恋の奥底は蜜より甘い

「今日は、一日中出掛けていたのか?」

 帰宅するなり、マールーシャは背後のゼクシオンを振り返って問いかけた。帰宅したリビングは、朝自分が出掛けたときと何一つ変わらぬ様子であったからだ。

「ほとんど家にいましたよ。昼食を食べに外に出たくらい」

 後に続いて部屋に入ってきたゼクシオンは、カウンターに活けた花の方を見たまま答えた。そうは言えど、全然彼の気配が感じられない。家具も少なくシンプルにあつらえてある部屋は、彼が来る前同様、いつも通りに素っ気なく見える。広いだけの、つまらない自分の部屋。

 恋人であるゼクシオンが、今回この生活を受け入れてくれたのは喜ばしいことだった。短い時間を作っては外で会い、たまの週末には部屋に泊まる。楽しい時間ばかり切り取って過ごすのもいいけれど、もっと互いの生活に踏み込んで共有したい。そんな気持ちでありながら、重い感情だと受け取られぬよう、夏休みだし、という状況をだしにこの生活を提案した。他人との距離感には人一倍敏感で慎重な彼だから、断られるかもしれないと祈るような気持ちだった。表面上はいつも通りに振る舞えていたと思うが、内心だいぶ緊張して口の中がからからに乾いていたのを覚えている。

 まあ初日だしこんなものか、とマールーシャは考えを改めた。遠慮深いゼクシオンのことだから、いちいち気にして片付けたのだろう。彼の存在がこの部屋にもっと浸透したらいいのに、と胸中で思う。

「少しだらけすぎてしまいました」
「いいだろう、夏休みなんだし」
「何かやっていい家事とかありませんか。快適すぎて、ずっとここにいたらだめになってしまいそう」
「なったらいいじゃないか。何の問題が?」
「元の生活に戻れなくなりますよ」

 ゼクシオンはそう苦笑した。合わせて笑って見せたものの、元の生活ね、とマールーシャは反芻した。

 これから先、彼と生活を共にしていくことを望んでいるのは自分だけかもしれないな、と思う。今でももうゼクシオンは自分にとって生活の中の必要な一部であるけれど、もっと密に生活を共にしたいと考えている。夏休みにかこつけて家に呼び込んだのはいいけれど、彼と自分ではイメージしているものが違うのかもしれない。

(……まあ、あせらなくてもいいか)

 手を洗ってから冷凍庫の方を気にしているゼクシオンの無邪気な様子を見て少し気持ちは緩んだ。彼はまだ選択肢の多い若者だし、未来のことを考えるにははやかったのだろう。それこそ夏休みだ。何も考えずに快適に過ごしてくれるだけでも十分だ。

「家事はいいよ。私だって週末に気が向いたら軽く掃除する程度だ」
「そうなんですか? 本当に?」

 振り返ってそう言うゼクシオンは不満げだ。

「なんで不満そうなんだ。ここにいる間くらいゆっくりしたらいいじゃないか」
「一緒に生活するのに、ずっとお客様でいたくないと思ったんですよ」
「お客様……」

 ゼクシオンのその言葉を聞いて、マールーシャははたと気付いた。彼のことを縛り付けることだけに満足しようとしている自分に。
 囲い込んで紐にでもしたかったんだろうか。未来を考えるのがはやいだって? 彼の方がよっぽど、一緒に生活することの意義を考えてくれているじゃないか。

「なるほど、確かにそうか……いや、君が正しい」
「そ、そこまででも」

 何度も頷いて全肯定していたらゼクシオンは困惑したようだった。マールーシャはそっと息をついた。まいった、好きになりそう。もう好きだけど。

 そういったわけで、家事は分担することにした。といっても彼を家政夫にしたいわけではないし、平日の日中に何もしていないのは事実なので、簡単な掃除と、備品が減ったら買い物をする、などといった地味なことを話した。地味だけれど生活をしていくうえで必要なことだし、そういう地味なものの積み重ねで日々は形成されているものだ。ゼクシオンは役割を得てかやっと納得した顔をしていた。
 ゼクシオンの提案で、食事の支度もできる方がすることになった。外食が多いのを気にしているのかと思ったけれど「僕は暇だし、あなたの作るもの何でもおいしいですし」なんて言われたら、こちらも悪い気はしない。和食を得意とする彼の手料理だって立派なものだ。家に帰ってきて、彼がいてくれるだけでも嬉しいというのに。
 一緒に生活をするイメージがこれよりも明確になっていくるとマールーシャも満ち足りた気持ちになった。これからの生活を思って、柄にもなく舞いあがっている自分がいる。

 家事についての話が一段落するとゼクシオンは満足した様子でキッチンに向かい、冷凍庫からアイスを取り出した。やっぱり食べたかったんだな……とほほえましく見守る。あれ、昼間も食べたとか言っていなかったっけ。全然かまわないけど。むしろそのために用意したものだけど。
 じっと見つめていたせいか、視線に気付いてゼクシオンは一本こちらに差し出した。

「食べます?」
「私は…………いや、貰おうか」

 普段口にしないので断りかけたけれど、思い直してマールーシャは手を伸ばした。これは完全に彼のためだけに用意したもので、自分自身は普段好んで食べないのだけど、自分の好きなものを気兼ねなく振るまってくれることが嬉しかったし、今日はなんだか共有したい気分だった。
 ソファに並んで口にした青いそのアイスは、冷たくてしょっぱくて、後味が甘い。妙なものが好きだな、とつくづく思う。過去数度これを共有したことがあるけれど、マールーシャの感想は毎度同じものだ。そんなに食べたいものか? と思い隣を伺いみれば、淡々と口に運ぶゼクシオンの横顔はどこか嬉しそう。機嫌がいいときの表情だ。それを見ると、ああやっぱりこういうのがいい、としみじみ感じる。何気ない日常の姿を、一番近くで見ていたいのだ。

 早々に食べ終えて、昨日の映画の続きでも見ようか、と提案するが、ゼクシオンはすでに眠そうである。昨夜も遅かったし、彼のことだから朝もだらけずに早くに布団を出たことだろう。そうとなれば、今日は早く寝よう。借りたDVDもまたの機会でいい。夏は始まったばかりだ。

 

20230815
タイトル配布元『icca』様