朝を待つ話
もう、とうに寝入ったと思った相手が目を瞑ったまま声を掛けてきたので、ゼクシオンは布団の中でびくりと身を固くした。あまりに眠れないので、隣りで寝ているマールーシャの睫毛の本数でも数えてやろうかとかなり近くまで顔を寄せていた、まさにその最中だった。
「すみません……起こしましたか」
「ずっと起きていたよ」
最初から。そう言ってマールーシャはこちらに身体を返すとゆっくりと目を開いた。暗い部屋の中でも、うっすらと目の色を判別できるほど近くにいた。ひとつ布団のなか、ベッドは広々としていたけれど、二人は触れるか触れないかくらいの距離を保っている。
最初から起きていたと聞いてばつが悪くなりゼクシオンは苦笑した。
おやすみを言い合ったのはもうずいぶん前だと思う。シャワーを浴びたのはさらにそれよりも前だけれど、布団の中は未だその熱を保持しているかと思うほどあたたかい。なかなか寝付けなかったのは、慣れない体温がすぐそばにあったせいもあるかもしれない、とこっそり思う。
部屋に訪れたのも、眠るとき近くに誰かの気配があることも。そして……人前で裸になったのも。つい先ほどまで交わされていた二人の情交も、もちろんゼクシオンにとってはすべて初めての経験だった。あんなに緊張したのも、恥ずかしかったのも……幸せを感じたのも。何もかもが初めてで、身体は疲れていても脳が覚醒するのも無理ないな、とゼクシオンは冷静に考える。
マールーシャはつい先ほどまでしっかりと目を閉じていて、呼吸も静かで規則的、落ち着いて眠っているようにしか見えなかった。こっちは初めて尽くしで動揺しきりだというのに、きっと慣れたものなのだろう。年も随分と離れているし、仕方ないといえばそうだ。眠れないでいるうちに、知りもしない相手の過去を想像して勝手にもやついている自分に気付く。馬鹿な真似を。今夜彼の意識を独り占めしていたのは、他の誰でもなく自分だというのに。
そっと伸ばした足先が相手の足に触れた。こんな些細なことでまだどきどきしてしまう。当然だ。好きなのだから。
マールーシャはいたわるような眼差しでゼクシオンを見つめていた。
「どこか痛む?」
「いいえ、でも……まだ気持ちが昂っているのかも」
口にしてから、わざわざ先程の出来事のことを引き合いに出していることに気付いてゼクシオンはひとりで恥じ入った。目を合わせていられなくなり俯くと、手が伸びてきてそっと髪の毛を撫でる感触。安心する。ずっとこうしていてくれたら眠れるかもしれない……そんなこと言えないけど。
「じゃあ、いっそのこともう起きていようか」
そう言ったマールーシャの声はいつものトーンだった。考えていたことと真逆の提案に、え、とゼクシオンが聞き返した時にはマールーシャはもう身を起こしていた。
「え、でも……」
「どうせ明日は休みだし」
もちろん、そういう日を選んで泊まりに来たのだけど。
「……このまま眠るのはもったいない気がする」
マールーシャはそう言うやいなや部屋の明かりをつけた。じんわりと灯るオレンジがかった明かりに目を瞬かせる。ぼやける視界の端で、マールーシャの白い背中が見えた。眠るときは薄着だという彼が服を身につけるのを、まだ理解の追い付かない頭でぼんやりと眺めていた。本当に起きだすつもりらしい。でも、彼の意見には同意だった。眠れなかったのは、特別に過ごした夜をまだ終わらせたくなかったからなのかもしれない。このまま眠るのは、確かにもったいない。
手早く服を身に着けたマールーシャは、ゼクシオンを振り返ってに、と笑って見せた。
「いい場所があるんだ」
*
マールーシャが住んでいるマンションはそこまで高層なものではなかったけれど、彼はその最上階に住んでいた。
「実はこの部屋、屋上がある」
そう言ってマールーシャがやってきたのは、玄関だった。部屋の外に行くのかと思いきや、この時初めてゼクシオンは玄関の脇に上へと伸びる梯子があることに気付いた。壁に備え付けられている銀色の足場は、傘がかけられたりしていてすっかり生活感の中に溶け込んでいたのだ。見上げると、梯子の先は小さな足場がありドアに続いている。そこから外に出られるようだ。
「昇ったことはないんだが、そういえばこの部屋は眺望がいいという触れ込みだった。夏は花火が見えるだとか」
「なんか他人事ですね。見たことないんですか?」
相手の無頓着さにゼクシオンが苦笑していると、マールーシャは振り向いて「来年は一緒に見てくれるか」と言うので、急に他人事ではなくなってしまった。
「そう高くはないが……昇れるか? 梯子」
「馬鹿にしてます? 梯子くらい……」
むきになりかけたけれど、マールーシャはそれを制する。
「そうじゃなくて……身体、辛くないか」
「えっ……あ」
様子を窺うようにじっとこちらを見つめられると、またしても先程の出来事が脳裏に浮かんでゼクシオンは顔を赤らめる羽目になる。
「ダイジョウブ……」
「そう。ならいい」
全く、なぜ彼はこうも動じないのだ。何気ない調子ですぐに梯子に向きなおったマールーシャを、ゼクシオンは後ろから軽く睨む。
足場に掛けていた傘をわきによけると、マールーシャは梯子に足をかけて強度を確認した。しっかりと壁に固定されていて、揺れたりはしなさそうだ。大柄なマールーシャがひらと身を浮かせても動じなかった。思わずゼクシオンの方が身をすくめてしまう。
なんでもなさそうにマールーシャが軽々と梯子を上っていくのをはらはらと見送った。屋上に行くというと聞こえはいいが、ちょっとした運動じゃないか、と今更気付く。先ほどはついむきになったものの、思えばそもそも梯子なんて昇ったことあったっけ。急に心配になってきた。
あっという間に頂上へたどり着いたマールーシャは、鍵を回して扉を開けた。
「……思ったより広くはないが、まあこんなものだろう。来れるか」
扉から首だけ出して外を見まわしてから、マールーシャは階下のゼクシオンに声を掛けた。
どきどきしながらゼクシオンは手すりを握った。銀色の梯子は冷たく意識を冷ましていく。足をかけて、ゼクシオンは思い切って体を持ち上げた。みし、と音をたてて肝が冷える。おい、さっきはそんな音しなかったじゃないか。マールーシャが昇れたんだから昇れるはず、と自分に言い聞かせながら一段ずつ踏みしめるようにして昇ったら、案外すぐに上までたどり着いた。
「大丈夫?」
昇った先は狭いので、マールーシャの身体はもう半分外に出ている。身体はまだけだるさを伴っていたけれど、好奇心が勝っていた。
大丈夫、と頷くと、差し伸べられた手を取って、ゼクシオンは外へ続く扉をくぐる。
ひゅう、と掠めた風が思いのほか冷たくて、ゼクシオンは首を縮めた。
屋上……と呼ばれたその空間は思った以上に狭く、手すりに囲われた真四角の足場があるだけだった。居間に隣接したベランダよりも狭いかもしれない。大の大人が二人並ぶとほとんど満員のようになってしまった。
けれど見渡す同じ高さに障害物はほとんどなく、確かに眺望良好。住宅街だからか、この時間の明かりはまばらだ。皆寝静まっているのだろう。空はまだ暗く、星もところどころ見えた。
「確かに、いい景色」
冷たい空気を吸い込んでゼクシオンは目を細める。
「三十分くらい待てば朝日が見えるかも」
待っていられる? と聞かれてゼクシオンは頷いた。彼の言う通り、眠れぬ夜を過ごすのにこの場所はうってつけに思えた。
ぽつぽつと話をしながら欄干にもたれ、いつしか互いに寄り添っている。「寒い?」だとか「眠い?」だとか、マールーシャはゼクシオンを気遣っている様子だが、ゼクシオンはいちいち首を横に振った。心は研ぎ澄まされていた。
眠るのはもったいない、と連れ出してくれたことをありがたく思っていた。特別な夜をありきたりに終わらせるのではなく、こんな風に過ごすことができて良かったと思う。
話の折、不意にマールーシャがゼクシオンの手を握った。あまりにも自然で何気ない所作だったので、やっぱり慣れているなあ、とゼクシオンは苦笑した。マールーシャはきょとんとしている。
「あなた、ほんとこういうの慣れてますよね」
「なんのことだ?」
「こういう……手、握ったりとか」
「慣れているわけではないんだがな」
「躊躇いがなさすぎるんですよ。僕は慣れていないので、調子が狂います……けど、」
マールーシャは少し困ったような表情をしたのを見て、ゼクシオンは付け加えた。
「……別に、嫌だとは言っていません」
ゼクシオンの言葉を聞いてマールーシャは安堵したようだった。
「躊躇いがないのは認めよう。欲しいものは必ず手に入れたいし、逃がすつもりもないから」
「存外、欲張りなんですね」
「そうさ、覚悟するんだな」
ゼクシオンは微笑んだ。自然と自分も手を握り返していた。
東の空が、白み始めていく。
20241215