優等生くんのユウウツ

 流していたラジオが切りよく番組を終えたのをしおにゼクシオンはデバイスの電源を落とした。両腕を頭上に伸ばし凝り固まった背筋を伸ばしながら、乱雑にものの広がった机上を眺めた。ノートパソコンは触らない時間が長くスクリーンセーバーが起動している。周りには、読みかけの論文を印刷したものがあちこちに広がっていた。期末の課題を片付けねばならぬというのに、ゼクシオンはどうにも集中できずにいた。無音が気になると思えばラジオを付けて、ラジオの音声が気になると思えば電源を消して。結局、音があろうがなかろうが、レポートはほとんど進んでいないという事実を目の当たりにしてため息をつく。

 本来、勉強は苦にならないタイプだ。本を読む習慣が身についているおかげで、論文を読むのもさほど苦ではない。けれど今はどうしても身が入らないのだった。ふと気づくと違うことを考えているし、スマートフォンが気になってつい手に取ってしまう。画面を覗き込めど、何の通知も来ていない。

 ……ああ、やっぱり連絡を待っているのだ、と自分の行動を反芻してゼクシオンは苦笑する。普段なら夜の時間にぽつぽつとやり取りを交わす相手からの連絡がないことに気を揉んでいるのだ。今日に限った話ではない。試験期間だと伝えたせいでしばらく連絡が落ち着いてしまったのは、こちらの状況を気遣って控えているのかもしれない。或いは単純に相手も忙しいのか……。

 デスクの脇にスマートフォンを伏せると、再び目の前の論文に向き合った。せめて、この段落は集中して読もう――……。

 

 そう思ったはずなのに、ブブ、とスマートフォンが振動したのをペンを放り出す勢いで掴んでいた。
 トークアプリの通知が画面に光っているのを見て、はやる気持ちでメッセージを確認する。

 

『やっほー! 勉強頑張ってる? 全然集中できなくて、ラーメン食べに来てます(笑)』

 

 ……送り主は友人だった。
 屈託のないメッセージに続いて、ラーメンの丼の写真が送られてきた。期待していた相手ではなかったものの、マイペースな友人のメッセージは心のどこかで焦燥を感じていたゼクシオンを少し和ませてくれた。それにしてもラーメンて。時計を見るともう九時を回っている。なんて自由なんだ。

 友人に返事を送ってから、トークアプリを開いたついでにゼクシオンはそこに連なるメッセージの履歴を眺める。つい今送った友人の真下に並んだ名前を見つめた。連絡をずっと待っている相手。名前を見ただけで甘い気持ちが胸中に広がる。病的だ、と思う。けれど悪い心地ではなかった。

 

 年上の恋人と交際を始めたのはつい最近のことだ。自分にとっては初めての経験だ。誰かとそういった関係になるのも、それが同性であることも。
 圧倒的経験不足で、ゼクシオンからは連絡の頻度や距離感がなかなかつかめないでいた。メッセージのやり取りも、相手が送ってくれるメッセージに自分が返事を送るばかり。忙しくなってからはそれすらも希薄になり、もうどれだけ声も聞いていないことか……。

 ……ふと、自分から電話をしてみようか、という気がもたげた。別に相手からの連絡を待つばかりでなくとも、自分から連絡を取ればいいだけの話ではないか。
 いつでも連絡して、と教えてもらった電話番号は一度も発信したことがなかったけれど、欲求に忠実な友人を見た直後だからか、なんだか背を押されたような気になっていた。時刻は九時過ぎ。仕事は終わっているだろうし、今ならまだ遅すぎることもないように思える。この欲求をどうにか鎮めない限り、もはや勉強どころではない。

 資料もパソコンも開いたまま、スマートフォンを操作して相手の電話番号を呼び出した。脳内では無意識に数字の羅列を覚えようと懸命になっている。通話ボタンを押して、耳元で響くコールの音を緊張しながら聞いていた。
 呼び出し音に合わせて深呼吸して気持ちを落ち着けよう、と息を吸い込んだ矢先、コールが途絶え『ゼクシオン?』と低い声が聞こえてきたのであわや咳き込みそうになった。

「あの、こんばんは、マールーシャ」

 慌てて相手の名前を呼びながらゼクシオンはスマートフォンを耳に押し当てる。

「今、電話しても大丈夫でしたか」
「もちろん。何かあったか?」
「何もないんですけど……」

 しどろもどろになりながら、なんと伝えていいものか頭を回転させる。

「……少し、話せたらと思って」

 相手が黙ったままだったので、ほら、最近連絡あまりしてなかったので、と取ってつけたような文言を付け足した。見る間に顔が熱くなるような、血の気の引くような、どうしようもない感覚が襲い来る。これでは相手を困らせてしまっただろうか。

「すみません、事前にメッセージ入れたほうがよかったですよね」
「え? ああ、いやすまない……嬉しくて、絶句していた」

 そう言うのに続いてふふ、と笑う声が耳元で聞こえた。目を細め微笑む表情まで、明確に脳裏に浮かんだ。充足感を噛み締める。もう、これだけでも十分すぎる。思い切ってかけてみてよかった。

「試験期間だと思うとやはり連絡をするのも気が引けてしまってな」
「……おかげさまで、さっぱり捗りませんよ」
「そうなのか? 意外だ」

 マールーシャはそうおどけてみせてから、気兼ねなく連絡を取ろう、と互いに約束をした。
 とりとめのない話題でも、会話を重ねていくうち、長らく彷徨っていた自分の感情がすとんとあるべき場所へ戻ってくるような感覚があった。焦燥はすっかり安堵に変わっていた。地に足がついたような心地で、このあとの時間はもう少しまともに机に迎えそうだ、とゼクシオンは考える。

「試験はあとは何が残っているんだ」
「一応ペーパーテストはもう終わっていて、あとはレポートがひとつ。全然捗らなくて、参ってます」
「得意そうなのにな」
「……なんだか集中できないんですよね、ここ最近」

 ほんのすこし、拗ねるような口調でゼクシオンは言う。あなたのことばかり考えて身が入らないんです、なんて口が裂けても言えないので、ほとんど八つ当たりに近かった。
 マールーシャはふむ、とだけ言うと、何やら思案に暮れているようでしばらく静かになった。

「……課題が全て終わったら、どこか遠出でもしようか」
「えっ?」
「頑張ったご褒美に。泊まりでどうだ」
「泊まり――」

 ゼクシオンはペンを取り落としていた。泊まりで過ごすなんて、交際を始めて以来初めての提案だった。

「少しやる気出たか?」
「……精一杯やらせていただきます」

 結構、と言ってからマールーシャは少し笑った。ゼクシオンは胸の内の高揚が徐々に増していくのを一人噛みしめる。
 泊まりで遠出。泊まりで遠出。浮き足立って仕方なかった。

 

 ほんの数秒間があいたのをしおに、通話の終了を申し出た。

「声を聞けて嬉しかった」
「……僕も」

 おやすみと言い合って通話を終了させた後も、ゼクシオンはしばらく耳に残る恋人の声の余韻を噛みしめる。

 交際を始めたものの、二人の関係はいまのところそれ以前と変わりなく慎ましやかなものだった。空いた時間にメッセージのやりとりをして、休みの会う日は待ち合わせをして出掛け、けれど日付が変わる前には彼に送られて自宅に戻っているのが常だった。関係性に名前が付いたところで二人の距離感があまりに変わり映えしないので、本当に恋人なのかよくわからなくなりかけていたくらいだ。

(…………まあ、キス、くらいはしたけど)

 いつも車の中で別れ際にする触れ合いを思い出して、いやいや何を考えているんだ、とゼクシオンは我に返り頭を抱える。一人で取り乱していたら隣りで資料の山が崩れ、ようやく意識は現実にかえってきた。そう、今は試験期間中。ミッションは早急にこの課題を片付けること。

 電話をする前よりかはだいぶやる気を取り戻してゼクシオンは資料に向きなおる。……が。

(泊まり……ってことは、つまり……)

 夜を過ごすということ。
 ……ひょっとして僕たちのこの関係が進展する? え? 準備とか、何をしたら? そもそも、どっちがどう??

 考えだしたら一転して再び集中力は霧散してしまった。
 恋愛奥手のゼクシオンの悩みは、まだしばらく果てることがなさそうだ。

 

20241126