いつかまた夢路で - 1/2
どうやら街中で一人立っていたようだ。周囲の雑踏はせわしなく動いているようで、それでいてスローモーションのようにも見える。ざわめきはよく聞こえなかった。
いくら疲れていたとしてもこんな往来で立ったまま居眠りなんてするなんて、とゼクシオンは自分にあきれた。それでもまだぼんやりとした面持ちのまま、大勢の人が行き交う中でゼクシオンは一人立ち尽くしている。流れのはやい濁流の中で、一人浅瀬に取り残されてしまったような気持ちだった。自分は、どうしてここにいるのだろう。
そうだ、待ち合わせをしていたのだった。ゼクシオンは不意に思い出す。待ち合わせ相手のマールーシャはまだ現れていないようだったけれど、目的がわかるとよくわからない場所に一人で佇んでいることへの不安はいくらか和らいだ。こんな雑踏の中でも、彼が現れたらきっと即座に見つけられる。背の高さと桃色の長い髪の毛はどこにいても目立つからだ。
背中を壁に預け、マールーシャが視界に入ってくるのをぼんやりと待つことにした。こうして彼が自分より遅くにくることは珍しい気がする。そういえば、何時に待ち合わせをしたのだっけ。というか今は何時なのだろう。腕時計を見るが、おかしなことに針はぐるぐるとあり得ない早さで回り続けていた。何時に待ち合わせたのかもわからないのに、遅刻という概念はあるのだろうか?
時間を知るすべがなくなったので、仕方なく待ち続けるほかあるまい。しかし待ち合わせ場所はここでよかったんだろうか。今日の目的は、なんだっただろうか。ゼクシオンは考えをめぐらす。なぜ、こんなになにもかもが曖昧なのだろう。
なにもわからないまま、雑踏を眺め続けていた。いいや、彼がきたらきっとどうにかなるだろう。自分はどんなに人が多くたって彼のことを見付けられると自負しているけれど、きっと彼だって自分のことを見付けだしてくれるはずだ。
なんて、甘えきったことを考えていた矢先に、ぽんと背後から肩をたたかれた。ああ、やっとか。ちょっと遅いんじゃないですか、と皮肉の一つでも言ってやろうかと思ってゼクシオンは振り返った。
そしてそこに立つマールーシャを見たとたん、予想を裏切るその姿に喉元まで出かかった言葉は行き場を無くしてしまった。
マールーシャはいつものようにスマートな出で立ちだった。ネイビーブルーのジャケットとスラックス。丸首の白いシャツが見える。休日のよそいきの格好だ。足元まで目がいかないが、よくなめしたいつもの革靴を履いているに違いない。ジャケットに当たってはねる明るい桃色の毛先が映えている……はずだった。
あるはずの毛束がさっぱりとなくなっていた。
うなじが見えるくらい短く切りそろえられた毛先。いつも滅多なことでは見えない耳まですっかり露わになっている。ずいぶんと毛量の減った頭部はいつもよりも小さく見え、いつもの優美な印象と一転したさわやかな印象を与えていた。
見たことのないマールーシャの容姿にゼクシオンはしばし唖然として相手を見つめた。
「え……それ、髪……切ったんですか?」
「ああ。どうだろうか」
マールーシャ自身は気に入っているのか得意げに微笑んでゼクシオンに感想を求めたが、まだ状況を飲み込めないでゼクシオンは短くなった毛先を見つめるばかりだった。
「なんでまた……」
「心機一転しようと思って。ずいぶん頭が軽くなったよ。なんだかまだ慣れないけどな」
照れたように笑ってマールーシャは手を首の後ろにやった。あるはずの毛束を探しているようにも見えた。
「……変だろうか」
「いや、そんなことは」
「ほめてくれないな」
マールーシャがすねるように言うのでゼクシオンはあわてて弁明するように口を開く。
「びっくりしたんですよ。これまで長いところしか見たことなかったし、切るつもりだなんて聞いていなかったから」
「それもそうだな。急に思い立ったんだ。善は急げというだろう」
「はあ」
それにしたって急すぎる。出会ってからずっと彼の髪の長さは一定以上には保たれていたのだ。マールーシャだって随分思い切ったに違いない。
「……似合ってますよ、短いのも」
ゼクシオンが遠慮がちに言うと、マールーシャはようやく満足げにうなずいた。まるで言わされたみたいだけれど、ちゃんと本心だ。ただ、こうも印象が変わるのかと、そこそこ長い付き合いのはずのこの男が突如として知らない人になってしまったようで落ち着かないのも事実だった。
じゃあ行こうか、とマールーシャが歩きだしたので追いかけるように続いて隣にたった。壁にもたれながら雑踏を眺めていたはずなのに、気付いたら背後に壁はなく、二人はすぐに雑踏の一部となった。
乳白色の世界を並んで歩く。周囲は人ごみでごった返しているけれど、となりの存在はやっぱりその中でも特別際立っている。いつだって彼は人目を引くけれど、最近では慣れてしまって何とも思わなくなっていた。すれ違う女性が振り返って彼に視線を送ることすらあまり気にならなくなっていた。
けれど今日は、きっと誰よりも自分がマールーシャのことを気にしている。これまでと雰囲気の異なる恋人を静かに観察する。
いつもは柔らかく靡く髪が中性的な美しさを演出していたが、短髪になったことによって太い首が露わになり、しっかり男性的に見えた。毛量が減った分頭は小さく見える。肩幅が広いのも、いつもより目立つような……。よく知ったひとのはずなのに、髪型ひとつでこうも印象が変わるのかとゼクシオンは不思議な感覚で幾度も相手を盗み見た。歩く速度も歩幅も慣れ親しんだ感覚なのに、見上げれば別人のような横顔。何度も見上げては知らぬ人のようで身構え、けれどその柔らかい毛質と桃色を知っていることを思い出すとやっと少し安堵する。
「……そんなに意識されるとなんだか照れるな」
いよいよマールーシャはそう言って苦笑した。あまりにもゼクシオンが視線を投げかけるのに当然気付いていたであろう。自分までいつもと違ってしまっているようなことに気付いてゼクシオンは決まりが悪くなる。
「だってなんだか別人みたいで、いつもと全然違うんですもの」
だいたいうなじやら耳やらは、普段の彼なら滅多に人目に見せない場所なのだ。自分だけが……そう、たとえば、二人で過ごす夜にふれあいが深まるとやっとお目見えできる、そんな場所だったのに。
こんなにも様子の違った恋人と並んで歩いていると、なんだか浮気してでもいるかのような、罪悪感のようなよくわからない感情に苛まれる。見慣れぬ姿にどぎまぎしているけれど、でもよく見ればちゃんと知った人物なのだ。混乱を極める。
マールーシャはゼクシオンがそうやって複雑な思いでいることをわかってはいるようだった。
不意に足を止めるとゼクシオンに向き直り、目にかかる前髪を払って意地悪くのぞき込んでくる。鼻先が触れそうな距離まで接近してゼクシオンはぎょっとした。往来で、こんな近くに顔を寄せたのは初めてだ。
「じゃあ、今日はいつもと違うことをしようか」
そう言って弧を描く赤い唇を、ゼクシオンはどぎまぎしながらみつめた。
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「……本当にここにはいるんですか?」
できるだけ声を潜めたつもりだったけれど、誰もいないロビーで声は反響を伴った。
不自然に静かな空間に萎縮してしまう。だってこんなところ、初めて足を踏み入れた。
「趣向を変えてみるのも悪くないと思うが」
対してマールーシャは何の恥じらいもなくいつもの調子で淡々と話しながら、目の前のタッチパネルを操作している。何か希望のものがあるかと聞かれ、ゼクシオンは黙って首を振った。初めて足を踏み入れる空間だ。怯えるようにあたりをきょろきょろと見渡して落ち着きがない自分に対し、マールーシャは堂々としている。きっと利用するのも初めてじゃないのだろう。わかりきったことを考えると胸の中がもやついた。
じじ、と音を立ててタッチパネルが下部から何かを排出した。カードキーだ。これから向かう部屋のものだ。
この手のホテルにマールーシャと入ったのは初めてだった。同性同士で入ることははばかられるし、互いに誰の邪魔も入らない部屋を持っているので外部に場所を必要としたこともない。加えてゼクシオンは潔癖気質なので、こんな公共の場と言っても過言ではない場所で事に及ぶなど、本当なら願い下げたいところである。
けれどあのとき、蠱惑的にほほえんだ彼に目を奪われているうちに、ちょうど目の前に現れたそこにひょいとはいりこんでしまったのであった。熱くなった手に手を取られて。
「いつもと違うことをしよう」と彼は言った。たしかに二人にとって初めての試みである。その上マールーシャはカードキーを手にして振り返ると、横に並んだゼクシオンの腰にあいた手を回して抱き寄せた。触れる指先の意図を受け取り、服の下で肌が粟立つ。とはいえこんなところに足を踏み入れた段階で互いにその気があることはわかりきったものではあるけれど。
いつものマールーシャらしからぬ振る舞いだ。ついさっきされたように、家の外で顔を寄せたり身体に触れたり、こういった戯れも、彼の言う「いつもと違うこと」なのだろう。
言葉少なく、部屋に続く廊下を歩いた。しんとした廊下に並ぶ扉の一つ一つの先で誰かが情を交わしているのかと思うと何とも言えない気分になる。間もなく自分たちがその一部になっていくのだと思うと、なおさらいたたまれないような気持ちになった。
道中誰かと鉢合わせでもしようものならどうしようと気が気でなかったが、キーがかちりと音を立て、扉の隙間から身を滑り込ませるようにして二人が部屋に入るまで誰とも会わずにすんだ。
ガチャリと施錠の音がした瞬間、まだ暗い玄関に立ったままゼクシオンはマールーシャの腕の中にいた。
不意打ちのキスはいつもよりも強引だった。腕の中にいたと思ったのも束の間、壁を背に追い詰められて身動きが取れなくなる。相手のペースに飲まれまいと慌てて相手の背に腕を回すも、息つく間もない舌先の動きに翻弄される一方で。
「ちょ……マ……ん、ぅ、待っ……んんっ」
あまりに執拗で面食らった。抵抗のつもりで服を握るも、その意図が伝わるとすぐに手首を掴まれ壁に縫い留められてしまった。啄むようなキスの合間に服の上から身体を撫でられ、思考が沸騰していく。呼吸もままならず、頭が真っ白になる。触れる舌の生ぬるい感触と、すぐそばで香る花の匂いが意識を埋めていく。空気を求めて喘いでいると、離れた矢先に首筋を吸われた。なんの躊躇いもなく強く吸う音がして、小さな違和感が肌の上に走る。彼が、けものになっていく。
「待てだなんて、どの口が」マールーシャはそうせせら笑う。「今すぐ抱かれたいって顔してる」
耳元で囁かれ、その瞬間ぶわ、と血が顔に昇った。いったいどんな顔をしていたというのだ。
けれど、いつもと違った姿に密かな高揚を感じていたのも、じつのところ事実である。ゼクシオンは何も言えず唇を噛む。
反論する間もなく今度は耳を吸う感触、そしてその音が鼓膜に響く。自分を支える力が緩むと、いつの間にか相手に縋っていた身体ががくりと崩れそうになった。まだキスをしただけなのに腰が砕けてしまったみたいだ。こんなの、いつもと全然違う。
濡れた口元を拭う間もなく、手首を掴まれたままひきずられるようにしてそのまま部屋の奥へ進み、ベッドの上に折り重なった。背中にマットレスのスプリングを感じ、視界に映るのが彼の眼差しだけになったそのとき、ようやく安堵に似た感覚を得た。ここがどんな場所かなどもうどうだってよかった。こうなると、完全に二人の空間だ。欲しかったものが、やっと手に入ったのだ。けものになりさがっているのは、自分もまた同じだった。
抱き寄せようと手を伸ばし首に腕を回すと、いつもそこにあるはずの毛束がないことに再び気付く。
物事には決まった段取りというものがある。マールーシャはキスの前にゼクシオンの右目にかかる前髪をそっと払い、あらわになった瞳を十分見つめてから触れ始める。そういう暗黙の了解のようなルールが、二人の間にはいくつもある。自分だって、触れ合う合間に腕を回したときは、いたずらにはねる彼の柔らかい毛束を指先に弄ぶのが常だった。
なのに。
空を掴むような感触。キスのとき顔にあたる毛もない。邪魔だから切ってくれなどと軽口を叩いておいて、失われてしまった今、急に寂しくなった。今自分の腕の中にいる恋人が、別人に置き換わってしまったかのようだ。
マールーシャの後頭部に手を添えると、知った毛質が控えめに、柔らかく指に馴染んだ。ずいぶん少なくなってしまったその感触が愛しくて、ぎゅうと抱き寄せる。催促と捉えられ、キスは一層深まった。
慣れない相手の所作に溺れまいと抱く腕の力を込めると、不意に砕けるような感触が腕に伝わった。少し尖った形の耳も、頑丈な首も、意地悪く微笑んでみせる表情も、マールーシャの形を成していたものが、すべて曖昧になっていく。手に留めようとも叶わなかった。指先に感じていた毛先の感触が恋しくてたまらなかった。知らぬ他人のようだと思ったその輪郭さえいとしい。
最後に腕の中に残るのは、柔らかな布団の感触だけ。
「ああ――」
思わず声を発して――その声にゼクシオンは目を覚ました。
「ああ――」
――夢?
寝起きのぼんやりとした頭のままゼクシオンは天井を見つめた。急に現実に引き戻されて、さっきまでの映像と今置かれている自分の状況とを結びつけるのに少し時間がかかった。
見慣れた自室の白い天井、うすぼんやりとした日の光がカーテン越しに部屋を明るく染め始めているのをみつめているうちに、徐々に状況が呑み込めてくる。朝だ。まるで夢の情景にすがりつくように、身体に掛かる掛布団をやたらに強く抱いていた。心だけ、まだあの部屋の中に置いてきてしまったかのようだった。
目を閉じ、長いため息をついた。さっきまで脳内で繰り広げられていた情景を反芻する。穏やかな付き合いの中で久しく感じていなかった熱烈な高揚を、何とも言えない気持ちで味わう。妙にリアルで、感じた劣情は生々しかった。なんて夢を見たんだろうと頭を抱えたくなる。欲求不満だったのだろうか。そういえば昨夜は触れ合いも少なくベッドに入るやいなやすぐに寝てしまったっけ。久しぶりの泊まりの夜で浮かれていた割にはあっさりしたものだった。付き合いも長くなってきたしそんなものかと頭では納得したつもりでいたものの、物足りなさを感じていた自分もいたのかもしれない。
(……だからと言って、隣りに居ながらにしてこんな夢を見なくても)
おそるおそる隣を見やると、マールーシャはまだ安らかに寝息を立てていた。穏やかな表情で熟睡しているように見える。夢は見ていないのだろうか。妙な夢を見て身体を火照らせている自分とは正反対に思え、少し苦い気持ちになる。
布団の中でそばまで寄り、手を伸ばして髪の毛に触れた。柔らかい癖っ毛。手に余るくらいたっぷりと豊かな桃色の毛束。――そう、これこれ。よく知った恋人の容姿にようやくゼクシオンは安堵した。やはり、こうでなくては。
柔らかな髪の毛を好き勝手に弄んでいると、煩わしかったのだろう、マールーシャが眉根を寄せながら瞼を開いて眠たげにゼクシオンを見た。
「……なんなんだいったい」
「いえ、別に」
澄ましてあしらうも、マールーシャは何か考える様子で黙ったあと、そっと布団を持ち上げてゼクシオンが隣に来れるようスペースを作った。ためらいながらも――なにせ身体が随分火照っているし――ゼクシオンは身を滑らせてマールーシャの真横まで移動した。近付くと枕の上に広がる桃色の髪の毛の先がチクチクと顔にあたるのも、今日は嫌じゃなかった。
「……なんだ、欲求不満なのか」
「えっ?」
「今すぐ抱かれたいって顔してる」
ぎょっとしてゼクシオンは髪の毛をいじる手を止めた。が、その手にはもうすでにマールーシャの指が絡んでいた。
マールーシャの目はもう眠たげなとろみは消え去っていて、夢に見た蠱惑的な色を湛えている。
20231111