥を終えた音がして、ゼクシオンははっと目を開いた。転寝してしまっていたようだ。ほんのひといき目を瞑っていただけのつもりでいたが、乾燥はすっかり仕上がっていて、見ればマールーシャがシーツを回収していた。慌ててゼクシオンも立ち上がり、持ってきたビニールバッグを広げる。シーツからはコインランドリー独特の匂いがした。丁寧にたたんでバッグに収めると、帰りはマールーシャが鞄を持ってくれた。いい経験になった、なんてマールーシャは笑っていたが、さすがにちょっと眠そうに見える。

「帰ろうか。雨は止んだみたいだ」

 用事の済んだコインランドリーを後にした。雨はすっかりやんでいたが、激しく振ったおかげで来た時よりも水溜まりは増えている。帰りはゼクシオンが傘を持って、家路をたどる。いつの間にか空が白み始めている。

「コンビニでも寄っていこうか」

 ぶらぶらと歩いているとマールーシャが隣りから話しかけてきた。

「もうこの後は寝るだけですけど」

 眠くてたまらないゼクシオンは苦笑するが、マールーシャは「せっかく出てきたんだし」と言って、何かいるものはないか? 朝食を買ったら? いや、今から寝たら昼食になるだろうか……などと一人で呟いていた。なんとなく、非日常的なこの時間をもう少し楽しみたいと思っているのが伝わってきて、結局コンビニまで遠回りしていくことにした。

 不意に眩しくなって目を細めながら顔をあげると、遠くの家々の間から白い朝日が伸びていた。

 

20230606