あまいかおり
いつしか二人の関係に名前がついてからも、そうした過ごし方は変わっていない。晴れた日も雨の降る日も、二人で過ごす静かな時間をゼクシオンは気に入っている。
珍しく自宅で過ごすのはどうかと提案を受けたその日は雨が降っていた。こんな日はよく利用する喫茶店もいつもより客足が増すし、自宅ならもっと気兼ねなく過ごせるだろうから、ともっともらしい理由をはじめは述べていたが、本当はインドア派なんだ、とマールーシャは打ち明けるように付け加えた。その告白は少し意外に思えた。誰とでも、何処へでも出掛けていきそうなのに。ゼクシオンはといえばもとより室内で一人で過ごすことが性に合っていた。毎度どこに行くか考えるのも億劫だし、自宅が選択肢に入ることは単純に楽でいいと考えた。店には劣るかもしれないけれどコーヒーもいいのがある、なんて言われたら、断る理由はなかった。
それにしても、初めて訪れる彼の自宅はどんな風なのだろう。互いに男の一人暮らしではあるが、学生である自分のそれとは違ったものだろうとゼクシオンは考えをめぐらす。彼の美的センスは自分とは全く違う方向性で秀でているし、きっと内装などにもこだわっているのだろう。彼のことだからそこかしこからいい香りがするに違いない。……現に、今もしているし。
「どうかした? 酔った?」
隣りから声を掛けられ、ゼクシオンはゆるりと首を振った。黙りこくって窓の外ばかり見ていたから心配されたのかもしれない。
運転席のマールーシャは機嫌がよさそうだった。真っすぐ正面を見ながら、もうすぐ着くから、と告げた。車に乗って向かっているのは彼の自宅だ。いつもと同じ休日でも、場所が変わるというだけでなんだか少し落ち着かない心持ちになる。それが初めて訪れる恋人の家なのだから当然といえばそうかもしれない。
雨に濡れた景色をぼんやりと眺めながら、車内にただよう甘い香りに意識を傾けていた。
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通されたマールーシャの部屋は、おおむね予想通りのものだった。
玄関をくぐった瞬間、やっぱり甘い香りに気付いた。いつも彼が纏っている香りだ。香水かと思っていたけれど、家からしていい匂いなんだ。なんというかさすがである。ゼクシオンは比較的匂いには敏感で、他人の発する匂いが強すぎると具合が悪くなることもこれまで幾度となくあった。マールーシャも常々何かしらの香りを纏っていたけれど、彼の香りはそこまで気にならない。その甘さは人工的というよりはむしろ花のようで、重たさばかりではない自然な爽やかさがあるからかもしれない。ディフューザーでも置いているのだろうか。よく見る瓶に棒が何本か刺さったようなあれを想像して辺りを見渡せど、それらしいものは見当たらなかった。部屋が花だらけなのかと思いきやそんなこともなく、置かれている植物と言えば背の高いパキラの鉢が一つ。当然花はついていない。ベランダにもいくつか鉢が置かれているのが見えるけれど、さすがに匂いの根源とは思い難い。
「何もなくてつまらないだろう」
マールーシャは言った。スタイリッシュなマンションの一室は、家具の少なさも相まってゼクシオンの自室よりも随分広く見える。
「生活感ごとないですよ、本当に住んでるんですか?」
「このために昨日片付けたから」
マールーシャは冗談めかして笑うが、一日そこらでどうにかなるのはもともときちんと整理されている証拠である。自分の部屋と対比しようとして、比べるまでもなく自宅が本であふれていることを思い出した。ついこのあいだ増設したばかりの本棚にすら収まりきらず積みあがった本で雑然としている。もしも彼がうちに来たいと言っても、一日そこらでどうにかなるとは思えなかった。
……ふと思った。このために片付けたって、ひょっとして最初から今日は家に呼ぶつもりだったということなのだろうか?
「寝室は別であるから生活感なく見えるんだろうな。家でも仕事をすることが多いから、そこは線引きをしようと思って」
「……ふうん」
見えるところにベッドがないのには気付いていた。なんとなく意識しないようにしていたというのに、淡々と話すマールーシャの言葉に不意に出てきた寝室というワードにどきりとした。自分の咄嗟の相槌は、不自然じゃなかっただろうか。自然に流せただろうか。
ところがマールーシャは追い打ちをかけるように、「寝室も見る?」と問いかけてきた。
「えっ……あ、じゃあ……」
今度は完全に動揺が出てしまった。なんで聞くんだ。まるで、自分のせいみたいじゃないか。
廊下から続く扉をマールーシャが開けた瞬間、濃密な香りを感じた。この家の中で一番香りが強い。ここだったのか、と思う。不快ではないけれど、こんなに濃密な香りの空間にいたらそれで頭がいっぱいになってしまう。
寝室も実にシンプルなものだった。サイドテーブルと間接照明、そして大きなベッド。自分のベッドよりも大きい。出しっぱなしの服なんて当然なくて、結局ここにも生活感なんてない。
ベッドしかないのでもう見るものもない。なのに、マールーシャは出ていくどころかそのまま寝室の扉を閉めた。思わず相手を見上げた。こちらを見つめる眼差しに身がすくむ。その目は、ずるい。
黙ったままマールーシャが身を屈めるので、それに合わせるように目を閉じていた。触れる間際、一層強くなる甘い香りに脳が溶けそうになる。頭がふわふわとして足元がおぼつかない。酒に酔うとき、こんな感覚なんだろうか。脳が痺れるような、自分がだめになっていく感覚なのに身を投じてしまいたくなるような。何も考えられない。思考が、香りに遮断される。
シーツに身体を横たえ相手の体温を肌で感じると、もう逃げられない。彼から、この香りから――。
+
自分の服にまで香りが移ったんじゃないかと、拾ったシャツの匂いを嗅いでいたらマールーシャに笑われた。
「この部屋、ずっといい匂いがしているから」と告げると、マールーシャは嬉しそうにしていた。
「ありがとう。特に何か置いてるわけじゃないんだが」
「え? ないんですか? ディフューザーとか」
「ないよ、部屋に花を置いていることが多いから。まあ今は咲いているものもないけど」
「じゃあ、香水?」
「香水も使うけど、寝室には置いていないな」
そう言うと、マールーシャは目を細めてゼクシオンを覗き込んだ。
「何が、好きな香りだったんだろうな」
身を乗り出した相手から、あの香りが漂っている。
20240606