にゃー。
ゼクシオンから唐突に送られてきたメッセージにマールーシャは目を瞬く。好きか嫌いかと聞かれたら嫌いではないが、その真意は。
聞くところによると、友人が旅行に出るので二晩の間預かることになったのだとゼクシオンは語った。彼が動物の世話を焼く姿は想像しづらかった。いいところで実験室のラットが関の山。白衣が似合うな……なんていう妄想はできても、猫を愛でているところなどまるで思い浮かばなかった。『触れ合ってみると案外可愛いものです』なんて文面もおおよそ彼らしくなく、マールーシャは不思議な気分で画面を見ていた。
『猫がいるので家を空けられないのですが、もしお好きでしたら遊びにきますか』
これが本題であったわけだ。遊びにくるなんていうのも初めて見た文面だ。無論いく。猫への興味より、単純に恋人の家に呼ばれたことが嬉しいのである。二つ返事で乗り気であることを伝えた。
『毛がついてもいい服装で来てくださいね。けっこう人懐こくて、すぐ膝の上に登ってくるので』
後半の文章は何やら聞き捨てならないが、了承の旨を送り終えると、マールーシャは毛玉と戯れるための服を見繕う。
……その労力が無駄になるとも知らずに。
+++
さて、ゼクシオン宅まで来たマールーシャはインターホンを押す。いつもより少し時間がかかって人の気配が近付き、玄関の鍵が回った。なかなか扉があかないのでマールーシャが扉を引くと、腕に猫を抱えたゼクシオンが立っていた。
「こんにちは。すみません、わざわざ来ていただいて」
ゼクシオンがそう言うと、マールーシャが入れるように家の中に下がった。猫はきつく抱かれたまま。想像以上の愛でようで内心驚いた。
「ずいぶん可愛がっているんだな」
「外に出たら困るので捕まえてるんです。早くドアを閉めてください」
言われるがままにマールーシャはすばやくドアの中に身を滑り込ませ鍵を回した。腕の中の猫は、人間が増えたので驚いたようにマールーシャを見上げていた。薄茶色の毛並みが美しい猫だった。灰色の瞳はガラス玉のように透き通って、じっとマールーシャを見ている。
ドアが閉まるとゼクシオンはあっけなく猫を床に放った。そんな雑な降ろし方があるか、とマールーシャの方が呆れるくらいだったけれど、降り立った猫はそのままゼクシオンの足元に擦り寄っている。懐いているのは間違いないようだ。
「なるほど人懐こい」
「可愛いでしょう」
本当に可愛いと思っているのかと疑問に思うような淡々とした調子で顔色も変えずゼクシオンは言う。
「あなた、その服で大丈夫なんですか?」
「一応どうとでもなるものにしてきた」
「すぐ毛だらけになりますよ。あまりすごいから毛取りブラシも買ったくらい」
ゼクシオンはそう言うと自分の着ているものを見下ろして裾を指して見せた。なるほど服は細かい毛がそこかしこに張り付いているようだった。
「覚悟した方がいいですよ」
「そのようだな。しかし、思った以上に人間に懐いているんだな――」
マールーシャはそう言って床に膝をつくと、できるだけ目線を猫に近付けた。そうして柔らかそうなその毛並みを撫でようと手を伸ばしたのだが……
「シャー!!」
猫は威嚇の声を発しながら毛を逆立てて後ずさり始めた。えっ、とゼクシオンとマールーシャの声が重なる。ゼクシオンの足元にすり寄っていた甘えた仕草はどこへやら、耳を後ろへ倒し、背中の毛を逆立てた猫は明らかに臨戦態勢になっていた。マールーシャのが行き場なく空中に残されている。
「ちょっと、いきなり嫌われているじゃないですか。猫と因縁でもありました?」
「そんなものあるわけないだろう」
「ああ、こんなにしっぽが膨らんでしまって」
面白いですね、とゼクシオンはスマートフォンを取り出すと写真を取り出した。おい、面白がっている状況か。
座っていると勝手に膝に乗ってきますよ、とゼクシオンに部屋に通されたが、ベッドに腰掛けたマールーシャには一向に近寄ろうとせず、いつまでたっても警戒態勢が解かれる様子はなかった。かと思えば、茶の支度を終えてゼクシオンが隣に座ればその膝にはひょいと乗りあがるのだから、どうやら人懐こいのはゼクシオン限定らしいとマールーシャは早々に白旗を上げた。
「花臭いんじゃないですか?」
「今日は何もつけていない」
膝の上の猫を特段構うこともせず、ゼクシオンはどこか愉快そうだった。彼は猫に対して非常に淡泊であったが、意外と猫にとってはゼクシオンの構い過ぎない態度の方が好ましいのかもしれない。服を選んできたのもその意味をなさない結果になってしまったな、とマールーシャは苦笑する。
猫はゼクシオンからは離れないものの、いつまでたっても同じ調子だったため、やがて退場を余儀なくされた。あまりこの状態が続いてもストレスになるだろうとのことで部屋の隅のケージの中に戻された。ケージが気に入らないのか何やらごねているような声が聞こえていたが、上からバスタオルをかけてケージを覆うと、やがて静かになった。なんだってこんな一方的に敵視されたのだろう、初対面の猫に。
「あなたが扱いに手を焼くなんて、面白いものが見れました。呼んでみて良かったです」
「お前な……」
ゼクシオンは相変わらずこの状況を愉しんでいるようだった。
「あら、拗ねちゃったんですか? 相手にされなくて」
揶揄するように言いながらゼクシオンはこちらに向かってくると、隣りではなくマールーシャの膝の上に乗った。しかも、正面から跨るように。
驚いてマールーシャが見上げると、細くなった目は蠱惑的に光って見えた。
なんと、珍しい展開もあるものだ、と思っていた矢先、ゼクシオンの目がすっと閉じて一層距離が近くなった。ゼクシオンの前髪が鼻先を掠め、渇いた唇が自分のそれと重なった。乾いた、と感じたのは触れた瞬間だけ。薄い唇の間から伸びてきた舌先が、自分と相手の境をすぐに曖昧にしていった。
どちらからともなく腕を背に回し、身体を密着させていく。触れる部分がだんだん熱を持ち、止まらなくなる。気持ちがはやる。
ゼクシオンの指が服の裾から中へと侵入した。今日はずいぶん積極的だ。彼が自分の服を脱がせようとするのをマールーシャが気分よく眺めていると、いつのまにか彼の服についた猫の毛が自分の服にもそこかしこになすりつけられていることに気付く。なるほど、確かにこれは厄介だな、と考えていると、マールーシャの視線に気付いたゼクシオンは妖艶に微笑んだ。
「言ったでしょ、『毛がついてもいい服装で来てください』って」
……どうやら服選びは無駄ではなかったらしい。
+++
「……ん、む……?」
やっと眠りに落ちた、と思った頃合いで、何物かが鼻先をこするようにして通り抜けていった気配を感じ取ってマールーシャは意識を取り戻した。照明を落とした暗い部屋の中で時計の差す時刻は読み取れないけれど、ゼクシオンとおやすみを言い合ってからまだそう時間は立っていないように思えた。彼の方は、マールーシャの腕を枕にしながら規則正しく寝息を立てている。狭いベッドで身動きが取れない中、マールーシャが暗闇に目を凝らすと、なにやらぱたぱたと毛の束が布団に当たっている。目が慣れてくると、そこにある獣の姿を認めることができた。自分でケージを開けて出てきたのか、と感心するも、そういえば水を飲みに出入りするからケージに鍵はかけていないとゼクシオンが言っていた気もする。
猫は大人しくそこに座って尻尾をパタパタと動かしながら、マールーシャのことをじっと見ているように見えた。暗闇だったからそのように見えただけで、本当は別に何も見ていなかったかもしれない。けれど、先程までの敵意はもう感じなかった。
「……彼を傷つけたりなどしないよ」
マールーシャは猫に向かってそう囁くと、空いた手を伸ばして毛並みに触れた。あたたかく柔らかな毛の感触を手のひらに感じた。流れるような毛並みを撫でていても、猫は大人しくされるがままでいた。
しばらくのあいだごろごろと満足げに喉を鳴らしていたが、きまぐれのようにひょいと向きを変えると、ゼクシオンの身体のくぼみに入り込んだ。やっぱりそっちの方がお気に入りなのだろう。念入りに布団の上を踏みしだくのにゼクシオンが身じろぎをするが、どこ吹く風である。
ほどほどにしてやれよ……とマールーシャがつぶやくのに、暗闇に目を光らせた猫は小さく鳴き声を発した。