雪垂の恋心

 改札を抜けて外に出るとぴりっと張り詰めた冷たい空気が頬を掠めた。曇天だけれど、先程までちらついていた雪はやんだらしい。車窓からの景色は昨日から降り続いていた雪ですっかり白く染まり、見慣れた街並みがまるで別人の顔をしているのを物珍しく眺めたものであった。
 開こうとしていた折り畳み傘は鞄にしまうことにして、ゼクシオンは白い世界の中に足を踏み出していく。薄くではあるがこのあたりの地域で雪が積もるのは珍しい。空気は冷たく澄んで、吐く息は白かった。電車の中は暖かかったけれど、冷たい外気はすぐにその熱を冷ました。不快感はなくむしろ爽快な気持ちで、ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏みしめながら、まだ誰の足跡もついていない道を進んだ。雪の日、休日の早朝ということもあり、出歩いている人もほとんどいない。誰にも見咎められることなく、ゼクシオンは新雪に足跡を残すことをささやかに楽しむことができた。待ち合わせ場所は駅構内だったけれど雪の影響で電車が遅延していると連絡があったので、相手が来るまでの時間を小さな冒険に費やしてもいいかなという気分になったのだ。

 駅前のロータリーは閑散としており客待ちのタクシードライバーが退屈そうに連なっているばかりだった。乗り場の近くに垣根があり、赤い花がいくつも咲いているのが見えたので何気なくゼクシオンはそちらへと足を向けた。
 雪は花の一つ一つにも薄く積もり、けれどそれでもなお凛と咲いている。濃い緑の葉と赤い花弁に白い雪が映えていた。ツバキだろうか、とゼクシオンは花の品種に見当をつける。肉厚な赤い花弁と鮮やかな黄色の蕊はよく知った絵だった。寒さゆえかいくつか花弁が地に落ちているけれど、それすらも雪に生えて目に鮮やかだった。寒さに強い花だと言って花をいとおしげに見つめる横顔が、不意に脳裏によぎる。すっかり毒されているな、とゼクシオンは影響されやすい自身に呆れる。こうやって道端の草花に目を向け果ては足を止めるなど、少し前の自分では考え至らなかったことである。

 突然背後からぽんと肩を叩かれ、驚いたゼクシオンは縮み上がった。声をあげそうになるのを何とか飲み込んで振り返ると、黒いロングコートに身を包んだマールーシャが悪びれもせず微笑んでいた。

「……気配消して背後に回るのやめてもらえませんか」
「普通にやってきたつもりだがな。何をそんなに真剣に見ていたのかと思えば……」

 マールーシャはそう言うと、不機嫌そうに睨むゼクシオンの視線をかわして背後の垣根に目をやった。別に真剣なんかじゃない、何も考えずに見ていただけだ、と反論しようとするも、花とゼクシオンとを見比べて嬉しそうにしているマールーシャを見たら、反論したい尖った気持ちはなんとなく自分の中で有耶無耶になっていった。

「寒さに強い花なんですね」

 視線を花に戻してゼクシオンは言う。マールーシャも頷いた。

「けれど、そろそろ見納めだろう。二月まではよくもった方だ、サザンカにしては」
「さざんか? この花が?」

 聞きなれない単語にゼクシオンは振り向いてマールーシャに聞き返した。

「ツバキかと思ったけど違うんですね」
「よく似ているよ。同じツバキ科の花だ――わかりやすい特徴がある」

 そう言うとマールーシャは地を指さした。つられてゼクシオンも下を見る。白く積もった雪の上に、またひとひら花弁が舞い落ちたところだった。

「サザンカはその生を終えるとき、こうして花弁を散らす」
「普通そうじゃないですか、花なんて全部」
「ツバキは違う。形を保ったまま首が落ちる」
「……首が……」

 その時、なぜかマールーシャの目が一瞬怪しい光を帯びた気がした。ほんのわずかな時間、彼の中に何か呼び覚まされたものを見たようですっと背筋が冷えた。
 どきりとしたのも束の間、すぐにマールーシャはいつもの調子に戻って――あるいは自分の勘違いだったのかもしれない――「これは花弁が一続きに繋がっているためで……」と花の説明に戻っていた。なぜだろう、花の話をしているはずなのに、彼が何か違うものを思い描いて話をしていると思った自分がいる。
 マールーシャは続ける。

「ツバキは潔い。美しい姿のまま生を終えるところが良い。でもサザンカのように儚く身を散らす姿も情緒があっていいな……ゼクシオンはどっちが好みだ?」
「……別に、散り方の違いくらいでどっちもなにもないです」
「散り方の他にも見分け方はあるぞ。例えば葉の形を見ると……」
「はいはい、花のことはもういいですから。行きましょう、骨まで冷えてしまう」
「ああ、それは間違いない。待たせて申し訳なかった、何かあたたかいものでも飲もうか」
「……あ」

 あたたかいものと言えば。ゼクシオンはコートのポケットを探った。

「……これ、あげます」
「なんだ? 缶コーヒー?」
「間違えて買ってしまったんです。僕、甘いのは苦手で」

 自動販売機でブラックコーヒーを買うつもりが、誤ってすぐ隣のものに触れてしまったのだ。持て余した微糖の缶コーヒーはポケットの中でカイロの代わりに役立ってくれていたが、口にするにはぬるくなりすぎているような気もした。
 いらないものを押し付けただけに過ぎないのに、マールーシャは仰々しくそれを受け取って大層嬉しそうにするものだからゼクシオンはなんだかいたたまれない気持ちになった。

「嬉しいよ、ありがとう。何でもご馳走しようと言おうと思ってたのに、先にいただいてしまうとは」
「本当ですか、遠慮なくご馳走になりますよ」

 淡々とゼクシオンが返事をしても、マールーシャは無邪気に笑う。笑うと息が白く立ちのぼって柔らかい印象だった。もう得体の知れない怖気は影もない。

 マールーシャに促されながら町の賑わいへと足を向ける。マールーシャがあれこれと話をするのを聞きながら、そっと背後を振り返った。
 垣根は遠く離れていたけれど、白い雪の上に飛沫く赤が鮮明に目に焼き付いた。

 

タイトル配布元『icca』様

20240214

※付き合ってない