溺愛

 ゼクシオンを探すなら本のあるところをあたるべし、というのは機関内ではあまりにも有名な話である。

 機関員の大半が決して進んでは近寄ることのないエリアにマールーシャは足を踏み入れようとしていた。ただの物置とばかり思っていたこの部屋は、どうやらその多くが古い資料やら書籍やらといったもので構成されており――つまるところ、やはり“物置き”なのである――、呼ぶ人には『資料室』などという大層な呼ばれ方をされているらしい。
『ま、あんなところに好き好んで近寄るのはヴィクセンかゼクシオンくらいのもんだろうよ。部屋にいないなら大抵はそこにいると思うから、急ぎの用なら覗いてみれば?』
 城内でゼクシオンが見当たらないので問いかけたところ、アクセルはそう言って見知らぬ部屋の所在を教えてくれたのだった。

 建付けの悪い扉を開けて中に入り込むと、ところ狭しと書物が詰め込まれた棚が眼前に飛び込んできた。棚だけにとどまらず、書物や乱雑にまとめられた書類がそこかしこに積み上げられている。埃っぽい空気の中に古書の匂いが鼻をついた。換気用の窓なんかない部屋にこれだけ雑多に押し込められていれば黴の餌食になるのも無理はないとマールーシャは考える。
 奥の暗がりに目を凝らすと、薄暗い照明を受けて棚の陰から顔をのぞかせたゼクシオンと目が合った。こちらの素性が分かると驚いた顔をしてゼクシオンは姿を現した。両腕に、何冊も本を抱えていた。

「マールーシャ……いつ戻ったんです」
「ついさっきのことだ。アクセルから、ここにいるんじゃないかと聞いて来てみた。……部屋にも広間にもいないから探した」
「そうでしたか」

 ゼクシオンは歯切れ悪く答える。胸の内に思うことがそれなりにあるようではあるが、口には出さないことにしたらしい。たとえ再会を喜ばしく思ったとしても、まさかこんなところでハグをするわけにもいかないだろうから、もの言いたげにこちらの様子を窺うばかりだ。

 彼、ゼクシオンとマールーシャは、忘却の城での共同任務などをこなすうち、いつしか他の機関員たちには言えないような秘めた関係になっていた。小さな執着から始まったこの感情がこんな形で落ち着くとは思ってもみなかったし、それがヒトの言う“愛”だとかいったものとは似て非なるものであることは重々理解しているけれど、この半端な身体で過ごす退屈な日々を紛らわすにはうってつけの関係だとマールーシャは割り切っている。ゼクシオンのほうも同じようなものだろう。彼は彼で、心を持たぬノーバディ同士がこういった関係性に及ぶことについて、なにかしら探求心のような目線で成り行きを見ているようだった。どちらにせよ、退屈凌ぎに他ならない。

 さて、ここのところ命ぜられた任務でしばらく城を空けていたマールーシャは、無事の帰還を遂げてふとパートナーの顔を見たくなったのだった。急な任命だったため、何も告げずに発っていた。顔を見なくなって久しい。ゼクシオンの様子を見るに、彼の方も多少は不在を気に掛けてくれていたようだ。それが分かっただけでも顔を見に来た収穫はあったなとマールーシャは思う。

「それはそうと、こんなところで何をしているんだ」
「資料集めです……今、取り組もうと思っている研究に先立って必要なものをいくつか」

 ゼクシオンはそう言って、やっと両腕に抱えた本をわきの机の上に置いた。ポケットからだして彼が見せたリストには本のタイトルが走り書きされているが、その量はちょっとしたものだ。「こんなにひとりで持ちきれるのか?」と問えば、「まあ、今日のところは持てるだけにしようかと」とゼクシオンは肩をすくめた。
 マールーシャは少し身を屈めると、耳元で囁く。

「この後の予定は」
「…………急ぎの用は、特にありません」

 俯いてそう答えるゼクシオンの様子を、マールーシャは満足気に見つめる。難儀な任務を終えたのだ、少しぐらい褒美にありついたっていいはずだ。この後の時間を二人で過ごすことに、彼も悪い気はしていないように見える。

「……本を集めてしまうので、先に戻っていてください」

 ゼクシオンはそう言うと気を取り直した様子でせかせかと動き始めた。あちこちから本を集めて机の上に積んでいく。この雑多な部屋の中で、メモにある大量の本の場所はあらかた把握しているらしい。順々に積まれていく本の山を見て、よくもまあこんなに読むものだと呆れそうになる。先に戻るよう言われたものの、ようやく会えた手前なんだか離れがたく、結局マールーシャもそこにとどまって彼が動き回るのを見守ることにした。
 高い場所の本は手が届かないらしく、踏み台になるものを運んでくるとゼクシオンはひょいとその上に乗った。

「私が取ろうか」
「結構……です……」

 手を借りるのが癪なのであろう、ゼクシオンはそう言うも、踏み台の上で背伸びをして手を伸ばしたところで背表紙に触れるのが精いっぱい、分厚い本を取り出すのは危うく見える。
 苦笑してマールーシャはゼクシオンの背後に歩み寄った。踏み台に乗ってなおゼクシオンはマールーシャの身長と同じくらいの高さだ。もともと頭一つ分くらい身長が違うのである。あ、とゼクシオンが声を上げるのを他所に、マールーシャが手を伸ばせば目的の本は難なく手にすることができた。

「もう……いいって言いましたよね」

 不本意そうに言ってから、本を受け取ろうとゼクシオンは振り返った。眼前で彼の髪の毛が揺れた。

 不意に彼の匂いを嗅いだその瞬間、マールーシャは、その時二人が思いのほか近くにいることに気付いてしまった。

 そうして、無意識のうちに自分が思いのほか相手を欲していたことにも。

「……あ、ちょっと!」

 ゼクシオンが声を上げたのは、受け取ろうとした本がばさりと音をたてて床に落ちたからか、はたまたマールーシャが背後から身体を抱きすくめたからなのか。
 本には構わず、マールーシャはゼクシオンを抱いたまま襟足に鼻先をうずめ、その匂いを深く胸に吸い込んだ。彼の匂いはなんとも形容しがたい。甘いとも爽やかとも違う。単に石鹸だとかそういったものでもない。彼が内側から発するものの匂い。当然不快なものではないのだけれど、儚くかすかに香る何かがマールーシャを強烈に惹きつけてやまないのだ。
 腕の中に強く抱いてその形を確かめ、肺腑に吸い込んだ匂いで彼の存在を確かめる。髪の毛を分けた先の肌に口づけ吸い付いた。躊躇いもなく強く吸うと彼が身をすくめて反応するのがいじらしい。白い首に赤い痕が残ったのを見て、彼が自分のものであること確かめる。彼への欲求が止まらないものになっていく。

 服の間から手を差し入れようとして、自分が手袋をしていたことに気付く。もどかしい。じかに触れたいのに。何とか片手だけ脱ぎ捨ててから、露わになっている喉元にそっと触れた。喉の張りに触れると、ゼクシオンが息を飲んだのが伝わった。ごくりと唾を飲み込むのも、彼の呼気も、皮膚を超えてこの手に伝わる。肌で感じる生に、例えようもない興奮を覚える。
 首筋を伝い、胸元まで手を伸ばした。服の下に手が潜り込むとゼクシオンは腕の中で身を捩るが、強い拒絶がないのをいいことにマールーシャはそのまま手を進めた。触れた肌が粟立っている。手が冷たかっただろうか。体温を馴染ませるように撫でさすりながら、やがて胸の突起に指先が触れた。

「待っ……!」

 いよいよ止めようとして腕を掴まれるが、マールーシャは構わずに突起を強く摘まんだ。堪えきれなかった声が部屋に響き、腕の中で強く身体が跳ねるのを、大切に守るように抱き続けた。……そんな目で睨まれても逆効果というものだ。振り向いた唇を奪い、言いかけた彼の言葉すら飲み込んだ。ゼクシオンが腕を掴む力が増す。マールーシャは全ての感覚を相手の中に潜らせる。……溺れているのは、どちらだったのだろう。
 執拗な舌の絡まりの末、ゼクシオンが体重をわずかにこちらに預けたのがわかった。それに許されたような気になって、交わりはさらに深く――。

 

 カツ、と足音がした。
 徐々に大きくなる、硬い床をブーツの踵が叩く音。
 部屋の外を、誰かがこちらに向かって歩いてきている。

 途端に二人して我に返り、弾かれたように身体を離した。まだ息の整わぬまま、緊迫の面持ちで扉を見つめ、誰かが入ってくるかと身構える。
 足音はゆっくりと近付いてきたものの、資料室に用はなかったのか、そのままゆったりとした足取りのまま通り過ぎていった。
 足音が完全に聞こえなくなるまで、二人は微動だにできずにいた。


 静寂が戻ってきてから、ようやく二人は顔を見合わせた。どやされるかと思いきや、ゼクシオンは珍しく狼狽した様子で、やっとのことで乱れた服を手直しした。マールーシャも調子を狂わされ、煮え切らない思いで長く息をついた。こんなところで事に及ぼうとするからだといわれてしまえばぐうの音も出ないけれど、不完全燃焼なのは、多分互いにそうであるからにして。

「……本、集めたらどうだ。半分私が持とう」
「……ありがとうございます」

 マールーシャの申し出に、ゼクシオンはぎこちなく本を集め始める。何事もなかったかのように、かつ合法的に彼の部屋に行く理由をつくる。こんな場所に長居するからいけないのだ。さっさと私室に移動するに限る。

 ゼクシオンが本棚に向かっている間に、さきほど落とした手袋を見付けた。
 マールーシャは身を屈めてそれを拾うけれど、てのひらに感じた肌の感触を思い出すと、嵌めることはためらわれた。

 

20231126