よひらしとど
ほとんど駆け込むようにして家に飛び込んで扉を閉めると、あっという間に狭い玄関は二人の男でぎゅうぎゅうになってしまった。
「すみません、今、拭くものを」
息も絶え絶えにそう言うとゼクシオンは濡れた前髪をかきあげて視界を広げて相手を見た。隣りにいるマールーシャも、濡れた髪の毛を邪魔にならないように顔の横に除けているところだった。
一足先に家の中にあがり、洗面所から新しいタオルを取って戻った。床に、濡れた自分の足跡が点々と続いていた。靴の中まで大浸水だったのだから仕方あるまい。後で掃除をせねばならないが、そんなことよりも今は客人をどうにかしなくては。
マールーシャにタオルを渡して部屋にあげると、そのままバスルームに押し込んだ。もうお互いどうにもならないほど濡れていたのだ。
天気がいいから散歩でも、なんて近所で有名な紫陽花を見にのんびり歩いていったのが運の尽き。ぽつり、と鼻先を濡らした雨粒を皮切りにあっという間に辺り一面真っ白になるほどの豪雨に発展し、雨宿りする場もなく、近くのゼクシオンの暮らす一人用の学生向けアパートに駆け込んだのがつい今しがたの出来事。彼を自宅にあげたのはこの日が初めてだった。こんな形で慌ただしく家にあげることになるとは思っていなかった。
シャワーの水音が聞こえ始めると、ゼクシオンも少し安堵した。急に自宅に招くことになってしまって困惑しきりだが、ひとまず着替えて部屋を片付けようと濡れたものを脱いだ。これは全部洗濯だ。マールーシャの服もすっかり濡れてしまっていたから、いっそ洗ってしまった方がいいだろう。洗濯機にかけても大丈夫だろうか。本人が出てきたら了承を得て洗濯にしようと考える。
身体は濡れて冷たくなっていたが、タオルで水気を取って服を着替えたので冷えはいくらか落ち着いた。彼のために何か貸せる服がないかとクローゼットを探る。オーバーサイズのTシャツと、部屋着にしている楽な素材のハーフパンツ。こんなところだろうか。下着も一応新品のものがある。サイズが合うか怪しいが、とりあえず服が乾くまでの間はこれで勘弁してもらうほかない。脱衣所まで持っていくと、外からマールーシャに声を掛けてタオルと一緒に置いておいた。
出掛ける前に一通り部屋の掃除は済ませてあったし、そもそも家に物が少ないこともありそう散らかっていたわけでもない。濡れた廊下を拭きあげて、一日中締め切っていた窓を開けて換気をすると、もう手持ちぶさたになってしまった。外はまだ雨に煙っていたが、風がないので窓を開けていても部屋の中まで雨が吹き込むことはなく、ゼクシオンはしばらく外を眺めて過ごした。眼下に続くコンクリート塀から青い紫陽花が覗いているのが見えた。強い雨に打たれているが、どうということはなさそうである。
落ち着いてくると、家に彼を連れてきてしまったことへの実感がじわじわと湧いてきた。今日はそんなつもりではなかったので今になって緊張してきた。閉鎖空間に、ふたりきり。このあと、どうしたら……。
悶々としていていると、ドアの開く音で我に返った。シャワーを済ませたマールーシャが出てきたところだった。ゼクシオンの服は着れないこともないが、やはりサイズが合わないので何ともいえない格好になってしまっていた。男前なのに申しわけないと心苦しく思う。
「ありがとう、バスルームを先に使わせてくれて。寒かっただろう」
「いえ……それより、窮屈な思いをさせてすみません」
ゼクシオンは詫びるがマールーシャは気にしていない様子だった。
窓を閉めてから、濡れてしまった服を洗いに出す許可を得て、自分の服もろとも洗濯機に入れてボタンを押した。浴室乾燥を使えば夜には乾くだろうか。明日は休日だし泊まっていってもらっても構わないのだが、衣服のみならず今夜の宿までもが物理的に狭いのはさすがにいたたまれない。
あれこれ考えていたらくしゃみがでた。髪の毛が冷たく首筋に張り付いたままだった。
マールーシャはすまなそうに目を伏せると、今度風呂場へ押し込まれるのはゼクシオンの方だった。
熱いシャワーを頭からかぶるとやっと人心地つくと、改めてこのあとはどうしよう、と考えを巡らせる。やむを得ない状況とはいえ、部屋に連れ込んでしまった。家ならば傘はあるけれどマールーシャの着替えはないし、サイズの合わない自分の服を着せた彼を外に連れ出すわけにもいかない。家で過ごそうにも、この狭い家で娯楽になりそうなものもない。おとなしくテレビでもつけてしのぐか。テレビだって、普段自分がラジオ代わりに垂れ流すことが目的のそれは、二人で映画鑑賞するには小さすぎた。そもそも映画のディスクなんて洒落た物もない。ゼクシオンは途方に暮れる。
冷蔵庫の中も空同然だ。服が乾かなければ外食も厳しい。宅配でも頼めばいいか。それは意外と悪くないかもしれない。
冷えが遠のいたので、ゼクシオンは全身を清めてからバスルームを出た。あまりにも部屋が静かなので、服を身につけてから顔をのぞかせると、マールーシャはベッドに腰掛けて本を読んでいた。ゼクシオンの本棚にあった雑誌だろう。ドライヤーも済んでいるようで、さっきまでぺたりとしていた毛先はいくらか本来の状態を取り戻しているようだ。
気配に気付いたのか、マールーシャは顔を上げるとゼクシオンを見つめ笑いかけた。髪を乾かしてくるように言われ、ゼクシオンは言われたとおりにした。あらかた乾いたところでようやく部屋に戻った。
「寒くないですか」
「おかげさまで」
「そんな格好をさせてすみません」
「何を言っている、急だったのに服まで貸してくれて……ああでも」
マールーシャはそこで言葉を切ると、ゼクシオンを見上げてほほえむ。
「スペースが許すなら、今度少し着替えを置かせてもらおうか。急な泊まりがあっても困らないように」
「たしかに、それがいいですね」
淡々と返事をしたが、ゼクシオンは内心動揺した。今後も彼は自宅にきてくれるつもりがあるのだ。しかも、泊まりで。ゼクシオンもマールーシャの家に着替えを置かせてもらっていた。互いの家に互いの私物が増えていくことに、しみじみと感じ入る。この人と付き合っているのだなあと。恋人同士なのだと。
なんとなく、ゼクシオンはマールーシャの隣りに座ることをためらっていた。勝手に意識しているのは自分だけだろうと思えど、二人で何もない部屋でベッドに並んで座るのは、なんだか気恥ずかしかった。けれどシンプルすぎる家にほかに座る場所と言えば離れた場所にあるダイニングチェアくらいのもので、わざわざ離れるのもまた意識の表れのようで動き出せず、結果ゼクシオンは部屋の入り口のあたりで所在なさげに立ち尽くしていた。
当然、マールーシャは座らないのかと尋ねてきた。ああ、そうですね、なんて白々しく言ってから、そろそろと歩み寄り慎重に隣りに腰を下ろした。意識しているのがまるわかりだろうけれど、どうしたらいいのかわからないのだ。自分の部屋なのに、彼の方がよっぽどリラックスしているように見える。
マールーシャは立ち上がって読んでいた本を棚に戻すと、もっと距離を詰めて隣りに座りなおした。気を使ってあけておいた距離が一瞬で埋まってしまい、心臓がはねる。触れていないのに、体温がわかるくらい近い。
「ちゃんと温まったのか?」
マールーシャはそういってゼクシオンを覗き込むと、右目に掛かる前髪を払った。
「またせっかちして。髪、ちゃんと乾かさないと風邪をひくぞ」
ゼクシオンは返事をしようとしたが、前髪に触れていたマールーシャの手がそのまま頬に触れたので、何と返すべきなのかかすっかりわからなくなってしまった。ごく自然な触れ方だった。柔らかい感触に身体の内側からこみ上げる高揚を押さえられない。触れたところから鼓動が伝わってしまうんじゃないだろうか。
目を合わせたらもうだめだと思った。けれど、惹きつけられるようにゼクシオンは視線をあげる。自分を見つめるマールーシャと目が合った。
わかっていた。彼はもうその気の目をしている。熱をおびた目をまっすぐに向けられ、ゼクシオンはあえなく陥落した。
窓の外で雨の音が続いている。
バスルームからは洗濯機の脱水の音が。
触れ合う部分からこぼれる水音は耳の奥にじかに響いて、それらは胸の内にくすぶる小さな火を煽った。目を瞑って触れるものへの意識に集中した。温かい手。唇も舌先も、同じかそれ以上の熱を持っている。いつもと違うシャンプーの香り。普段使っているもののはずなのに、眼前の相手から香るそれは自分の纏うそれとはどこか違う気がした。甘い香りを深く吸うと、次には口から吐息がこぼれた。だらしなく声まで漏れていたかもしれない。マールーシャにも聞こえただろう。相手の身体を押しつける力が増した。されるがままに分厚いからだを受け入れようと、気付いたときはもう自分が下になっていた。
彼とこういった展開に及んだのは、これまでに一度だけ。初めて彼の部屋に泊まったときのことだった。柔らかくて広いベッドの上。清潔に乾いた身体。自分たちの声しか聞こえない静かな夜。何もかも、今日と正反対だ。
不思議とその時の方が緊張はなかった。もとよりそうなるつもりでいたからだろうか。今の方がよっぽど緊張している、とゼクシオンは考えた。
キスをしたまま、身につけたばかりの服をひとつずつ取り払っていく。似合わなかったTシャツをマールーシャが脱いだのをみたとき、なぜだか高揚よりも安堵の思いの方が強く浮かんだ。
触れ合う肌は熱く、まだどこかしっとりとしていて、肌同士が吸いつくように合わさるのが心地よかった。マールーシャがゼクシオンの首もとに顔を埋めるので、髪の毛に指を通した。いつもは軽やかに跳ねる毛先も、しっとりとまとまって重力に従っている。なんだ、生乾きなのは自分だって同じじゃないか。先ほど小言のように言われたことを思い出してやや憤慨しかけたが、首筋に息の掛かるこそばゆさに思わず声が漏れて思考は中断された。あわてて口を覆う。防音のきいた鉄筋のマンションとは違って、隣りの部屋でくしゃみをしたってわかってしまうくらい、ここは壁が薄いのだ。下手に騒いだら隣人に聞こえるともしれない。ゼクシオンの反応にマールーシャはほんの少し気にした素振りを見せたが、しかし構わずに愛撫を続けた。意地悪く、執拗に、苦手な部分ばかりを責めるのに、たまらない気持ちでゼクシオンは指を噛む。
ばらばらっと音がして、雨が窓を叩いた。
もっと強く降ればいい。何も見えず、何も聞こえなくなるくらい。二人を外から隔絶してしまうくらい。そうしたら、きっとここはどこよりも安全だ。
20230611