朝帰りをしよう

「じゃあ、乾杯」

 マールーシャは機嫌よくそう言うと、まだゼクシオンがグラスを持たないうちから自分のグラスを近付けてくる。

「もう乾杯はいいですよ。何度目ですか」

 呆れてゼクシオンは自分のグラスを庇うように持つが、マールーシャは聞いていないようで身を乗り出してなかば強引にグラスを当ててきた。硝子が触れ合う音に続いてグラスの中の氷が軽やかな音をたてる。照明を絞った薄暗いバーのカウンターで、店内の雰囲気は良かった。食事を終えた後に二軒目にと適当に見当を付けて入った店だったけれど、どうやら当たりのようだ。他にもまばらに客が入っておりバーテンダーは常連客に掛かりきりなので、カウンターの端に座ったゼクシオンとマールーシャは適度に放っておかれているのも丁度良かった。

 マールーシャがグラスを傾けるのをゼクシオンはそれとなく見つめる。彼と会うのは久しぶりだ。ここしばらくの間、マールーシャは仕事の都合で遠方に出ていたのだ。ゼクシオンも大学を卒業して就職し忙しくしていた頃合いだったのでなかなか彼の方まで出向くこともできず、会えない日々に長らくやきもきさせられることとなっていた。ようやく彼の方の仕事も落ち着いて帰ってくることになり、いよいよ再会が叶ったのが今日だった。
 積もる話を聞きながら食事をして、久しぶりに顔を見て話したらすこし気が緩んだのか、気付いたら注文したワインが二本も本あいていた。二人して飲みすぎである。ゼクシオンがあまり顔に出ないのに対し、マールーシャはすっかり機嫌をよくしている。そろそろ帰ろうというゼクシオンの提案を振り切り、まだこの雰囲気を楽しみたい、とこの店へと足を踏み入れたのだった。

「ご機嫌のところ水を差すようですけど、終電で帰りますからね。もう時間そんなにないですよ」

 たしなめるようにゼクシオンは横目でマールーシャを見た。

「つれないな。せっかく久しぶりに会ったというのに」

 マールーシャはそうおどけながらゼクシオンを覗き込んだ。間接照明を受けて顔の陰影が色濃く出ているのがまた絵になりそうだ。目が潤んで見えるのは、やっぱり飲み過ぎなのだろう。いつも凛とした雰囲気の彼がこんな目で甘えるような仕草をすれば、それなりに揺さぶられるものがある、かもしれない……そんな目をしたって騙されないからな、とゼクシオンは意志を強くする。

「そんな顔したって駄目です。だいたい飲みすぎなんですよ。ワインもあんなに飲んでおいてまだ飲み足りないんですか」
「ワインは一緒に飲んだじゃないか」
「僕は少ししか飲んでないですよ……いりませんっ」

 マールーシャがマティーニのお供のオリーブを、あろうことか『あーん』と言って向けてきたのでゼクシオンはぴしゃりと断った。

「久しぶりにこうして過ごせるのが楽しかったんだ」

 マールーシャはしおらしい顔をしながら行き場の失われたオリーブを咀嚼している。そんな顔したってだめだ、と見ているやいなや、続いてくっとマティーニを飲み下した。彼にしては粗雑な飲み方だ。ゼクシオンが呆れている間にマールーシャはもうバーテンダーを呼びつけている。諦めて好きに飲ませておいた方がいいかもしれない。自分は時間だけ注意していよう。
 マールーシャはメニューを指さしてバーテンダーにオーダーをしていた。

「これを私と――彼にも」

 聞き捨てならぬ注文にゼクシオンはピクリと眉を上げる。

「僕まだこれ飲んでますけど」
「ジュースだろうそれ。ワインだってきっちり半分飲み干しておいて、飲み足りないのはどの口なんだか」

 せせら笑うようにマールーシャは言ってゼクシオンのジンジャーエールのグラスを一瞥する。
 飲み足りないわけではない、とゼクシオンは憤慨する。どうせどれだけ飲んだところでたいして酔わないのだ。財布がいくつあっても足りないから、ある程度飲んだらソフトドリンクに切り替えるだけだ。

「ここは私が持つから、好きなだけ飲んだらいいさ」
「……ほぉー、言いましたね?」

 ゼクシオンがじろりと見やれどマールーシャはにこやかに微笑むばかり。彼の財布を食い潰し、彼をも潰せばそれなりに憂さが晴れるかもしれない……なんて考えがよぎる。いや、そんなことに興じていたら終電どころか朝日が昇ってしまう。わかりやすく酔うけれど彼だって相当な酒豪だ。
 マールーシャが楽しげにバーテンダーから引き継いだグラスを寄越してくるのを受け取った。終電で帰る、終電で帰る、と頭の中で言い聞かせながら、いったい何度目かわからない乾杯を律儀に済ませた後、ゼクシオンはマールーシャの見つめる中グラスを煽る。

 

 

 

「今日はいい飲みっぷりだった」

 部屋に落ち着いてからマールーシャは感心しきりでそう言うと、くつろいだ様子で着ていたシャツのボタンを片手で外していった。

「バーテンダーも驚いていたな。飲ませ甲斐があってよかった」
「うるさい、どけ!!」

 対してゼクシオンはご乱心である。もがいているけれど、マールーシャが上に乗り、更には両手をまとめて拘束されているため抵抗もままならない状態だ。足をばたつかせると、背にしたベッドが大きく軋む音をたてる。

「さすがに少し酔ってきたか? 酔うと怒り出すタイプだったのか」
「もう! 結局こんな時間になって! 今日はうちに泊まるって言ってたじゃないですか!」

 ここは自宅ではない。
 結局あのまま丸め込まれるようにして杯を重ねていくうちに、とっくに終電を見送る時間となっていた。店を出てからもひとしきり責め立てたが、マールーシャはどこ吹く風。タクシーを探すため通りに出ようとするも、肩を抱かれたかと思えば連れてこられたのがこのホテルだった。
 真剣に怒っているつもりなのだが、マールーシャはうんうんと頷くばかりでちゃんと聞いているのかも怪しく腹立たしさが増す。うちに来ると聞いていたから、片付けもしたし明日の朝食などあれこれ準備もしていたのに。

「ごめん、でも、早く二人になりたくて」

 身を屈めて耳元でマールーシャが囁いた。揺れる髪の毛の間から甘い香りが漂う。よく知った香水の匂いに今日はアルコール特有の香りを含んでいた。酔って体温が上がっているせいか、混ざったそれらが濃厚に香る。思わずぐっと黙ってしまう。こうして甘えるように言えばまた流されるとわかってやっているのだ、この男は。そうはわかっていても…………結局また許容してしまいそうになっている自分にももっと腹が立つ。だって、こんなに近くで触れ合うのは久しぶりだ。服越しに触れ合う体温はいつもより高い。酔っているせいか、はたまた久しぶりの再会に昂っているせいか。

「朝帰りをしよう」

 唐突にマールーシャは妙な提案をした。

「始発で帰ろう。まだ暗い朝の道を一緒に歩いて。誰もいなかったらその間は手を繋ごう」
「いやですよそんなの。始発なんてもう数時間後じゃないですか……今日はゆっくり寝たかったのに」

 あなたと。

 こんな戯れだって本当は嫌いじゃないけれど、久しぶりに会って過ごす夜は、その体温を肌で感じながら落ち着いて眠りにつきたかった。

「じゃあ、明日家についてからそれをやろう」
「もう今日ですよ」

 些細なことをやり玉に挙げて噛みついていたが、相変わらずマールーシャはおおらかに頷くばかりだった。
 強い力でまとめ上げられていた両腕も、暴れなくなったとわかれば簡単に解かれた。顔を見られないよう相手の背に手を回し、肩に顔を埋める。悔しい。そうやって宥めていればいいようになると思って。

 身体の触れ合いが徐々に深まり、やがて肌がじかに合わさるようになるにつれ、ゼクシオンの思考もだんだんと曖昧になっていった。物わかりのよいふりをして流されてもいいかな、という気になってくる。朝帰り、してみようか、なんて気になっている。

 まだ冷たく新鮮な空気を吸って静かな朝の道を並んで歩くところを想像しようとする。が、覆いかぶさる青い瞳に覗きこまれて、思考は一瞬で彼に染まる。

 

20231106