手招く声は蜜より甘い
「毎日毎日、暑くてかなわんな」
「ええ、本当に」
カフェテリアは空調が効いていて涼しかったけれど、外を歩いてやってきたゼクシオンは強烈な日差しにあてられてすっかり消耗していた。冷たいアイスコーヒーをひとくち、辺り差しさわりの無い天気の話や互いの近況などを話しながら汗が引くのを待った。マールーシャの方はというと、早くから来ていたのかゆったりとくつろいでおり、暑さを感じさせない涼し気な様子である。この時期になるとやはり暑さのせいか、伸ばしている髪の毛は一つにまとめて結われていることが多い。この日も白い首元がいつもよりも露わになっているのに気を取られていたら、「明日から夏休みか」とマールーシャの方から切り出してきた。本題である。
「もう今日からの気分ですけどね。試験の結果も全て出ましたし」
晴れ晴れとした気持ちでゼクシオンは告げた。
今期も無事に大学のレポート提出と期末試験が終わり、成績も上々、満を持して夏休みに突入した。今日は最後の試験結果を確認しに大学へ来たその帰りに、夏の予定でも話そうとマールーシャと待ち合わせたのだった。
「もう決まってる予定は何かある?」
「日時は決めてないけど、県外の展示会で行こうと思っているところが一つあって。でもそれくらいですね。それはいつでもいいですし、積んでる本がたくさんあるので、それらを消化して過ごそうと思っています」
大学生の夏休みは長い。合間合間で研究室に顔を出す予定はあるものの、それでも自由に過ごせる時間は多くある。友人らはやれ旅行だアクティビティだと賑やかな予定で盛り上がっているが、ゼクシオンも定期的なアルバイトを入れているほかはこれと言って大きな予定は特にない。
この回答は、ゼクシオンなりのアピールだった。時間なら空いてますよ、そちらの都合に合わせられますよ、と暗に伝えたかったのだ。マールーシャとは昨年からいわゆる交際関係にある。長期休みの際は予定を合わせて遠出することも多い。相手の休みが取れるならこの夏もどこかへ行く予定を作りたいと思っていたし、そういう提案は向こうからしてくれることが多かった。案の定、何か言いたげな様子のマールーシャをみて内心期待が高まる。
「ゼクシオン、今年の夏なんだが」
「はい」
「……休みの間、私の家に来ないか」
「……家?」
思わぬ提案にゼクシオンはマールーシャを見つめ返した。家なんてよく行っている。今更改まって提案することだろうか。マールーシャの意図を図りかねてゼクシオンは問う。
「いつもみたいに泊まりに行くっていうことでしょうか」
「一泊二泊の話ではない。夏休みの期間を私の家で過ごしたらどうかという提案だ」
マールーシャはそう言うと、一度手元のコーヒーカップを口元に運んだ。
「好きに過ごしてくれて構わない。もちろん出掛けたっていいし、必要があれば一時的に自宅に帰ってもいい。部屋も、キッチンも自由に使ってくれていい……どうだろう」
「それは……かなり魅力的に聞こえますけど」
既にマールーシャの家にはよく行く関係になっているので、たまに訪れるその環境が素晴らしく、とても一学生の身分では手に届かないようなレベルであることはよくわかっていた。ひょっとして、仕事が忙しくて身の回りのこともままならないほどなのだろうか、家の手伝いが必要で呼ばれたとか? なんて危惧をするも、聞いてみればマールーシャはきっぱりとそれを否定した。
「家事なんかしなくていい。そんなことのために呼んでいるのではないよ」
「はあ」
なおのこと意図が見えず、ゼクシオンは首を傾げる。
マールーシャはカップの中を見つめながらゆっくりと話す。
「……一緒に過ごす時間をもっと増やせたらと思っていたんだ。旅行に行くのももちろんいいが、もっと日常的に生活を共にしたいと。私が帰ってくるときに家にいてくれたら嬉しいし、ゼクシオンが帰ってくるのを家で迎えたい。そんな生活をしてみたいと思ったんだ、この夏」
そう言うと、マールーシャは視線をあげてにっこり微笑んだ。
「要は、一緒に住まないかという話だ」
なるほど、と趣旨を理解してゼクシオンは頷いた。
長い休みを彼の部屋で過ごすのは確かに魅力的な提案だった。もちろん部屋環境が素晴らしいだけでなく、マールーシャが一緒に過ごしたいという気持ちを素直に打ち明けてくれたことも、事実嬉しく思う。ゼクシオンだって一緒に過ごせる時間を作りたいと思っていたのだ。その提案が甘美すぎるあまり、甘やかされて自堕落になってしまうのではないかと危惧するくらいだ。
暫し悩む素振りを見せたが、マールーシャが熱心に誘うし、やはりその提案はゼクシオンにとっても興味をひかれるものであることは確かだったので、ゼクシオンはその夏の休暇を恋人の家で過ごすことに決めた。
そうと決まれば話は早いもので、翌日にはもう荷物を抱えてマールーシャ宅の敷居をまたいでいた。いつもの泊まりよりも少し多めの荷物。これまでは遠出をしてもせいぜい二泊がいいところだったので、三泊を超えて彼と一緒に過ごすことになるのはこれが初めてだ。ずっと一人暮らしをしていることもあり、長期間他人と生活を共にすることへの不安は少しありつつも、けれどその相手が彼ならばなんとかなるだろうという漠然とした思いもあった。単に期待が勝っていたのかもしれない。問題が生じたら帰ればいいか、なんて楽観的に考えながら、ゼクシオンは部屋に上がる。
マールーシャは熱心に提案していただけあって浮足立った様子で機嫌よく迎え入れてくれた。通い慣れたその家のことは今更案内されるまでもなくゼクシオンもあらかたわかっていたし、簡単な生活ルールなどを確認すると、マールーシャはゼクシオンをキッチンに連れて行った。「これ、買っておいた」と見せられたのは、たっぷりと容量のある冷凍庫の半分は占めるであろう青いアイス。うわ、と思わず声が出たのは、これがゼクシオンの長年にわたる好物だからに他ならない。知っていて用意してくれていたのだろう。こんな簡単なことで、自分の中にあった一抹の不安も忘れ去られてしまった。我ながら現金である。マールーシャもそんなゼクシオンの様子を見て満足そうなので、ひとまず流されることにした。
初日はそのまま家で過ごし、夕食も自宅でマールーシャの手料理を振る舞われ満足の一日だった。借りてきたDVDで映画でも見ようとソファに並んだものの、まったりしているうちに触れ合いが深まり良い雰囲気になってくると、映画もそこそこに早々に寝室へとしけこんだ。浮かれているなと自分でも思う。けれどすぐに、まあそんなものだろうとゼクシオンは思い直した。なにせ、夏休みなのだ。
*
遠くの方で物音がしているのには気付いていたけれど(もっと言えば隣の体温がとっくに無くなっていることにも)、知らぬふりをしてゼクシオンはしばらく布団の中で丸まっていた。部屋は涼しすぎるくらいで、布団にくるまっているのが気持ちよかった。
廊下の先から足音が聞こえてきて、寝室のドアがそっと開いた気配がした。まだ寝ていると思われているのだろう、黙ったままそっと髪の毛をさらう感触。起きてますよ、と声を出す代わりに首だけ動かして見上げると、すっかり身支度を整えて出掛ける間際の姿でマールーシャが見下ろしていた。とろけるような優しい目をしている。いぎたなく身体を丸めているだけの自分を嘆かわしく思うが、彼の方はまったく気にしていない様子で、ゆっくり過ごして、と告げ、また静かに扉を閉めて出て行った。玄関の扉の開閉の音、鍵の回る音を聞き届けると、ゼクシオンは脱力してベッドに沈み込んでしばらくの間またうとうとと微睡んだ。
どうにも浮かれている。またしてもそう思った。これまでこの部屋に泊まるのは必然的に家主の休日であったため、こんなふうにして出勤していく彼を見送ることになったのは初めてだった。いや、見送ったと言えるのだろうか、この体たらく。せめてきちんと起きて玄関まで行けばよかった。そうは思えど、昨晩の夜更かしを思えばまた結局思考は堂々巡りになる。充足感に満たされて、ゼクシオンは長い息をついた。身体に残る微熱のような倦怠感を心地よく持て余す。
しかし、すぐに現実に引き戻される。自宅ならまだ休みを理由に惰眠を重ねても気にならないものの、彼の家ともなると途端に落ち着かなくなった。なにかをしなくてはもったいないような気になってしまう。せっかくこんないい家で過ごせるというのに。
軋む身体で起き上がると、顔を洗ってから水を飲みにキッチンへ入る。自分は出掛けるくせに、ゼクシオンを慮ってかリビングのエアコンはついたままになっていた。申し訳なくなり、寝室のエアコンを切ってからそのまま着替えを済ませて本格的に起き出すことにした。泊まりにきたときに朝食の支度を手伝うことがあったのでキッチンの勝手もあらかたわかっている。簡単に朝食を済ませて歯を磨いたら、もうすることがなくなってしまった。
使った食器を洗っていると、カウンターの上に花がいけてあるのに気付いた。部屋を彩る明るい色の花は、朝水を変えてもらったのだろう、みずみずしく花開いている。名前の知らない花。彼が帰ったら花の名前を聞いてみようか、とぼんやり考える。
アイスコーヒーを作って持ってきて、広いリビングのソファに深々と座った。ローテーブルの上には自宅から持ってきた本がすでに用意してある。グラスを置き、本を開いて読書に取り掛かった。贅沢だ、と唸りたくなる。静かで広くて涼しくて、これ以上なく読書に適した環境である。涼しくて広い快適な空間での読書は大変はかどり、これまでだらだらと読み進めていた本ものめり込んで読んだおかげでさらっと読み終えた。時計を見ると昼近かった。
何か作るのは少し億劫で、昼食は外に取りに行くことにした。合鍵は、とうの昔に預かっている。
昼時の外はたまらなく暑く、食事だけ済ませると真っ直ぐに帰宅してシャワーを浴びた。服を着替え、冷凍庫のアイスを一本。年中食べているとはいえ、暑い日に食べるアイスはやはり格別である。
またソファで本を広げ読んでいるうちに、疲れがたたったのかいつのまにか寝てしまっていた。開いていた本が滑り落ち音をたてるのを聞いて目が覚めると日は傾いていて、時計を見たら夕方になっている。
……いや、贅沢すぎないか?
我にかえってゼクシオンはガバリと身を起こした。
贅沢すぎる。というか、怠惰。紐にでもなったような気分だ。同居開始初日にして、このままではいけないと悟る。家のことは何もしなくていいと言われたけれど、それが彼の善意であることもわかるけれど、やっぱり何かやらせてもらおう。ここにいることを望んだのは、お客様でいるためではない。
暗くなり始めていたので、立ち上がって部屋の電気を点けてからカーテンを閉めに窓辺に寄った。自宅とは違う高層階からの眺望にしばし見入る。
ずっと一人で生きてきた自分が、誰かの気配がある場所でくつろいで過ごせるようになっていることが意外だった。一人暮らしは気ままだし、これまでは自分のためだけに生活してきたけれど、誰かのために、帰ってくるその人を思って何かすることは悪くないように思えた。
ソファに置いたままにしていたスマートフォンが通知を告げたので、カーテンを閉めてから戻った。マールーシャからのメッセージだ。億劫じゃなければ外で待ち合わせて食事をしないかという提案だった。喜んで了承の旨返事を送る。こうやって外で待ち合わせるのはいつものことなのに、戸締りをして出ていく家が彼の家で、また一緒にここへ帰ってくるのだと思うとなんだか不思議だ。まだ輪郭を掴めないでいる感覚。二人の時間を作るために寄せ集めていた自分たちが個々に持っている時間が、そのずっと先で交わるのを垣間見ている気がする。
出掛けるために着替えて身支度を整えてから、今日一日を過ごしたリビングを一望した。きちんと片付けたし、起きたときの状態に戻っている。
鞄を肩に掛けると、カウンターに置かれた花に、こっそりと胸の内でいってきます、と声を掛けた。
20230817
タイトル配布元『icca』様